第10話 崩壊(9)
瑞樹がキッチンで作ったあり合わせのカツ丼を平らげ、結衣が風呂に入り、一息ついて二人仲良く並んで深夜アニメを鑑賞していると、気付けば時刻は時計の針が重なる十二時を過ぎていた。
「……なあ、結衣?」
「ん?」
隣でクッションを抱き抱え、ニコニコとアニメを観ている結衣に、瑞樹は恐る恐る尋ねた。
「なんか、当たり前のように俺も泊まる気でいたけど……本当にいいのか?」
「なにを今更」
結衣は視線をテレビ画面に向けたまま、悪戯っぽく笑って答えた。
「こーゆー時のために、瑞樹くん用のお泊まりセットも揃えたんだよ。だから全然いいよ。それに……瑞樹くんにも、あの幼馴染たちにも、お互いに少しクールダウンの時間は必要だと思うから」
夏休みも終盤。あと数日で二学期がスタートする。それまで、少し彼女の優しさに甘えてお世話になろうか。
それに、次にシェアハウスで幼馴染たちに会う時までに、復讐という呪いを手放した自分が彼女たちとこれからどう向き合っていくか、時間をかけて決めなければいけない。
瑞樹は、素直に甘えることにした。
「ありがとう」
「構わんよ」
結衣はそう言って、コトンと瑞樹の肩に自分の頭を寄り掛からせた。
お風呂上がりのふわりと香る結衣の甘いシャンプーの匂いが、復讐と絶望でボロボロにひび割れていた瑞樹の心に、優しく浸透していく。
やがてエンディングロールが画面に流れ終わったところで、結衣が「寝よっか」と瑞樹の手を引いた。
結衣の寝室に入ると、そこはさらに結衣の香りが濃厚に広がっていた。
「……相変わらず、小さいベッドだな」
「文句あるなら、瑞樹くんが大きいの買ってよ」
「俺が一緒に寝るのは前提なんだな?」
「っ……」
結衣は図星を突かれたように一瞬顔を赤くして、そそくさとベッドの奥に潜り込む。瑞樹も苦笑しながら、それに続くようにベッドへ入る。
夏も本番になってきて、夜は寝苦しい時期だ。薄いタオルケットだけになったそれを、瑞樹は胸の辺りまで引き上げる。
パチンと部屋の明かりが消され、暗闇の中に静かな沈黙が落ちた。
隣からは、結衣の規則正しい小さな呼吸の音が聞こえる。
やがて、その沈黙を瑞樹がポツリと破った。
「……俺のこと、嫌いにならないのか?」
「……どうして?」
「だって、俺は自分の身勝手な目的のために、結衣を利用しようとしたんだぞ。……普通は引いて、軽蔑するだろ」
「まあ……話を聞いた時は、『サイテー!』って思ったね」
そうだよな……と、瑞樹は心臓をギュッと鷲掴みにされるような感覚になる。
「でも……」
結衣は、暗闇の中で優しく続けた。
「利用しようとしたのは、オタクとして仲良くなってから思いついたことでしょ? 最初から私を騙す目的で近づいてきたわけじゃなかったみたいだし。それに、私自身には瑞樹くんに騙されて傷つけられたって感覚はないし。言ってしまえば、私を利用して一花ちゃんに嫉妬させたかっただけでしょ?」
「……うん……」
結衣の言う通りだ。結衣と仲良くしている姿を見せつけることで、一花に居場所を奪われる不安を抱かせることが目的だった。
「だから、もう別にいいかなーって。私は気にしてないよ。……だって、今日まで二人で過ごしたあの楽しかった時間は、全部本物でしょ?」
「それは、絶対に本物だ!」
ガバッと起き上がり、瑞樹は結衣の方を強く見つめた。
「ふふっ、必死すぎ。大丈夫、わかってるよ」
結衣はクスクスと笑いながら瑞樹の腕を引き、ベッドに再び寝かせる。
結衣はそのまま、瑞樹の左手をそっと取り、優しく自分の細い指を絡めてきた。
小さくて、少しだけ冷たい結衣の手が。何よりも温かく、瑞樹の凍えていた心を満たしていく。
結衣がふと、思い出したように呟いた。
「ねえ。……瑞樹くんのこと好きなの、朱音さんだよね」
ドキッと、瑞樹の胸が鳴った。
「……よくわかったな?」
「そりゃあ……駅前で、すごい親の仇みたいに睨まれてたし。多分だけど、一花さんは朱音さんから恋の相談をされてて、幼馴染として二人の間を取り持とうとして応援してた感じかな。だからこそ、ぽっと出の私の存在が許せなくて、一花さんの方があんなにすごい剣幕で食ってかかってきたのかも」
「なるほど……」
他人の感情に疎い瑞樹には全然わからなかったが、まともな女の子の感覚だとそういう図式に見えるのか。
一花が何故そこまで自分を問い詰め、食ってかかっていたのか、その理由がやっと腑に落ちた。
こうやって結衣と答え合わせをしていくと、霧がかっていた『自分が知らなかった彼女たちの感情の輪郭』が見えてくるとともに、朱音が本当に等身大の女の子として自分を好きなのだと、実感していく。
「ほんとに、不思議なほどそういうことには鈍感だね、瑞樹くん。……改めて聞くけど、朱音さんに真っ直ぐ告白されたら、どうするの?」
「いや……さっき駅前であんなブチギレ方したし、さすがにもう嫌われただろ」
「あのねー。そんなに簡単に嫌いになれないから好き、なんだよ」
結衣が握る手の力が、微かに、少しだけ強くなった。
「んー……」
瑞樹は暗闇で真面目に考えてみるが、やはり答えは変わらなかった。
「今まで俺は、あいつらを復讐の相手としてしか見てなかった……けど。今こうして呪縛が解けて、改めて考えてみても、正直……朱音にも一花にも、そういう恋愛的な感情は湧かないかな……」
彼女たちは瑞樹にとって、長年連れ添った大事な存在で、大切にしたい友達で、保護者として守ってあげたい対象である。
復讐という憎悪が無くなった今、彼女たちへ残った感情は、そういう本来の輝かしいものだけになった。この温かい感情も、嘘ではなかったみたいだ。
「そっか……。ねえ、瑞樹くん」
「ん?」
視線を横に向けると、月明かりに照らされた結衣も、こちらをじっと見ていた。
目が合うと、結衣はニシシと悪戯っぽく白い歯を出して、ハッキリと言った。
「私、朱音さんに遠慮するつもり、ないから」
そう言って宣戦布告するように笑う結衣が、瑞樹にはこの上なく愛しく思えた。
この強烈な愛しさの正体が、まだ明確にはわからないまま。だけど、自分を救ってくれた彼女に何かを返してあげたいと瑞樹は思い、空いていた右手を布団から出して、結衣の柔らかい頬に優しく触れた。
触れた瞬間。結衣は体をピクッとさせ、大きく瞳を開いた後、ゆっくりと心地よさそうに目を細めて、自分の左手を瑞樹の手に重ねてきた。
まるで大事な宝物を優しく守るようにするその姿に、瑞樹の中にもまた、優しくて柔らかい言いようの無い気持ちが限界まで溢れた。
(……抱き締めたい)
瑞樹は純粋にそう思って、口に出そうとした。
「なあ、結衣?」
「……それ、好き」
「え?」
結衣は、瑞樹の手に頬をすり寄せながら小さく呟いた。
「瑞樹くんが、優しく『結衣?』って呼んでくれるそれ。……私、すごく好き」
「な、なんだそれ? 名前なら、これからいくらでも呼ぶぞ?」
「そーゆーことじゃないよー」
言葉の裏の意味がわかっていないイタズラをする子どもを見るように、結衣はクスクスと笑った。
「くっ……わからん……。そ、それを言ったら、俺は結衣がそうやって俺にくっついてくれるの、すごく好きだな」
「最初はくっつくなって嫌がってたくせに?」
ニヤニヤと、勝ち誇ったような笑みを浮かべる結衣。
「それは……外だったし、人の目があったりしたから……ただ照れ臭かっただけだ」
「ふーん。じゃあ今は……誰も見てないね?」
そう言って笑う結衣は、ズズっと布団の中で体を寄せ、瑞樹を抱き枕のようにして全身で抱きついてきた。
「こーゆーのが好き、なんだ?」
「ちょっ……」
結衣の体のいたるところが、瑞樹の左半身にピタリと密着する。
柔らかくて、そして、ひどく熱い。
「さすがにもう、照れはない? 最近はずっとくっついてるし」
いじらしく人差し指を瑞樹の胸板でグリグリと回し、結衣は小悪魔のように悪い笑みを浮かべる。
「照れ……は、確かにあんまりない……だけど。その、お、俺の理性の方が……」
瑞樹の脳裏に、昼間の公園のチューブ型滑り台での、あの密室での出来事がフラッシュバックする。
瑞樹にとって、この暗闇のベッドでの無防備な密着は、これまで以上に刺激的で、本能と理性との過酷な戦いになってしまった。
そんな余裕のなくなった瑞樹を見て、結衣は嬉しそうに、そして最高に悪そうに微笑む。
「ねえ、瑞樹くん。……滑り台での続き、する?」
ギョッとして、瑞樹が視線を下げると、月明かりに微かに赤くなった頬を照らし出した、妖艶で、最高に可愛い顔をした結衣が、潤んだ瞳でこちらを見上げていた。
(やばいっ……!)
警鐘のように心臓が高鳴るのを必死に抑えようと目を瞑るが、視界を失った分、左半身の皮膚感覚に意識が全集中してしまい、更には滑り台での結衣の熱い吐息や艶っぽい声が瞼の裏に鮮明に映し出される。
(ダメだダメだダメだっ……! これ以上は!)
しかし、そんな瑞樹の必死の抵抗も虚しく、健全な男子高校生としての男の部分は、正直な反応を止めることが出来ない。
結衣は抱き枕のように両脚を絡めて抱きついてきているから、その細い内腿が、触って欲しくない瑞樹の急所に微かに、しかし確実に当たっている。
絶対に、この熱の変化に気付かれている。
羞恥で死にそうだ。
「あはは! 瑞樹くん、暗くてよく見えないけど、絶対顔真っ赤だよ」
瑞樹の焦燥と限界の緊張は、結衣のその無邪気な笑い声で一気に解かれた。
心臓はまだドキドキしっぱなしだが、少しずつ肩の力が抜けていく。
「くそっ。……結衣って、オタクのくせに実はエロいよな」
「女の子って、性欲ないと思ってた?」
そればっかりは、わからない。いや、それも、わからない。
「ふっつーに、男の子と同じくらいあると思うよー?」
悪戯に艶やかな笑みを浮かべる結衣に、瑞樹はまた別の感情が湧き上がってきた。
悔しい。
なんだか今日一日、この小動物にずっといいように手のひらで転がされているのが、男として無性に悔しい。
「……じゃあ」
瑞樹は、勢いよく布団の中で体を反転させて、結衣の上に覆い被さる。
「こういうことされても、余裕でいられるんだな!?」
結衣の股の間に強引に入り込み、抵抗できないように両手を手首で押さえつける。
「――っ!」
結衣はビックリしたように大きな瞳を見開き、やがて耳の先まで一気に真っ赤に染めて、パッと視線を横へ逸らした。
「ほら、前と同じ反応だな? 困るなら、俺を誘惑するな! 俺の理性はとっくに崩壊寸前です!」
「べっ、別に困ってはない、けど……っ」
「ええっ!?」
結衣は視線をチラッと瑞樹に向け、恥ずかしそうにまたすぐに逸らした。
パジャマ越しの結衣の胸が、心拍数の上昇に合わせて大きく、そして早く上下している。
顔も暗くてよくわからないが、体温が上がるのが伝わってくるほど赤く染まっている。
まさか。あの口の減らない結衣が、本当に照れているのだろうか。
あんなに余裕綽々でイジってきたくせに。
結衣は、うるうるとさせた潤んだ瞳で、瑞樹の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……私たち、まだ友達なのに……そーゆーこと、するの?」
「前科一犯だろ」
「未遂じゃん……」
「辛うじて、な」
「……」
瑞樹は、重力に逆らえず吸い込まれるように、ゆっくりと結衣の震える唇に顔を近付けた。
互いの熱い吐息が混ざり合う。
そして、唇が触れるか触れないか、というギリギリの距離の時。
結衣は、ギュッと目を瞑り、申し訳なさそうに言い放った。
「せっ、生理っ……だから……だめっ……」
「――ぐっ……!!」
瑞樹は、急ブレーキで危うく自分の舌を噛み切りそうになりながら、悲鳴にも似た重い吐息を吐き出し、ぐらんと体を横に倒して結衣から離れた。
薄暗く照らされた天井を見つめ、瑞樹はまたふぅーっと長く、絶望的な息を漏らす。
「……すごいな、その言葉。一気に理性が働く魔法の言葉だ」
「ごめっ、ごめん……」
隣の結衣は、タオルケットを口を覆うように上まで持ってきて、きゅっとダンゴムシのように身を縮めた。
「謝らなくて大丈夫。むしろ、止めてくれてありがとう。俺は今、完全に一線を越えるところだった。……ただの獣になるところだったよ」
「ごめん……ちょっと、余裕ぶってからかい過ぎた」
「ほんとだよ! 俺のこの行き場を失った悶々とした気持ちは、一体誰が解決してくれるんだ! 俺か! 結局、深夜のトイレで俺自身が解決するしかないのか!」
「心の声がめっちゃデカい声で出てる」
瑞樹は大きく深呼吸を繰り返し、下半身に集まった熱と気持ちを必死に抑えようとする。
しかしそこに、結衣がまたスルスルと近づいてきて、瑞樹の腕に抱き枕のようにくっついてきた。
「結衣さん……お願いだから、今日はもうくっつかないで。俺、本気で死んじゃう」
結衣は上から顔を覗き込んで来て、今にも泣き出しそうに悶える瑞樹の頭を、よしよしと優しく撫でた。
「瑞樹くんも、健全な男の子だもんね、ごめんね。真昼間から盛った私のせいだわ。……いっ、一応、責任は取ってあげる……から」
「……え?」
「……騒いだり暴れたり、しないでよね」
結衣は顔を林檎のように赤くさせて、何かを決意したような、ひどく艶っぽい表情を見せた。
何を言っているのか、一瞬脳の処理が追いつかなかった瑞樹だが。
布団の中に潜り込んだ彼女の手の動きで、すぐにその言葉の甘い意味を理解させられた。
そして、その最強の誘惑に、生きることを決めたばかりの瑞樹が抗えるはずもなかった。




