第10話 崩壊(6)
毒々しいまでに鮮やかな紫色に染まったお湯。そこから立ち昇るラベンダーの甘い香りが充満する浴室で、瑞樹は深く、大きくため息をついた。
結衣の家の風呂。彼女の家に上がるのは何回もあったご、こうしてゆっくりと湯船に浸かるのは初めてだ。前回は、逃げるようにシャワーを借りただけだったから。
『どうせ一人でいろいろと黒いこと考え込むなら、さっさとお風呂に入りなさい! ラベンダーの入浴剤はいいよー、リラックスできるよー』
強引に背中を押すように結衣に促されて、瑞樹は珍しく素直に従ってみたのだ。
なかなかどうして、結衣の言う通りだった。頭の中でドロドロと渦巻いていた黒い感情も、殺意の熱も、お湯に溶け出すように綺麗に抜け落ちていく。それでいて、一人で静かに、これからのことを考える時間が取れる。
「さて……どうしたものか」
ポツリと呟いた自分の声が、浴室に響く。
意外なほどに冷静な自分に、瑞樹自身が一番驚いていた。
復讐の計画は、先ほどの駅前での暴発によって、全てが無に帰したと言っても過言では無かったのに、不思議と焦りやパニックは感じていなかった。
これもラベンダーの鎮静効果か、なんて馬鹿なことを思いながら、両手でお湯を掬ってゆっくりとこぼした。チャプン、と静かな水音が鳴る。
――雫の件について、ずっと腹の底に溜め込んでいた思いを、一花と朱音に明かしてしまった。
あれは明確に『俺はお前たちのことを激しく憎んでいるぞ』という意思表示でもあったし、瑞樹のあの殺意に満ちた目を見れば、それがそのまま正確に伝わったはずだ。
当然、逃げるようにシェアハウスに戻った彼女たちは、留守番をしている遊にも事の顛末を話すだろう。
これでもう、『絶対的な依存からの幸福』、『幸福からの急転直下する絶望』、そして『絶望からの死』という、瑞樹が練り上げてきた完璧なシミュレーションは再現不可能となった。
いや、いいんだ。
そもそも依存させること自体に、決定的な失敗をしていたみたいだし。
さっきまでの駅前での彼女たちの様子を見るに、瑞樹の支配に属しているような、歪んだ狂気などどこにもなかった。
ただの、ごくごく普通の恋する女子高生だった。
(一体俺は……何を見てきて、誰を相手にしてきたのだろうか)
一人で完璧な復讐劇を演じているつもりで、その実、滑稽な一人芝居を続けていただけだったのだ。
芸術的な完璧な復讐は、もう成し遂げられない。
だったら。
彼女たちを力ずくで絶望の淵に立たせ、雫の無念を語り、後悔させ、泣いて命乞いをするその無様な姿を存分に楽しんでから……最終的に、瑞樹が自ら死ぬ。
こんな感じの、身も蓋もない短絡的で最低限の復讐プランにシフトチェンジするべきだろう。
「家に帰っても気まずいだけだし。……明日、全部決行しちゃうか……」
今更シェアハウスに戻り、何事もなかったかのように優しい幼馴染の仮面を被って暮らすには無理がある。
もう、あのままごとのような夢みたいな時間は訪れない。
だったらもう、終わらせてもいいかもしれない。
ふわっと。
甘い湯気に紛れて、さっきまで隣で笑っていた結衣の顔が脳裏に浮かんだ。
「……結衣と、出会わなければ良かったかもな」
胸の奥に、チクリとした痛みを伴う後悔がよぎる。
結衣との、他愛のない楽しい時間。自分のどうしようもないボケに、心底楽しそうに笑ってくれる結衣の顔。
オタク趣味があることも相まって、かつて大好きだった『雫』の面影と重なり……このまま結衣との時間を手放して死ぬことに、強く後悔している自分がいる。
どうやら古河瑞樹という男は、自分の感情に対しては致命的に鈍感らしいから、ハッキリとはまだわからないけれど。
きっと、結衣に強く惹かれていたのだろう。
どれだけ嘘と殺意にまみれた数ヶ月でも、彼女と過ごした時間だけは本物だと思えたから。
でも、まあ。
これで自分だけが生き残り、彼女と幸せな人生を送ろうなんて、虫が良すぎる。
どれだけ迷い、後悔し、葛藤したとしても。大好きな女の子を見殺しにした『自分自身を殺す』という未来の結末を変えることはない。
たとえ世界中の人間が瑞樹の罪を許してくれたって、瑞樹自身が、瑞樹を許すことなんて絶対に出来ないのだ。
この復讐は、すべてを壊し、瑞樹が死ぬことで初めて完遂する。
***
瑞樹が風呂から上がり、髪をタオルで拭きながらリビングに入ると、結衣は食卓テーブルに両肘をついて、何やら深刻に考え込んでいる様子だった。
「……ありがとう。すっきりしたよ」
瑞樹がお礼を言うと、結衣はハッとして顔を上げ、ニコッと笑って目の前の席をスッと手で示した。
『座って』という無言の合図だ。
おずおずと対面の椅子に着席する瑞樹を横目で見ながら、結衣はキッチンに立ち、冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶をグラスに二人分注ぐ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
カラン、と氷の涼しげな音が鳴る。
結衣は瑞樹の正面に座り直すと、テーブルに両肘をついて、顎を手のひらに乗せた。
「さて、瑞樹くん。尋問の時間だよ」
ニコニコと、しかし有無を言わさぬ迫力でおっかないことを言う結衣だが、なんとなくそうなるだろうなと瑞樹は風呂の中で予想していた。
「……カツ丼は出ないのか?」
「瑞樹くんがキッチンで作ってくれたら出るよ」
「取調べ室で、まさかの容疑者自炊!?」
「ふふっ」
瑞樹の精一杯の冗談に、結衣は小さく吹き出した後、すぐに真剣な眼差しに戻り、瑞樹の逃げ場を塞ぐように、その暗い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……話したくないなら無理しないで、と言いたいところだけど。ごめん、もう無理。さっきの駅での瑞樹くんのあの顔を見たら、友達として放って置けないかな」
あれは、とても幼馴染に向けるような顔じゃなかったよ。
結衣は、静かに、しかし確かな震えを含んだ声でそう付け足した。人を殺しかねないほどの憎悪の顔を、彼女は間近で見てしまったのだ。
「幼馴染たちとの間に、過去に何があったの? さっき言ってた雫さんって誰? ……瑞樹くんは、一人で何を抱えてるの?」
「……」
瑞樹は、冷たいグラスの水滴を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「聞きたいことが簡潔にまとまってて、助かるよ。……わかった。全部話す」
きっと、結衣とのこの心地よい関係は、これでお終いだ。
こんな薄汚れた殺人鬼の思考を知れば、太陽のような彼女は確実に離れていく。
その絶望的な寂しさを噛み殺しながら、瑞樹は重い口を開いた。
瑞樹は、幼稚園時代まで記憶を遡り、幼馴染たちとの出会いから今に至るまでの『すべて』を話した。
彼らが抱えている、他とは違う特殊な性質とトラウマのこと。
そして、誰よりも普通の女の子で、優しくて、内気で、オタクだった更科雫のこと。
雫と瑞樹の、秘密の共有と初恋の関係。
雫が命を絶った、残酷な原因。
瑞樹の内側に秘めて腐らせていた、果てしない後悔と懺悔。
更には、幼馴染たちへ向けているドス黒い純度100%の殺意と、これまで水面下で行ってきた復讐と支配の数々。
自分の醜さも、狂気も、死への渇望も。
その一切を隠すことなく、全ての真実を、瑞樹は結衣に明かした。




