第11話 雨雫
瑞樹が重い瞼をゆっくりと開けると、カーテンの隙間から差し込む麗らかな太陽の日差しが、隣の空いたベッドスペースを白く照らし出していた。
シーツの皺をそっと撫でてみるが、結衣の温もりはすでに無く、彼女はもうとっくに起きているようだった。
「ふぁ……」
まだ半分夢の中にいるような眠い目を擦りながら寝室のドアを開けると、リビングからはリズミカルな電子音が微かに聞こえてきた。結衣はソファにちょこんと丸くなるように腰掛け、真剣な眼差しでテレビ画面に向かってゲームのコントローラーを操作していた。
「おはよう、結衣」
「ん、おはよう瑞樹くん」
瑞樹の声に気付くと、結衣は迷うことなくゲームをポーズ画面でストップさせ、こちらを振り返って太陽のようにニコニコと笑みを浮かべた。
「もうお昼だよ。めっちゃ寝たね」
疲れていたんだろうな、と瑞樹は自分でも思った。
昨日はいろんなことがありすぎた。幼馴染たちとの決裂、自分の抱えていた罪の告白、そして結衣との夜。体力的にも精神的にも、文字通り限界まで擦り減らした一日だったのだ。
徐々に頭が覚醒してきた瑞樹は、裸足のままペタペタとキッチンに足を運び、すっかり自分の家のように自然な動作で冷蔵庫を開ける。冷たい空気の靄と一緒に、中から麦茶のピッチャーを取り出した。
よく見ると、昨日よりもかさが増えている。結衣が朝早くに起きて、新しく作り直してくれたのだろう。
「麦茶、いるか?」
「んーん。いらなーい」
テレビ画面に視線を戻しながら、結衣は間延びした声で答えた。
瑞樹は食器棚からグラスを取り出し、自分の分だけをなみなみと注ぐと、一気に喉へと流し込んだ。
「ぷはぁっ……」
乾き切った喉の奥にキンキンに冷えた麦茶が染み渡り、体の内側からシャキッと完全に覚醒する。
瑞樹はスマホの画面をタップして改めて時刻を確認すると、既に十二時半を過ぎていた。
さすがに寝すぎだ。
「ごめん結衣。お腹空いたよな」
キッチンから申し訳なさそうに声を掛けたら、結衣はまたゲームをストップさせ、トコトコと軽い足取りでこちらにやってきた。
「どうした?」
結衣は瑞樹の顔を見上げながら、得意気に冷蔵庫の奥から大きめのタッパーを取り出した。
パカッと蓋を開けると、そこには色鮮やかな食材が綺麗に並べられていた。
細切りにされたきゅうりの緑、ハムの薄いピンク、丁寧に切り揃えられた錦糸卵の黄色、そしてみずみずしくカットされたトマトの赤。
「冷やし中華の具材……え、まさかこれ、結衣が切ったのか?」
「ふふんっ」
どうだ、思い切り褒めろとでも言わんばかりに、えっへんと小さく胸を張る結衣。
つい数週間前まで、あの乾麺をレンジで温めようとしていた結衣が、いつの間にか目覚ましい成長を遂げている。
今思えば、確かに昨日も冷蔵庫に豚肉や玉ねぎが常備されていた。だからカツ丼も作れたのだ。きちんと食材を購入して、自炊を始めた確かな証拠だった。
「ま、私も本気出せばこんなもんだよ。後は麺を茹でたらいつでも食べれるよ」
「おー……なんだろう、娘が自立してしまった父親の気分だ……」
結衣はこれまでやる気がなかっただけで、ちゃんと勉強して実践すれば出来る子だったのだ。
感心して結衣の顔をまじまじと見つめていたら、結衣が不思議そうに小首を傾げた。
「ん?」
ふと、至近距離でバチッと目が合う。
キョトンとした表情で、サラサラのショートカットの髪がふわりと靡く。
その無防備な姿と、ほのかに香る彼女のシャンプーの匂いを嗅いだ瞬間、瑞樹の脳内に昨夜のあれこれが強制的にフラッシュバックしてしまった。
暗闇の中での熱い吐息、柔らかな感触、そして——。
「っ……!」
瑞樹はカァッと顔に熱が集まるのを感じ、逃げるようにサッと顔を逸らした。
「え、何そのあからさまな反応!?」
結衣はズカズカと瑞樹のパーソナルスペースに詰め寄り、ピッタリと正面から密着してきた。
「なんで目線を逸らすのかな? んー?」
「あ、いや、近い! 今は近寄るな!」
真下から見上げてくる結衣は、小悪魔のように悪戯っぽく笑っている。
「くっつかれるの、好きなんじゃないのー? えー、なに、もしかして瑞樹くん……昨日の夜のこと思い出してるー?」
ニヤニヤと意地悪く笑う結衣の両肩を持って、瑞樹はたまらず無理やり引き剥がした。
「盛大に思い出してるところだ!」
「正直すぎるね、瑞樹くん。ははっ」
口に手を当てて楽しそうに笑い転げた後、結衣はふと自身の頬をリンゴのように赤く染めて、上目遣いでこう続けた。
「……今度は、私にしてね?」
「っ……!! なんだそのエロゲみたいな展開は! 結衣! 度が過ぎるぞ!」
「あはははっ! さー、ご飯食べよー!」
結衣は一人で楽しそうに笑うと、鍋に水を張ってコンロの火をつけ、麺を茹でる準備を始めた。
瑞樹は額に冷や汗を浮かべながら、その無邪気で恐ろしい背中をただ呆然と眺めることしかできなかった。
***
「どう? 美味しい?」
ダイニングテーブルで向かい合い、結衣が恐る恐る聞いてくる。瑞樹はツルッとした冷たい麺をゴクリと飲み込んで、大きく頷いた。
「めっちゃ美味い」
「よかったー!」
結衣は心底安心したように、パァッと口元を綻ばせた。
「乾麺をレンジで温めようとした人とは思えない成長っぷりだな。このタレも自作か?」
「タレは流石に市販品だよ。ただ、隠し味にカボスを少々絞ってみたの」
「だからか。さっぱりしてて、爽快感もある。マジで美味いよ」
市販品にアレンジまで加えている。結衣のこの凄まじい変わり様に、瑞樹は驚きと感動を隠せないでいた。
キンキンに冷えた冷やし中華を二人で楽しみながら、結衣は「ところで」と表情を少しだけ真面目なものに変え、話題を幼馴染の件へと移した。
「瑞樹くんは……これからどうしていくの?」
「まずは……謝る」
瑞樹は箸を置き、自身の両手を見つめながら静かに答えた。
「許してくれるとは到底思えないけど、俺がやってきたことを全部話して、心から謝るところから始めようと思う」
「……そうだね。確かに、幼馴染たちの雫さんへの過去の言動は褒められたものじゃないけど。それを断罪出来る権利を持っているのは、瑞樹くんでも誰でもない、雫さんだけだろうし」
「うん。俺は必要のない復讐……いや、ただの最低な八つ当たりをしてしまったからな」
瑞樹が自嘲するように言うと、結衣は優しくニコッと笑顔を向けた。
「ちゃんと反省して、ちゃんと自分の悪いところを認めて、ちゃんと謝ることができる。……前にも言ったけど、瑞樹くんのそーゆーところ、私好きだよ」
ド直球な真正面からの褒め言葉に少しむず痒くなりながら、瑞樹は照れ隠しのように小さく笑った。
「シェアハウスは? 続けるの?」
「そうだな……」
瑞樹は天井を仰ぎ見た。
幼馴染たちは、自分が完璧に管理して依存させないと、この社会で生きていけないと思っていた。それは復讐云々は抜きにして、そういう他者とは違う欠陥を持った人間たちだから、自分がどうにかして守り、管理してやらなければと思い込んでいたのだ。
しかし、実のところそこまで瑞樹が異常に気を張らなくても、彼女たちは彼女たちなりに、上手く社会に溶け込めるのかもしれないと、昨日の駅前での一件で痛感した。
これから、どうするか。
「そこは、みんなとまた腹を割って話し合ってみるよ。もし俺がもう必要なさそうなら、無理に一緒に暮らすこともないだろうしな」
「そっか。……あ、もし家追い出されたら、うちに来てもいいからね」
ニヤッと笑って冗談めかす結衣。
「……結衣と一緒に暮らしたら、俺、毎日襲っちゃうと思うけどいいのか?」
「ま、毎日っ……!?」
カァッと耳の先まで顔を赤くして狼狽える結衣に、瑞樹はお返しだと言わんばかりにニヤッと悪い笑みを浮かべた。
結衣はわかりやすく「ゴホンッ」と咳払いをして、必死に冷静を装って話を戻す。
「じゃ、じゃあまあ、明日には家に帰る感じ?」
夏休みは、あと三日後に終わる。だから、帰って話し合いをするのは三日後で良い。
「いや、もう少しいようかな。……結衣さえ良ければ、だけど」
「私は全然いいよ! あ、そうだ、それなら一緒に観てほしいアニメが溜まってるんだよ!」
ニコニコと、心から楽しそうに結衣は笑う。
『一緒にいられて嬉しい』と、その表情のすべてが雄弁に語っていた。
そして瑞樹もまた、これから数日間、この何にも代えがたい心地良い時間を彼女と過ごせるのだと思うと。重かった心に温かい光が差し込むように、自然と頬が緩んでいくのを感じていた。




