第10話 崩壊(8)
玄関の冷たい金属のドアノブに手をかけた瞬間、瑞樹の背中に、ドンッと小さな体がぶつかってきた。
「絶対だめ!」
結衣が、瑞樹の腰に両腕を強く回し、その背中に顔を押し当てていた。
細い腕は、瑞樹を絶対に逃がさないとばかりに、服が千切れそうなほどの強い力でギュッと組み合わされている。
「……離して、結衣」
瑞樹は、振り返らずに静かに言った。その声は自分でも驚くほど冷たく、感情が抜け落ちていた。
「離さない! こんなの勝手すぎるよ! 復讐をやめるって決めたのに、なんで瑞樹くんが一人で死ななきゃいけないの!?」
「最初から、俺は生きてちゃいけない人間だったんだよ。復讐という言い訳がなくなった今、俺が生きながらえる理由はどこにもない。……俺が死ぬことが、雫への唯一の贖罪なんだと思う」
「そんなの贖罪じゃない! ただの自己満足の逃げだって、さっき自分で気づいたばっかりじゃん! 無理! だめ!」
結衣の叫びが、薄暗い玄関に響く。
彼女の必死の引き留めは、痛いほど瑞樹の胸に突き刺さった。結衣の優しさが、今の瑞樹には眩しすぎて、直視できなかった。
瑞樹は、結衣の腕を解こうと自分の手を重ねた。
「俺みたいな殺人鬼まがいのクズに、これ以上関わるない方がいい。結衣は光の当たる世界で、真っ当に生きていくべき人間だ。俺に関わったら、君まで不幸になる」
「私がどうなるかは、私が決める! やだ! 無理! むりむりむり!」
「なっ……そんな子どもみたいに駄々を捏ねるな」
結衣はこれでもかと瑞樹の体を後ろに引く。
「やだ! 瑞樹くんがいなくなったら私また一人になるもん!」
その言葉を聞いて、瑞樹の中で何かにひびが入ったのを感じた。
これ以上、彼女の純粋な優しさに触れていたら決意が鈍ってしまう。彼女を諦めさせるためには、決定的な残酷な言葉で突き放さなければならない。
瑞樹は、結衣の腕を強引に振りほどき、振り返って彼女を見下ろした。
薄暗い玄関で、涙で顔を濡らしながらも、強い光を宿した結衣の瞳と視線が交差する。
「……そこまで言うなら」
瑞樹は、自らの心を鬼にして、絶対に彼女が頷けないであろう究極の問いを、冷酷な声で投げつけた。
「じゃあ、俺と一緒に死んでくれるか?」
それは、相手を黙らせ、絶望させるための最低の脅し文句だった。
赤の他人の、しかも今日すべてを打ち明けたばかりの狂った罪人のために、自らの命を投げ出せる人間などいるはずがない。
結衣が「そんなことできるわけない」と怯み、後ずさりした瞬間に、この扉を開けて永遠に決別するつもりだった。
そうでもしないと、揺らいでしまいそうだったから。
しかし。
結衣の瞳は、一ミリも揺らがなかった。
彼女は、瑞樹のその残酷な問いに対して、瞬き一つせず、ただ真っ直ぐに瑞樹を見つめ返して――。
「いいよ」
と、一切の迷いなく、静かに答えたのだ。
「…………え?」
予想だにしなかったその言葉に、瑞樹の思考が完全に停止した。
冷酷な仮面が剥がれ落ち、間抜けな声が漏れる。
「……い、いま、なんて……」
「だから、いいよって言ったの。一緒に死んであげる」
結衣は、一歩だけ瑞樹に近づき、その大きな瞳で瑞樹を捉えて離さなかった。
「瑞樹くんが、どうしても今すぐ死ななきゃいけないって言うなら。生きているのがどうしても苦しくて、どうしても一人で終わりにしたいなら……私が、一緒に死んであげる。あ、わかった。もし瑞樹くんが一人で死んだら、私もすぐ後追うから」
「なっ……ふざけるな!!」
瑞樹は激しく動揺し、思わず怒鳴った。
「命をなんだと思ってる!? 結衣には俺と違って、明るい未来があるんだぞ! 好きな趣味があって、真っ当な人生が待ってるのに……俺なんかのために、なんで死ねるなんて言えるんだ!!」
「なんでって……」
結衣の目から、せき止めていた涙が再びボロボロと溢れ出した。
彼女は両手をギュッと胸の前で握りしめ、瑞樹に向かって、その魂のすべてをぶつけるように叫んだ。
「瑞樹くんだからに、決まってるじゃんか……っ!!」
「――っ」
「私にとって、初めてできた、本当の自分をさらけ出せる最高のオタク友達なんだよ! 一緒にアニメ見て、ゲームして、バカみたいに笑い合って……そんな大切な友達が、一人で暗くて冷たいところに行こうとしてるのに、今更私だけが光の当たる場所で笑って生きていくなんて、絶対にできない! 瑞樹くんが死ぬなら、私も一緒に死ぬ! 一人ぼっちになんか、絶対にさせない!! 雫さんを失った瑞樹くんなら、残された人の気持ちだってわかるでしょ!? 瑞樹くんが勝手に死んだら、今度は私が罪の意識に苛まれて死ぬから」
瑞樹は、言葉を失った。
この少女は、本気だ。
瑞樹みたいな最低なクズの男のために、本気で命を捨てようとしている。
その事実が、瑞樹の心に張られていた自分は誰にも必要とされていないという呪いの壁を、跡形もなく粉砕した。
「それにね、瑞樹くん」
結衣はポロポロと涙を流しながら、瑞樹の胸ぐらを両手でギュッと掴んだ。
「瑞樹くんにはまだやらなきゃいけないことがあるんだから」
「……」
結衣は、涙で濡れた顔を上げ、瑞樹の目を真っ直ぐに見つめて、ハッキリと言い放った。
「私の小説、最後まで読んで。……死ぬのは、それを読んでからにして」
「……は?」
突然飛び出した突拍子もない提案に、瑞樹は虚を突かれた。
「……小説って、結衣が書いて投稿してるあれか……?」
そういえば、結衣は恋愛ものの小説を書いて投稿サイトにアップロードしていると言っていた。
絶対に読ませないと言っていたが、閲覧や感想も多く貰えてきていると話したのを覚えている。
「そうだよ。完結したら見せるって言ったじゃん。全部読んで感想ちょうだいよ」
「もう……完結したのか?」
「まだ! まだまだ!」
結衣は、鼻をすすりながら、真っ赤な目で無理に笑って見せた。
「完成するまでにあと数ヶ月……ううん、何年、いや、何十年もかかるかもしれない。……でも、瑞樹くんもオタクなら、最終話まで見ないと気が済まないでしょ! あらすじは教えたんだから、最後まで付き合ってよ!」
その言葉の真意に気づき、瑞樹はハッとして息を呑んだ。
雫は生前、「小説を書いてみたい」と笑っていた。
瑞樹は、それを読むことができなかった。
彼女の未来の作品を、この目で見る約束を果たせなかったのだ。
そして今、目の前にいる少女は。
『自分の小説を読むこと』を条件に、瑞樹の命を、強引にこの世界へ繋ぎ止めようとしている。
「だから……私の小説が完成して、瑞樹くんがそれを読み終わるまでは、絶対に死んじゃダメ。それにほら、男の子のリアルな心情は瑞樹くんがいないと書けないもん。完結させるには、瑞樹くんへの取材も必要だから」
なんて無茶苦茶で、不器用で、オタクらしくて……どうしようもなく優しい呪いだろうか。
結衣は、小説を言い訳にして、「生きろ」と言っているのだ。
罪を背負って泥水をすすってでも、瑞樹が生き続けるための理由を、彼女はたった今、作り出してくれた。
「……ずるいぞ、それは……」
瑞樹の目から、せき止めていたはずの熱い涙が、ついに決壊してボロボロとこぼれ落ちた。
「完成するまでどれだけ掛かるかわからない小説の感想を待てなんて……そんなの、ただの死ぬなって命令じゃないか……」
「そうだよ。だから、瑞樹くんは私の小説の執筆活動に責任持って長生きしなきゃダメ」
結衣の嗚咽混じりの声が、瑞樹の胸に深く、温かく染み込んでいく。
今度こそ、自分を罰するための涙ではなかった。
結衣が与えてくれた、この痛いほどの温もりと、理不尽なまでの救済に対する涙だった。
「……無茶苦茶だな、ほんと」
瑞樹は震える声でそう呟くと、胸ぐらを掴む結衣の手を自分の手でそっと包み込み、そのまま彼女の小さな体を、壊れないように、強く強く抱きしめた。
「……瑞樹くん……」
「読むよ。……結衣が書き上げる小説、何年かかっても、絶対に最後まで読んでやる」
瑞樹は、結衣の香りがする髪に顔を埋め、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……生きたい。俺も、結衣と一緒に……生きたい……っ。死にたくっ……なかったっ」
その言葉を聞いた瞬間、結衣の張り詰めていた糸が切れ、彼女は瑞樹の腕の中で「あぁぁっ……!」と声を上げて泣き崩れた。
瑞樹もまた、彼女の温もりを全身で感じながら、声を上げて泣いた。
薄暗い玄関で、二人はただ強く抱き合い、涙を流し続けた。
罪が消えたわけではない。
これからの人生は、決して綺麗事だけでは済まない茨の道になるだろう。
だが、瑞樹はもう、一人で暗闇へ逃げることはできない。
この腕の中にある、自分に命を預け、生きる理由をくれた少女の光とともに。
泥水をすすってでも、無様に這いつくばってでも、生きていくと誓ったのだ。
「……お腹、空いた」
ふと、瑞樹が涙声のままポツリと呟いた。
「え、さっきカフェで食べたのに?」
「泣いたら、エネルギー使ったみたいだ。……冷蔵庫、なんか食材あるか? カツ丼、作ってやるよ」
瑞樹の言葉に、結衣の目がパァッと輝いた。
「本当!? ある! 豚肉も玉ねぎも卵もある! ……あ、でも容疑者が自分でカツ丼作るのって、なんかシュールだね」
「結衣が言ったんだろ。自分で作れって」
瑞樹は結衣から体を離し、目元を袖で乱暴に拭うと、小さく笑った。
肩にのしかかっていた見えない重りが、少しだけ軽くなった気がした。
復讐をやめ、死ぬこともやめた。
それはつまり、古河瑞樹の止まっていた時間が、やっと未来に向けて動き出すことを意味していた。




