第11話 雨雫(3)
シェアハウスのリビングに足を踏み入れると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
朱音が中心となって用意していた四人分の豪華な夕食が、食卓を彩っていたのだ。
どうやら、自分たちのせいで瑞樹が家を出て行ったと責任を感じていた幼馴染たちは、瑞樹がいつ帰ってきてもいいようにと、毎日欠かさず瑞樹の分のご飯も温かいまま用意して、彼を待ち続けていたみたいだった。
(……申し訳ないことをした)
せめて連絡だけでも入れるべきだったと、瑞樹は深く反省しながら、朱音の手作りの麻婆豆腐と炒飯を食べていた。
自分がいない間、彼らがどれほどの不安と罪悪感に押し潰されそうになっていたか、想像に難くない。
「……ところで」
瑞樹は箸を置き、ずっと胸の奥につかえていた、一番危惧していたある一点を幼馴染たちに問うた。
「俺は……このままここで暮らしてもいいのか?」
その問いに、朱音が怒った風に眉を吊り上げて答えた。
「何言ってるの瑞樹くん。当たり前じゃん。ここが瑞樹くんの家でしょ?」
遊と一花も、「そうだそうだ」「みーくんの居場所はここだよ」と、力強く頷いた。
少し、いや、心の底から安心した。
まだ瑞樹の中で、彼らを罠に嵌め、利用しようとした罪悪感は完全に消えていないし、顔を合わせるのが居堪れない気持ちがあるのも正直なところだ。
だけど彼らは、こんな歪んだ復讐鬼だった瑞樹を許し、これからも一緒に暮らすと言ってくれた。
追い出されても仕方ないと思っていたけど、それは完全に瑞樹の杞憂に終わったのだ。
「……僕たちはね」
遊が眉を下げ、少し困った様に呟いた。
「僕たちは……やっぱり、まだ少し『変』なんだ。古河が思ってるほど狂ってはいないと思うんだけど、それでもやっぱり、過去のトラウマのせいで普通の他人とは少し違う……。だからこれからも、僕たちのことを見捨てないで、支えて欲しいんだ」
一花も遊の言葉に続いた。
「そうだよ、みーくん。みーくんがいないと、私たち不安で暴走しちゃうかもしれないから。……これからも、ずっと一緒にいてね」
心に深いトラウマと傷を抱えた幼馴染たちは、長い年月を掛けて徐々に普通になろうとしている。そしてその隣には、まだ瑞樹という存在が必要だと言ってくれている。
依存ではなく、対等な人間としての信頼。
その言葉が、瑞樹には痛いほど嬉しかった。
「……そっか……しょうがないな、お前たちは……」
結衣に言われた通り、彼らを死ぬまで完璧に管理して面倒を見ることは出来ない。
だけど、あと二年。せめて高校を卒業して、彼らが自分の足で自立して歩けるようになるまでは、一緒にいる。それまでに、彼らの心の傷を少しでも癒す手伝いをする。
瑞樹の胸の奥で、ドロドロとした黒い感情の代わりに、光り輝く新しい目標が出来た。
(今度は……ただの幼馴染として、上手く出来るかな)
瑞樹はそう心で呟き、麻婆豆腐を一口食べた。
少し辛くて、瑞樹好みの味付け。
「……美味しい」
自然と、涙が溢れそうになるほど温かい味がした。
***
夏休みが明け、二学期の始業式を終えて午後から自由となった瑞樹たち幼馴染一行は、電車に揺られて懐かしい地元に帰っていた。
目的地の家の表札には『更科』とある。
少し古いけど、あの頃からずっと変わらずそこに建っている、瑞樹の大好きだった初恋の人の住んでいた家。
瑞樹が緊張で震える指でインターホンを押すと、ガチャっと扉が開き、中から雫によく似た、優しい雰囲気の女性が出てきた。
彼女は玄関に並ぶ幼馴染たちを見て、そして先頭に立つ瑞樹を見ると、ぶわっとその瞳に大粒の涙を浮かべた。
「……みんな……」
瑞樹は姿勢をスッと正し、全員を代表して深く頭を下げる。
「ご無沙汰しております。急に押し掛けてしまって、本当にすみません……」
「いいのよ。みんな揃って……本当に久しぶりね。……どうかしたの?」
嬉しそうに彼女は笑い、ふわっと小首を傾げた。
「……雫に、大切な話をしに来ました。俺たち、みんなで」
瑞樹の決意に満ちた言葉に合わせ、後ろで立つ幼馴染たちも一斉に深く頭を下げた。
雫の母親は微笑み、「どうぞ、上がってちょうだい」と優しく中に案内してくれた。
瑞樹は数ヶ月、意図的に避けてきたこの家に入るが、何も変わっていない懐かしい光景と、微かに残る雫の匂いがして、自然と口元が綻んだ。
時が止まっているわけではない。遺された家族は、前に進むために変わらない日常を送ろうと必死に努力しているのだ。
そんな哀しくも強い思いを、雫の母親の背中からは感じた。
だから、瑞樹たちもいつまでも後ろばかり見てはいられない。前を向いて生きるために、過去の罪を清算するために、今日は来たのだ。
雫の遺影がある仏壇のある静かな和室に通され、瑞樹たちは正座で腰を下ろした。
四人は横並びで、写真の中で微笑む小さくなった雫に対峙して、静かに手を合わせる。
雫の母親も後ろで、瑞樹たちと同じ様に静かに手を合わせた。
一番最初に、震える声で話し始めたのは、遊だった。
「……更科……ごめんな……。僕は、もうちょっとちゃんと君を、君の世界を知るべきだった。自分の勝手な価値観と思い込みで君を否定して、深く傷付けて……本当にごめんっ……!」
遊の目から、後悔の涙が溢れ落ちる。
「僕のことは、絶対に許さなくていい……! だけど、古河のことは嫌いにならないであげてくれ……ごめん……ごめんなっ……!」
「遊……」
瑞樹は横目で遊を見る。肩を激しく上下させ、嗚咽を漏らして泣くその姿は、かつての他人に一切興味を示さない冷たい人間のそれとは、完全にかけ離れた血の通った人間のものだった。
「雫……あたしも、酷いこと言って、ごめんなさい……っ」
朱音が、両手で顔を覆いながら震える声で呟く。
「雫が悪いことするはずがないって、心の中ではわかってたのに……犯罪者とかいって……否定して、突き放して、ごめんなさいっ……! ほんとは、瑞樹くんと一緒にいたかったよね……? あたしが壊しちゃって、ごめんなさいっ……! ごめんなっ、さいっ……!」
朱音は嗚咽を漏らしながら、畳の上に泣き崩れた。
一花はそんな朱音の震える背中を優しく摩りながら、真っ直ぐに雫の遺影を見つめた。
「……雫ちゃん……」
ポロッと、一花から一筋の涙が落ちる。
「助けてあげられなくて、ごめんね。隣に立って、『大丈夫だよ』って言ってあげられなくてごめんね。……全部っ……雫ちゃんの気持ち、全部わかってたのに、ただ見ているだけでごめんね。……雫ちゃんの好きなもの、私も、一緒に好きになりたかったなぁっ……!」
一花も、堪えきれずに泣き崩れる。
これは、一方的な懺悔だった。
雫に赦しを乞うわけでも、その答えを求めるものでもなく。彼らが数ヶ月、重い泥のように胸の内に秘め続けてきた後悔と罪悪感を、ただ吐き出すだけの凄惨な懺悔。
幼馴染たちは、雫が死んでから今日まで一度もこの家に来ることができなかった。
それは、最愛の娘を失った雫の両親と合わせる顔がなかったから。雫が死んだ決定的な原因である自分たちが、のうのうと仏壇に手を合わせることなど許されないと思っていたから。
そして今こうして懺悔して、後ろで見ている母親からどう思われるか。
『お前たちのせいだ。帰れ。もう二度と顔も見たくない』
そう罵倒されても仕方ないと思う。だけど、この罪を自白して懺悔しなければ、自分たちは絶対に前に進めないと思ったのだ。
雫を前に、幼馴染たちは子どものように泣き崩れた。
そして最後に、瑞樹は大きく息を吐き出して、静かに話し始めた。
「……雫……久しぶり」
必死に口の端を上げたが、泣き出しそうな顔で、きっと上手く笑えていなかったかもしれない。
「今日は、みんなで、雫に謝りに来たんだ。あの日、お前に辛い思いをさせてごめんなって、それをどうしても言いに来たんだ……ごめんな、雫」
瑞樹の目から、大粒の涙が畳に落ちる。
「あの日、俺がお前の背中を押したのに……最後まで守ってやれなくてごめんな。雫が不安で震えてるのを知ってたのに、隣に寄り添い続けられなくて、ごめんな。……俺たちのことは、一生許さなくていい……ずっと恨んでていい。……でも、それでも俺たちは、前を向いて生きていかなきゃいけないんだ。だから、背負い続けるよ。雫を死なせてしまったこの重い十字架を、俺たちで一生背負って生きてくから。……それを伝えに来た……本当に、ごめんな……」
――大好きでした。
瑞樹は最後に小さく呟いて、畳に額がつくほど深く頭を下げた。
それに倣って、幼馴染たちも一斉に深く頭を下げる。
そして全員で体の向きを変え、後ろで静かに座る雫の母親に向き合った。
雫の母親は、激怒していると思った。自分の最愛の娘を殺した原因が、揃いも揃って家に上がり込み、懺悔していたのだ。目の前にいる瑞樹たちに、強烈な殺意を覚えたっておかしくない。
「……全部、俺たちが悪かったんです。雫をあんな目に遭わせて、本当に、申し訳ございませんでした」
深々と、雫の母親に向かって瑞樹たちは土下座のように頭を下げた。
「……頭をあげて?」
だけど。
頭上から降ってきたのは、怒号でも罵声でもなく。
困った様に眉を下げ、優しく微笑む彼女の温かい声だった。
そして雫のように優しく柔らかい声色で、涙を流しながら静かに話してくれた。
「……みんな、雫が死んじゃったのを自分のせいだって、ずっと責任を感じてくれてたのね? ……そっか、ごめんなさいね……それは、本当に辛かったでしょう?」
「いいえ……辛いだなんて、俺たちに思う資格はありません……」
瑞樹が顔を上げずにそう答えると、雫の母親はふわっと表情を崩した。
何故、こんなにも優しく話してくれるのか。
瑞樹も幼馴染たちも全くわからなかった。
怒られ、憎まれ、そして完全に決別させられる覚悟で来たのだ。
『お前たちのせいだ』と断罪されるために来たのだ。
なのに、彼女はどこまでも優しく、そして、どうしようもなく悲しい顔をしていた。
「そんなこと言わないで? みんなのその雫を想う温かい気持ち、私は親としてすごく嬉しい。雫は、こんないい子たちに愛されていたんだなって思う。……ずっと苦しめてしまって、ごめんなさいね? あの子、病気だったけど、みんなと一緒にいられて幸せだったと思うの」
「……えっ……?」
瑞樹は、弾かれたように顔を上げ、キョトンとする。
病気?
そんなこと、一度も聞いたことがない。
雫の母親は、驚愕する瑞樹たちの顔を見て、ふふっと寂しそうに笑った。
「あの子らしいわね……自分のこと、何も話してなかったのね?」
「はい……病気って……?」
瑞樹が縋る様に聞くと、雫の母親はゆっくりと真実を教えてくれた。
雫は生まれた時から、先天性の重い病気を患っていた。『脳動静脈奇形』といって、脳の血管の病気らしい。日常生活に支障はないが、いつ血管が破裂して死んでしまってもおかしくなかったという。
その病気が発症した箇所が悪かったみたいで、手術は不可能。だから、むしろ中学生の十五歳まで生きられたのは、医者から見ても奇跡だったらしい。
そして雫は、あの日の夜。
部屋で一人で寝ている時に、前触れもなく血管が破裂してしまい……そのまま苦しむことなく、帰らぬ人となったというのだ。
――自殺じゃなかった。
確かに、瑞樹たちはあの日、雫を深く傷付けた。
悲しい思いをさせてしまった。
だけど、それが直接的な理由で自ら命を絶ってしまったわけではなかったのだ。
病気。寿命だった。
全然知らなかった。
瑞樹も、幼馴染たちも、あのタイミングでの突然の死を、その後の罪悪感から勝手に『自分たちのせいでの自殺』だと決め込んでいたのだ。
「だから……あなたたちが責任を感じる必要は、どこにもないの。雫は、最後までみんなのことが大好きだったから」
雫の母親のその優しく、そして決定的な一言が、静寂に包まれた和室に響き渡った。
その瞬間だった。
瑞樹たちの心に三重にも四重にも巻き付いていた『人殺し』という真っ黒な呪いの鎖が、音を立てて砕け散ったのは。
「……あ……ぁ……」
朱音の口から、空気が漏れるような声がこぼれた。彼女は畳に突っ伏したまま、自分の胸の辺りの服を強く、千切れそうなほど握りしめた。
「あたしの……あたしのせいで、死んだんじゃ……なかったの……?」
震える手で顔を覆う朱音の背中が、大きく跳ねる。
彼女はずっと、自分の放った残酷な言葉が刃となって雫の首を切り裂いたのだと思い込んでいた。自分は母親と同じ、人を平気で傷つける化け物なのだと、暗闇の中で自分自身を呪い続けてきたのだ。
「……う、あぁぁぁっ……!」
張り詰めていた糸が完全に切れ、朱音は声を上げて泣き崩れた。
それは、絶望の涙ではない。果てしない罪悪感からの解放と、最愛の親友が自分を憎んで死んだわけではなかったという、圧倒的な救済の涙だった。
遊もまた、両手で顔を覆い、肩を激しく震わせていた。
「僕の、言葉のせいで……死んだんじゃない……。更科は、僕たちを恨んでなんか……っ」
常に論理的で、感情を殺して生きてきた遊が、獣のような嗚咽を漏らしている。
自分の冷たい正論が雫を絶望の淵に追いやったという事実が、彼の心を完全に壊していた。しかし、その前提が覆った今、分厚い氷の下から溢れ出したのは、純粋な大切な友を失った悲しみだけだった。
「よかった……っ。よかったぁ……っ」
一花は、朱音と遊の震える背中に両手を当てながら、ボロボロと涙をこぼして泣き笑いの表情を浮かべていた。
傍観者であった自分の弱さをどうしても許せなかった彼女もまた、深く、深い息を吐き出して、ようやくまともな呼吸ができたような顔をしていた。
そして、瑞樹は。
瑞樹は、畳に両手をついたまま、微動だにできなかった。
――自殺じゃなかった。
確かに、あの日雫を深く傷付けた。取り返しのつかないほど、悲しい思いをさせてしまった。
だけど、それが直接的な理由で、雫が自ら命を絶ってしまったわけではなかったのだ。
先天性の病気。避けられない寿命だった。
全然知らなかった。
瑞樹も、幼馴染たちも。
あの残酷すぎるタイミングでの突然の死を、その後の強烈な罪悪感と自己嫌悪から、勝手に自分たちが殺したのだと決め込んでいたのだ。
(……俺は……なんて馬鹿なことを……)
瑞樹の目から、堰き止めていた涙が滝のように溢れ出した。
この数ヶ月で瑞樹は己を冷酷な復讐鬼へと作り変え、憎悪の炎だけで生きてきた。
あいつらが雫を殺した。だからあいつらを地獄へ落とす。そして最後は、雫を守れなかった自分自身も死ぬ。
そんな狂ったシナリオを一人で書き上げ、自分と幼馴染たちを極限まで追い詰め、全てを壊そうとしていた。
だが、それは全て、瑞樹の身勝手な一人芝居だったのだ。
雫は、誰も憎んでなどいなかった。
みんなを呪って死んだわけでも、絶望の中で独り命を投げ出したわけでもなかった。
彼女は、みんなと一緒に過ごした温かい日々を、ただ大切に抱きしめたまま、静かに眠るように逝ってしまったのだ。
「っ……うぅ……あぁぁぁぁっ……!!」
瑞樹は、畳に額を擦り付け、喉の奥から絞り出すような声で号泣した。
涙が止まらなかった。
悲しい。一人で寂しい思いをさせて、死なせてしまったことが。
悔しい。最後の最後に、傷付けて終わってしまったことが。
その事実は、病気であろうと決して変わらない。
それでも。
それでもほんの少しだけ。
『俺たちが、雫を直接殺したわけじゃなくて、本当によかった』と。
そう思ってしまうのは、どうか許して欲しい。
背骨が折れるほど背負い続けたこの重すぎる罪悪感を、今だけは少し下ろして、ただの『雫の友達』として泣くことを、許して欲しい。
「みんな……本当に、よく来てくれたわね。雫も、きっと喜んでるわ」
母親の温かい手が、瑞樹の震える背中を優しく撫でた。
その慈愛に満ちた温もりに触れ、瑞樹たちはさらに声を上げて泣いた。
復讐者でも、罪人でもない。ただの、友の死を心から悼む等身大の高校生に戻って、四人は和室で身を寄せ合うようにして泣き続けた。
やがて。
どれくらいの時間が経っただろうか。
涙が枯れ果て、心が澄み切った秋の空のように穏やかな凪を迎えた頃。
瑞樹はゆっくりと顔を上げ、振り返った。
仏壇の奥。写真立ての中で、ニコニコと微笑む雫の遺影を、今度は真っ直ぐに見つめる。
(……お前は、本当に怒るのが下手くそな、優しいやつだったな)
瑞樹の脳裏に、雫と過ごしたあの頃の鮮やかな情景が蘇る。
一緒にアニメを見て笑い合った放課後。不器用に笑う彼女の横顔。オタク趣味を共有した、秘密のあの時間。
彼女が自分たちと過ごして幸せだった時間を、心に深く刻み込む。
彼女との楽しかった日々を、決して色褪せない記憶として、魂に刻み込む。
そして、彼女へのこの大きすぎる初恋の気持ちを。
憎しみや後悔の呪縛から解き放たれた、純粋な愛として、ここに置いていく。
「……大好きだったぞ、雫……」
微かな震えを帯びた、しかしはっきりとした瑞樹の言葉は。
揺らめく線香のひとすじの煙にのり、写真の中で優しく笑う雫の遺影にふわりと纏って、澄み渡る青空の向こうへと、静かに溶けて消えていった。




