第11話 雨雫(2)
夏休み最終日の夜。
どこからか秋の虫の鳴き声が微かに聞こえる、涼しい夜風の中。
瑞樹は久々に帰ってきたシェアハウスの玄関扉の前で、一つ大きな深呼吸をしていた。
今から中に入り、幼馴染たちにすべてを打ち明け、謝罪する。
ただ『ごめん』と言うだけなら普通はなんてことないことのはずだが、自分がこれまで裏で何を企み、彼女たちをどう壊そうとしてきたかを自白しなければならないのだ。事情が事情なだけに、瑞樹の足は微かに震えていた。
ごめんと謝って済む問題ではないからだ。
瑞樹は、結衣の家を出る直前のことを思い出す。
『じゃあ……行ってくる』
瑞樹が覚悟を決めてそう言うと、結衣はニコニコと笑って、玄関先で瑞樹の胸にギュッと抱きついてきた。
そして、その小さな両手で瑞樹の背中を力強く叩き、『大丈夫だよ。瑞樹くんには私がついてるからね。もし本当に追い出されたら、すぐうちにおいでね』と、冗談めかして、でも本気で優しく言ってくれた。
あの言葉が——温かい気持ちが嬉しくて。瑞樹は不思議と、逃げ出さないだけの勇気が出たのだ。
瑞樹はまた大きく息を吐いて、震える足を一歩前へ踏み出す。
鍵を開け、重い扉をくぐり、数日ぶりに、懐かしい我が家へと足を踏み入れた。
ガチャリ、と。
玄関に入った微かな音を聞きつけたのか、すぐに一花がパタパタとリビングから顔を出した。
「……み、みーくん……!?」
「一花……」
瑞樹の姿を見た瞬間、一花の大きな瞳からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「みーくんっ!!」
一花は堰き止めていた何かが決壊した様に泣きじゃくりながら、迷うことなく瑞樹の胸にドスッと飛び込んできた。
温かくて、柔らかい、懐かしい感触。
しかし、瑞樹はどう抱きしめ返していいのかわからず、両手を空で所在なく遊ばせていると。一花の大声を聞きつけた朱音と遊も、慌ててリビングから飛び出してきた。
「どうした井上っ……えっ、古河!?」
「瑞樹くんっ!!」
瑞樹の姿を認めた二人が、一花と同じ様に目に涙を浮かべ、弾かれたように飛びついてきた。
三人の体重が一度にかかり、危うく後ろに倒れそうになるのを必死に堪えながら、瑞樹はどうにか全員を受け止めた。
(……心配は、してくれていたのか)
「……ごめん、みんな……。家、空けちゃって」
「どうして……どうして連絡くれなかったのよばかっ!」
大粒の涙を流しながら、朱音は瑞樹の服の袖を何度も何度も強く引っ張る。
「本当に、心配したんだぞ……まったく……」
遊も瞳に涙を浮かべ、安堵したように息を吐きながら、瑞樹の肩にポンと手を置いた。
「ごめん……本当にごめん。……全部話すから、リビングに行こうか」
瑞樹は、込み上げる謎の感情と涙を必死に抑えながら、三人を促してリビングへと誘った。
***
食卓テーブルに四人が腰掛けた。
瑞樹がこれから話す言葉の一言一句を聞き逃すまいと、朱音も一花も遊も、真剣な面持ちで耳を傾けている。
意を決して。
瑞樹は、自分が抱えてきた復讐の計画、幼馴染たちを意図的に罠に嵌めたこと、そして、駅前でぶちまけたあの雫への想いのすべてを、包み隠さず打ち明けた。
果たして瑞樹が全てを話し終えた時。
幼馴染たち三人は、瑞樹を責めるどころか、ボロボロと泣きながら、テーブルに頭を擦り付けるようにして深く頭を下げてきた。
想像していた怒りや軽蔑の反応と全く違って、瑞樹は虚をつかれたように瞳を丸くする。
「……ちょ、ちょっと待て! 謝るのは俺の方だ! なんでお前らが頭を下げるんだ!」
朱音が、真っ赤に腫らした涙目で瑞樹を捉える。
「瑞樹くんに……そこまで苦しい思いをさせたのは、あたしのせいなの……!」
「違う! 僕が全部いけなかったんだ……全部……全部っ!」
朱音に続いて、遊も悲痛な声を上げて叫ぶ。
隣に座る一花が、瑞樹の腕をギュッと掴んで首を横に振った。
「ううん。私が一番悪いの……。みーくんは、何も悪くないよ……っ」
「お前らっ……」
腹の底から込み上がる、得体の知れない喜び。
そして彼らが自分を拒絶しなかったことへの安堵で、喉の奥が熱くなるのを感じながら、だけど瑞樹はみんなの謝罪を受け取らなかった。
受け取れるわけがなかった。
こんな自分が、彼らから簡単に許されて良いはずがなかったのだ。
「俺は、お前らを殺そうと思ってたんだぞ!? 憎んで、疎んで、騙して、利用して……あんな罠まで仕掛けて、考えうる最悪のタイミングで絶望させて殺そうとしてたんだっ!」
「……古河」
遊が、微かに震える声で優しく問いかけた。
「……アニメとか、漫画とか。……好き、なんだよね?」
「え……ああ。雫が一番好きだった趣味だ。雫と一緒に過ごす中で、俺の趣味にもなってた……。それがっ」
「……僕は、偏見を持ってたんだ」
瑞樹の言葉を遮り、遊は力強く、しかしひどく哀しげに紡いだ。
「アニメとか、漫画とか。そういうオタクの世界に、酷く偏見を持ってたんだ。だから僕はあの日……更科が僕らに打ち明けてくれたあの時、本気で更科のことが心配になった。……信じてくれないかもしれないけど、更科のことを思って、良かれと思って言ったつもりだったんだ……」
『更科は僕たちより内気な性格なんだから、趣味くらいはもっと社交的なものにした方がいいんじゃないか?』
あの時の遊は、確かにこう言った。
「だけど……その僕の無神経な言葉が、更科を深く傷付けた。僕が、更科を否定して、追い詰めて……殺したようなものなんだ……。だから古河が僕を憎んで、殺したいと思うのは、当然のことだよ」
全てを諦めた様な哀しい目から、ツーッと一筋の涙が落ちた。
「瑞樹くん……雫を殺したのは、あたしだよ……」
遊の隣で、ポロポロと涙を流す朱音が、強い眼差しを瑞樹に向けた。
「あたしも、そーゆー趣味に酷い偏見があったの。テレビで観た一部の過激な報道だけを切り取って、オタクはみんな犯罪者なんだって決めつけてたっ……」
『ダメだよ雫! そんな犯罪者が好む趣味、絶対ダメ! 雫のためにならないっ! ダメダメダメっ……!』
あの時の朱音は、確かにヒステリックにこう言った。
「だからあたしも、雫のことが心配で……このままじゃ雫が犯罪者になっちゃうって本気で思って……そしたらあたし、無意識にひどく否定してたっ……! あたしが、お母さんからされて一番嫌だった否定を……あたしは、大好きな雫にしちゃったのっ……! あたしがっ、雫を追い詰めたのっ……!」
朱音はテーブルに突っ伏し、両手で顔を覆って、こもった声で瑞樹に謝る。
「ごめんね瑞樹くん……。あたしは、瑞樹くんにどれだけ憎まれても、罠に嵌められて殺されても……文句を言えないことをしたと思ってるっ……!」
ごめんね、ごめんね、と朱音は子どものように泣き続けた。
「……朱音……」
「みーくん……みんなね、瑞樹くんと雫ちゃんが両思いだったの、知ってたんだ。だからずっと、この事はシェアハウスでは絶対に話さないでおこうって決めてたの……」
一花が姿勢を正して、膝の上で強く、白くなるほど拳を握っていた。
「みんなね、雫ちゃんを失ったのは自分たちの責任だと感じてるの……。私も……ううん、私が一番悪い……」
一花は泣きながら、瑞樹の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は何もしなかった……何も言わなかった……。みーくんに言われた通りだよ……ただの傍観者に徹してた……。雫ちゃんが傷ついてるのも、心細くて泣きそうだったのも、全部わかってたのに。……私は、その場の空気が悪くなるのが怖くて、保身のために空気を合わせようとして、ただ黙ってたっ……!」
『…………』
あの時の一花は、確かに目を逸らし、何も言わなかった。
「雫ちゃんを見殺しにしたのは私……。だから、雫ちゃんのことが大好きだったみーくんに、復讐で殺されても……私は、文句は言えない……」
一花はそう言って、また強く拳を握りしめた。ポツポツと、その小さな手に、後悔の涙が落ちる。
「お前っ……たちっ……!」
瑞樹の胸が、激しく波打った。
全員が自分に決定的な責任を感じ、全員が殺されても構わないと思うほど、あの日のことを鮮明に、熾烈に覚え、ずっと心を痛めていた。
彼らは忘れていたわけでも、我関せずと気にしていなかったわけでもなかったのだ。
皆一様に罪の意識に心を痛め、自分を責め、だけどせめて最愛の人を失った瑞樹だけは、これ以上傷つけないように守ってあげようと。
幼馴染たち三人は裏で口裏を合わし、シェアハウスでその話題には一切触れない様にしていたのだ。
瑞樹に雫を思い出させ、悲しい思いをさせたくないと。
彼らは罪悪感を押し殺して心を悪魔に預け、あえて何事もなかったかのように『楽しい日常』を送っていた。送って、それを瑞樹と共有しようと必死に努めていた。
雫を忘れなくて良い。だけどいつか、瑞樹が雫との楽しい思い出を笑顔で語り合えるようになる日まで、みんなで彼を支えよう。
幼馴染たちは、そう心に決めていたというのだ。
それが、更科雫を殺した自分たちが出来る、瑞樹への唯一の罪滅ぼしだと、本気で考えていたのだ。
その悲壮なまでの決意と罪の意識を聞いて、瑞樹はテーブルに崩れ落ちる様に泣き伏せた。
「うぅっ……! あぁぁっ……!」
――やっぱり。この復讐は、ただの身勝手な八つ当たりだったのだ。
雫の死の本当の原因から目を背けるために、彼らにすべての罪を押し付け、自分はまるで神にでもなったかのように振る舞い支配したつもりで、責任の全てから逃げようとしていたのだ。
死んで詫びたいと思うほど、自分の愚かな行いと傲慢な考え方に吐き気がした。
「遊……! 本当に怒ってないのかっ……? 俺はお前を不審者に仕立て上げて、警察まで動かして、やっと心を開きかけた両親と決別させようとしたんだぞっ!」
瑞樹が顔を上げ、涙声で遊に向かってそう問うと、遊は静かに、深く頷いて返した。
「さっきも言ったけど……そうして僕を壊したくなる古河の気持ちは、痛いほどわかるから。それにね、古河。……僕は今、両親とすごく仲良くなれたんだ。古河がいろいろと動いてくれたおかげで、結果的に僕は今、すごく幸せなんだよ」
そう言って、遊は一切の嘘偽りのない、優しい微笑みを浮かべた。
「っ……! 朱音っ!」
瑞樹が慌てて朱音に視線を向けると、朱音も涙を拭いながら笑った。
「あたしが瑞樹くんに怒るわけないじゃん。……そりゃあ、あの溝口く……あいつがやばい人ってわかっててあたしに勧めたのは、ちょっと悲しいけど……。それでも、あたしが雫にあの気持ちを抱かせちゃった責任は消せないし……だから本当に、一切怒ってないんだ」
「でも……! 俺は取り返しのつかないことをっ……」
溝口を朱音に仕向け、朱音の純情を弄ぶだけではなく、その体も決定的に傷付けたのだ。
なのに、朱音はキョトンとして首を傾げた。
「……みーくん。なんか、根本的に勘違いしてるかも。朱音ちゃんはあいつに顔を殴られたけど、それ以外は特に被害を受けてないよ?」
「……はっ?」
いや、朱音はそれだけで済んでいるはずがない。あの日彼女は服をボロボロにして絶望の顔で帰ってきて、股から血を流して……。
朱音は苦笑いし、ポリポリと恥ずかしそうに頬を掻きながら答えた。
「あー、うん……。顔へのグーパンは普通に痛かったけど、それ以外は……。まぁ、無理やり首にキスされたし、太ももとか服の上から触られたけど……ひぃっ。思い出すだけでちょっと鳥肌っ」
「じゃ、じゃあ……あの血は……?」
「ん? ああ、体に付いてた血は、あたしの口から出た血をあいつがベタベタ触ってたみたいで、それが服に付着してただけ。……えっと、その……あたしはまだ、そういうのは……処女っ……です」
カァッと顔を赤くして、朱音は恥ずかしそうに視線を逸らした。
瑞樹は、自分の耳を疑った。
信じられなかった。
自分が信じ込んできた事実と、今目の前にある現実が、決定的に違う。
「……みーくん」
くいくいっと、隣から袖を引っ張られる。
一花が、少し心配そうに瑞樹を見上げていた。
「私も……特に何か実害を受けたわけじゃないし。その、さっき聞いた恐ろしい計画? を聞いた今も、別に怒ってないよ? どちらかと言えば、巻き込んだ結衣さんにしっかり謝ってあげて欲しいかも……?」
「それは……はい……ちゃんと謝ります……」
混乱している。
何かが、決定的に違う。
なんだこれは。
「……古河」
遊が手を伸ばし、テーブルの上の瑞樹の震える手にそっと重ねた。
「古河が思ってるより、僕たちは被害を受けていないよ? 城ヶ崎は痛い思いしちゃったけど……でも、ね?」
朱音も手を伸ばし、瑞樹のもう片方の手に温かい手を重ねる。
「痛かったけど、きっと瑞樹くんが雫を失って受けた心の痛みは、もっと比べものにならないほどだったと思うの」
一花も手を伸ばし、朱音の手の上からそっと小さな手を重ねた。
「瑞樹くんが酷いことしたって思い詰めてるそれは、実はそれほど大したことじゃないんだよ? ねえ、みーくん見て? ……今の私たち、不幸せに見える?」
瑞樹はゆっくりと顔を上げて、みんなの顔を順番に見る。
目に涙を浮かべながら、でも誰もが安堵したように、幸せそうに笑っていた。
——その瞬間。
瑞樹の脳内で、これまでの記憶が強烈なフラッシュバックを起こした。
朱音が絶望の表情を——していない。
服がボロボロに——なっていない。
溝口が猟奇的な発言を——していない。
遊が絶句して両親を拒絶——していない。
「……そういうことか……はは……っ」
瑞樹は顔を伏せ、自嘲気味に笑い声を漏らした。
瑞樹は、自身の復讐計画が順調に進んでいると安心するために。
そして、その成果が出ていると感じるために、自分の脳内で無意識のうちにこうなったらいいなという都合の良い幻影を見て、幻聴として聞いていたのだ。
朱音は、溝口に殴られて顔を腫らせて、ただ泣きながら帰ってきただけだった。
溝口は、異常者ではなく、ただのヘタレで命乞いをしていただけだった。
遊は、両親に泣きつき、寂しいと素直に伝えただけだった。
分厚い霧が晴れ、真実の記憶がハッキリと瑞樹の脳裏に映し出された。
幼馴染たちは、瑞樹の仕掛けた罠によって、泣いたり悲しんだりは、確かにしていた。
しかし、人生を狂わせ、何かを決定的に失ってしまう様な絶望は、溝口を除き誰一人としてしていなかったのだ。
瑞樹にとって都合の良い『理想の復讐劇』を、瑞樹の狂った脳内だけが作り上げていただけだったのだ。
(これじゃあまるで、『あいシてるHOUSE』の、現実と妄想の区別がつかなくなった主人公そのものじゃないか……)
「ははっ! ……あはははははっ!!」
瑞樹は涙を流しながら、腹を抱えて大笑いした。
「わっ、みーくんがおかしくなった!」
「み、瑞樹くん!? 大丈夫!?」
「古河っ!?」
そっか。
そうなのか。
復讐は、全部、失敗していた。
認識は、全部、間違っていた。
全部――最初から、彼らを壊すことなんて出来ていなかったんだ。
瑞樹は、自分に重ねられたみんなの温かい手を取り、両手で強く、優しく握り返した。
「ごめん。……本当にごめん。そして、ありがとう」
憑き物が完全に落ちた、瑞樹本来の温かい本物の笑顔で言った。
「こんな最低な俺だけど……。これからも、俺の友達でいてくれるか?」
瑞樹にとって最も大切な、世界でたった三人の友達は、涙と笑顔を交えて声を揃えて答えた。
「「「もちろん!!」」」




