第10話 崩壊(7)
グラスの中で、半分ほど溶けかかった氷がカランと小さな音を立てた。
それが、瑞樹が自身の罪と狂気のすべてを語り終えた合図だった。
外はいつの間にか分厚い雲に覆われ、夏の夕暮れ特有の生ぬるい風が網戸を揺らしている。結衣の家のリビングは西日が遮られたせいでひどく薄暗くなっていたが、二人のうちどちらも、部屋の明かりを点けようとはしなかった。
沈黙が、鉛のように重く部屋にのしかかる。
瑞樹は、テーブルの上に置かれた自分の両手をじっと見つめていた。
この手で、何も知らない幼馴染たちを絶望の淵から突き落とし、そして最後は自分自身の首を絞める。そのための、ひどく汚れた手だ。
「……気持ち悪いだろ」
耐えきれず、瑞樹の方から沈黙を破った。
自嘲するような、ひどく乾いた声だった。
「俺は、頭がおかしいんだ。雫を死に追い込んだ幼馴染を憎んで、あいつらの人生を狂わせる計画を立てて。あいつらが俺に依存するように仕向けて……最後は全てを奪って、笑いながら殺してやろうとしていた。ただの、狂った殺人鬼だ」
結衣は何も言わない。
当然だ。普通の女子高生が、こんなサイコパスのような告白を聞かされて、気の利いた言葉を返せるわけがない。今すぐ警察に通報されてもおかしくないし、「気味が悪いから帰って」と冷たく追い出されるのが自然な流れだ。
「結衣だって、一花を絶望させるための駒として利用しようとしたんだ。……君と出会った日から、君の人の良さに漬け込んで、全部、俺の復讐の計画のために利用させてもらった。……悪かった。もう二度と、君の前に姿は現さ――」
「――馬鹿にしないでよ」
瑞樹が身を引いて立ち上がろうとした瞬間、空気を切り裂くような、低く震える声が遮った。
瑞樹がハッとして顔を上げると、テーブルの向こう側で、結衣が瑞樹を真っ直ぐに睨みつけていた。
そこに軽蔑や恐怖の色はない。彼女の大きな瞳に浮かんでいたのは、強烈な怒りと、それと同じくらいの深い悲しみだった。
「私をなんだと思ってるの。そんな自分は最低の人間ですみたいな予防線を張って、勝手に自己完結して、私から逃げようとしないでよ」
結衣は両手をテーブルにつき、グッと身を乗り出した。
「話は全部わかった。瑞樹くんがどれだけ雫さんのことを大切に思っていたかも、彼女を失ってどれだけ辛かったかも、全部。……でも瑞樹くん。その復讐、完全に八つ当たりじゃん」
「……は?」
思いもよらない角度からの言葉に、瑞樹は思わず間の抜けた声を出した。
「八つ当たりって……ふざけるな! あいつらは、雫を否定したんだぞ! 勇気を出して打ち明けた雫を、汚いものを見るような目で見て、拒絶して、見捨てたんだ! あいつらが、雫を殺したんだ!!」
瑞樹の中で、何年も抑え込んでいた殺意と自己正当化が激しく燃え上がった。目の前にいるのが、好意を抱きかけていた結衣だということも忘れ、声を荒げてテーブルを強く叩く。
しかし、結衣は全く怯まなかった。むしろ、さらに強い視線で瑞樹を射抜く。
「そうだよ、彼女たちは最低のことをのかもしれない。傍観して、否定して、雫さんを深く傷つけた。……でも、雫さんの背中を直接突き落としたわけじゃない。雫さんが絶望して、死を選んでしまった一番の理由は……」
結衣は、残酷な真実を、鋭いナイフのように瑞樹の心臓に突き立てた。
「一番味方でいてほしかった瑞樹くんが、あの日、彼女の手を離してしまったからでしょ」
「――ッ!!」
瑞樹の呼吸が、ピタリと止まった。
心臓を直接素手で握り潰されたような、致命的な激痛。
一番触れられたくない、自分でもわかっているからこそ必死に目を背け、復讐というベールで隠してきた絶対的な事実を、結衣は容赦なく抉り出してきた。
「違う……俺は……俺は……」
「違わない。瑞樹くん自身が、それを一番よくわかってるんでしょ? だから瑞樹くんは、幼馴染たちを殺した後に自分も死ぬなんて言ってるんだ。雫さんを救えなかった自分を、心の底から許せないから」
結衣の言葉が、瑞樹の防壁を次々と破壊していく。
「でも、自分が自分を許せないからって、それを幼馴染たちへの憎しみにすり替えて、彼女たちの人生をゲームみたいに壊して……最後は俺も死ぬからチャラだなんて、そんなのただの逃げだよ! 雫さんの無念を盾にした、最低の自己満足だよ!」
「黙れッ!!」
瑞樹は立ち上がり、椅子を乱暴に蹴り倒した。ガタン! と大きな音が薄暗いリビングに響く。
肩で荒い息をしながら、瑞樹は獣のように結衣を睨みつけた。
「結衣に何がわかる!! 雫が死んだ日、俺の世界の色が全部消えたんだぞ!? 俺の生きる意味は、もうあの日に全部無くなったんだ! それなのに、あいつらがのうのうと笑って生きているのが許せない! 俺だけが地獄に取り残されて、俺だけが苦しんでるのが許せない!! だから、あいつらを俺と同じ地獄に引きずり下ろしてやるんだ!! 狂ってる!? ああ、狂ってるさ! 俺はとっくの昔に壊れてるんだよ!!」
糸が切れたように、瑞樹は溜め込んでいた感情を爆発させた。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、子どものように叫び、喚く。
こんな無様な姿、誰にも見せたくなかった。完璧な復讐者でありたかった。
なのに、この少女の前では、どうしてか取り繕うことができなかった。
「俺が悪いことなんて、百も承知だ……! 俺が……俺があの時、雫の手を引いて教室を出ていれば! 俺もお前と同じオタクだって、みんなの前で言ってやれれば! 雫は……雫は死ななくて済んだのに……っ!! そんなのわかってる……わかってるんだ……」
膝から崩れ落ち、瑞樹は床に両手をついて慟哭した。
「俺が殺したんだ……。あいつらじゃない……俺が……俺が雫を殺したんだ……っ」
喉が引き裂かれそうなほどの嗚咽が、部屋に響き渡る。
復讐という名の大義名分に隠していた、瑞樹の本当の感情。
それは、幼馴染への憎悪ではなく、どこまでも深く、底なしの自分自身への強烈な殺意だった。
床に額を擦り付け、呼吸も上手くできないほどに泣きじゃくる瑞樹。
そんな彼の前に、静かな足音が近づいてきた。
結衣は、床に這いつくばる瑞樹の前に膝をつき、瑞樹の顔を無理矢理両手で持ち上げた。
結衣の瞳からも、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちていた。
「……瑞樹くんは、馬鹿だよ。本当に馬鹿。鈍感系主人公もビックリするほどだよまったく」
震える声でそう言うと、結衣は瑞樹の首に両腕を回し、その震える体を力強く、思い切り抱きしめた。
「っ……結衣……」
「雫さんは、瑞樹くんに人殺しになってほしかったの? 大好きな人に、復讐鬼になって、自分を呪って死んでほしかったの? ……違うでしょ。雫さんは、瑞樹くんに笑って生きてほしかったはずだよ。瑞樹くんが、自分の好きなものを好きって、胸を張って言えるようになってほしかったはずだよ」
結衣の熱い涙が、瑞樹の肩口にポタポタと落ちる。
結衣は、瑞樹の背中を、まるで迷子になった子どもをあやすように、何度も何度も強く摩った。
「幼馴染たちに復讐したって、雫さんは喜ばない。誰も救われない。瑞樹くんのその計画は、ただ瑞樹くんが自分自身を罰するための、壮大な言い訳だよ。……もう、やめよう? こんな悲しい八つ当たり、終わりにしよう」
「……」
結衣のその温かく、強烈な光に当てられて、瑞樹の心の中で強固に張り巡らされていた復讐という名の氷の壁が、音を立てて崩れ落ち、熱と一緒に完全に溶けていくのを感じた。
瑞樹は、結衣の小さな肩に額を押し当て、再び声を上げて泣いた。
自分を真っ向から否定し、その上で全てを受け入れて抱きしめてくれた、この理不尽なまでの救済に対する涙だった。
どれくらいの時間、そうして泣いていただろうか。
外はすっかり暗くなり、リビングは完全な闇に包まれていた。
瑞樹の嗚咽が徐々に落ち着き、肩の震えが収まってくると、結衣は瑞樹の背中をポンポンと優しく叩き、ゆっくりと体を離した。
「……落ち着いた?」
「……ああ。……ごめん、結衣の服、濡らした」
「いいよ。瑞樹くんの涙なら嫌じゃないから」
結衣は暗闇の中でふふっと笑い、目元を袖で拭った。
瑞樹も床から立ち上がり、倒れた椅子を直して、重い体を預けるように座り直した。結衣も対面の席に戻る。
「……結衣の言う通りだ」
瑞樹は、すっかり枯れ果てた声で、静かに紡いだ。
「俺は、あいつらを憎むことで、自分が雫を見殺しにしたという最大の罪から目を背けていただけだった。あいつらに復讐するという大義名分がなければ、俺はとっくに罪悪感で発狂して死んでいたから……。だから、あいつらを悪者に仕立て上げて、自分の罪を薄めようとしていたんだ」
瑞樹は、結衣の目を真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳から、幼馴染たちへ向けられていた狂気と執着は、綺麗に消え去っていた。
「……ありがとう、結衣。君のおかげで、目が覚めた。俺のやろうとしていたことは、ただの醜い八つ当たりだ。……幼馴染たちへの復讐は、もうやめる。あいつらの人生をこれ以上狂わせる権利なんて、最初から俺にはなかったんだ」
その瑞樹の言葉に、結衣の顔がパァッと明るく輝いた。
彼女は心底ホッとしたように胸をなでおろし、安堵の笑みを浮かべた。
「よかった……! 瑞樹くんがわかってくれて、本当によかった。これで、誰も傷つかなくて済む。瑞樹くんも、これでやっと普通に……」
「――だから俺は、俺だけを殺すことにする」
「…………え?」
結衣の笑顔が、凍りついたようにピタリと止まった。
瑞樹の声は、ひどく穏やかで、澄み切っていた。
憑き物が落ちたように晴れやかで、一切の迷いがない、完全な凪の状態だった。
「俺が一番悪かった。あいつらは、確かに雫を否定した。でも、それは無知や自己防衛からくるただの過ちだ。でも俺は違う。俺は、雫の本当の姿を知っていて、彼女がどれだけ追い詰められているかも知っていて、それでも自分の保身のために彼女の手を離した。……完全なる確信犯だ」
瑞樹は、自分の両手を静かに組み合わせた。
「復讐という免罪符がなくなった今、俺の罪は100%、俺自身のものになった。……あいつらを巻き込む必要はもうない。でも、その罪が消えるわけじゃない。俺が雫を殺したという事実は、何一つ変わらないんだ」
「ま、待って、瑞樹くん。何を言ってるの……? 復讐はやめるって……」
「ああ、やめるよ。あいつらにはもう何もしない。これからは普通の幼馴染として、適当に距離を置いて接するさ」
瑞樹は、結衣に向かって柔らかく、そして決定的な断絶を含んだ微笑みを向けた。
「でも、俺の命の清算は別だ。俺みたいなクズが、雫を見殺しにしておいて、これからのうのうと未来を生きて、飯を食って、笑って、歳を取っていくなんて……そんなこと、絶対に許されるわけがない」
結衣は、サァッと顔面から血の気が引いていくのを感じた。
彼女は勘違いしていたのだ。
瑞樹の死にたいという願望は、復讐という狂気とセットになった一時的なものだと思っていた。復讐という呪縛から彼を解き放てば、自然と彼自身も生きる気力を取り戻してくれると、そう信じていた。
だが、現実は全く逆だった。
復讐という外部への攻撃をやめたことで、瑞樹の抱えていた莫大な殺意と憎悪の矛先は、全て瑞樹自身という一つの的へ、完璧に集約されてしまったのだ。
「瑞樹くん……嘘でしょ? だって、雫さんはそんなこと望んでないって、さっき……」
「雫が何を望んでいるかは、もう死んだ雫にはわからない。それに、これは雫のためじゃない。俺自身のケジメの問題だ」
瑞樹は、頑なな意思を持った目で、静かに首を振った。
「結衣、本当に感謝してる。君が止めてくれなかったら、俺はただの殺人鬼として死ぬところだった。でも、君のおかげで、俺はただの罪人として、一人で静かに死ぬことができる」
「違うっ……! そんなことのために、私は止めたんじゃない……っ!」
結衣が悲痛な声を上げ、テーブル越しに手を伸ばそうとしたが、瑞樹はゆっくりと立ち上がった。
「今日はもう、帰るよ。服も濡らして悪かった。……結衣と過ごした時間、本当に楽しかった。君と出会えて、オタクでよかったと、心から思えたよ」
「瑞樹くん……だめ! いっちゃだめ!」
「さようなら、結衣」
瑞樹の瞳は、これ以上ないほどに優しく、そして、どこまでも冷たく死んでいた。
幼馴染たちへの復讐という呪いを手放し、代わりに自分自身の確実な死という最も重い十字架を背負った瑞樹の姿に、結衣は声も出せず、ただその背中が玄関の扉へ向かっていくのを、絶望的な思いで見つめることしかできなかった。




