第10話 崩壊(5)
もし神様なんてものが存在するのだとしたら、これは間違いなく悪意に満ちた悪戯だと、瑞樹は焦りの中で冷静にそう思った。
「……あれ、みーくん?」
「……瑞樹くん?」
カフェを出て、結衣と仲良く手を繋いで歩いていたまさにその時。
あと数十メートルも進めば結衣のマンションに辿り着くところだった。なのに、瑞樹の視界に、ここで遭遇することなんて微塵も想定していなかった二人の少女の姿が飛び込んできたのだ。
井上一花と、城ヶ崎朱音。
「お前たち……なんでこんなところに……」
二人は、道の先にあるコンビニから丁度出てきたところだった。
片手にコンビニの冷たいアイスコーヒー、もう片方の手にはこの街にしかない個人店がやっているアパレルショップのロゴが入った紙袋を提げている。
おおよそ、二人で電車に乗って休日の買い物に出てきた帰りなのだろう。
しかし、よりにもよって結衣のマンションのすぐ近くのこんな裏道で鉢合わせるなど、一体どんな確率だというのか。
二人の幼馴染の視線が、繋がれた自分たちの手に注がれていることに気づく。
空気を察した結衣が、パッと繋いでいた手を素早く離して、隠すように後ろ手に組んだ。
「……その子が、みーくんのお友達?」
一花がアイスコーヒーのストローを咥えながら、ニコニコと、しかし目の奥は全く笑っていない表情で近寄ってきた。
その後ろで、朱音はあからさまに不機嫌そうな視線で結衣の頭からつま先までを睨みつけている。
「……水橋結衣、です。瑞樹くんの、友達です」
結衣は一歩下がり、瑞樹の後ろから礼儀正しくペコリと頭を下げる。
「私は一花だよ。井上一花。こっちは城ヶ崎朱音ちゃん」
「……ども」
普段は誰にでも愛想を振りまく陽キャの皮を被った朱音が、まるで人見知りをする不機嫌な小学生のように、わかりやすく結衣からチッと視線を逸らした。
空気は、最悪だった。
一花はズカズカと結衣のパーソナルスペースに踏み込み、結衣の首元まで顔を近づけて、犬のようにクンクンと匂いを嗅いだ。
そして、何かを理解したように、後ろの朱音に向かって深く頷いた。
結衣は突然の行動にされるがままだったが、一花の甘い香りを嗅いで「あっ」と何かを察したように瑞樹の顔を見た。
「おい、一花」
いきなり初対面の相手の匂いを嗅ぐなんて失礼なことをしている一花を咎めようとしたが、彼女は瑞樹の言葉を無視して冷たく続けた。
「……たまに、みーくんからする匂いと一緒だー」
そして一花は、今度は瑞樹の服の匂いもクンクンと嗅ぐと、瑞樹と結衣を冷たい目で見下すように一瞥した。
「今日もまた一段と、匂いの交換してるね。そんなに互いの匂いが移るくらい密着してくっついてるんだ? 毎回毎回。……よっぽど仲良いんだね? さっき、手も繋いでたし」
なんだこれは。
まるで、浮気現場を押さえられた夫ではないか。
別に悪いことなんて何一つしていないのに、圧倒的に詰められている気分になる。
結衣も居堪れない様子で、瑞樹の後ろで黙って俯いていた。
「……おい一花。そういう言い方、気分悪いぞ」
我慢ならなくなり、瑞樹は一花と結衣の間に体を入れ、結衣を庇うように立った。
「ふーん……。じゃあ、みーくんがちゃんと説明してよ。その結衣さんとは、本当はどういう関係なの?」
瑞樹を睨みつけ、強気の姿勢を見せる一花。
後ろでは相変わらず、腕を組んで結衣を睨みつける朱音。
そこで、瑞樹はある決定的な違和感に気付く。
(あれ……?)
なんで一花は、見捨てられる不安に駆られてその場で泣き出したり、パニックにならないんだ?
なんで朱音は、過呼吸になってヒステリックを起こす様子もないんだ?
この現状は、一花と朱音にとって絶対的な依存先である瑞樹が、見知らぬ女性と何やら深い関係がありそうだという、彼女たちにとっては最大の不安と恐怖を煽るような場面のはずだ。
瑞樹が取られてしまうと錯乱し、泣き喚いてすがりついてきてもおかしくない。
それなのに。
今、目の前に立って瑞樹を問い詰めている一花と朱音の姿は、少し嫉妬深く、彼氏の浮気を疑って怒っている普通の女子高生のように見えてしまった。
精神的な異常性も、自己破壊的な狂気も孕んでいない。ただの等身大の恋する女の子。
――ああ。やっぱり、今日結衣が危惧していたことは、その通りだったのだと、図らずともこの最悪のタイミングで証明されてしまった。
彼女たちは、瑞樹に狂気的な依存なんてしていなかった。
全て、瑞樹の傲慢な思い込みだったのか。
「みーくん? 黙ってないで、教えてよ」
「瑞樹くん……あたしも、知りたい」
一花に続いて、朱音も一歩前に出る。
瑞樹は背中に隠れる結衣の方を振り返ると、結衣は変わらず俯いて小さくなっていた。
これ以上は、見ず知らずの彼女たちの修羅場に巻き込まれた結衣が可哀想だ。
結衣から何か弁明できることはない。ただただ瑞樹と結衣はオタクの友達で、お互いにちょっと距離感がバグってるだけなのだ。
ただ、それを正直に伝えても、嫉妬に駆られた彼女たちには納得してもらえそうにない。
それなら。
いっそ結衣は俺の彼女だと言い切ってしまった方が、この場は丸く収まる気もしたが、結衣に迷惑がかかるし、何より計画外のことはまだしたくなかった。
だから瑞樹は打算的に、だけど一つの大きな思い切りを持って、ここで告白することを選んだ。
爆弾を、自ら投下する。
話の意識を、完全に逸らす。
結衣との関係を守るために、結衣との真実の関係を明かす。
「……俺…………アニメとか漫画が大好きな、『オタク』なんだ」
ピタリと、時が止まった。
一花と朱音は、ギョッとしたように目を見開いて瑞樹を見つめ、追求の言葉が完全に止まった。
瑞樹の背中からも、結衣が息を呑む音が聞こえた。
「毎晩のように深夜アニメ観るし、可愛い二次元の女の子キャラが大好きなんだ。……結衣は、そんな俺のオタク活動で出会った、ただの趣味の友達だ」
幼馴染たちは、かつて瑞樹の最愛の人だった『更科雫』が、勇気を出して同じようにオタク趣味があることを明かした時。残酷に否定し、気味悪がり、認めようとしなかった。
だから今回も、同じように瑞樹を否定し、「そんな気持ち悪い趣味はやめた方が良い」と咎めてくるに違いない。
『気持ち悪い』。『そんな人だと思わなかった』。そうやって彼女たちの攻撃の標的を瑞樹自身に向けて、結衣への嫉妬から逸らすのが目的だった。
(ああ……これは復讐の計画としては、自分の立場を下げる悪手この上ない……やっちまったか)
でも、結衣だけは守りたかった。
しかし。
「……だ、だから、何?」
沈黙の後。一花から、戸惑ったような声が出てきた。
「えっ……?」
予想していた嫌悪の反応とは、なんか違う気がした。
朱音はさらに一歩前に出て、瑞樹の目を真っ直ぐに見つめる。
「瑞樹くんがどんな趣味を持ってても、あたしたちは……瑞樹くんが大切だよ」
朱音も少し戸惑いながら、オタクへの偏見など微塵も感じさせない声で、そんなことを言う。
「みーくんはみーくんだもん。趣味がどうであれ、大好きだよ。……だからこそ、その結衣さんとの本当の関係が気になったんだよ」
心配するように眉を下げる一花。
「教えて、瑞樹くん。オタク友達なのはわかったよ。でも、ただの友達には見えなかったから……」
朱音は、嫉妬と不安で今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で、瑞樹を見つめ上げてくる。
「……なんで……」
カチャン、と。
瑞樹の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
胸の奥底で、ドロドロとした真っ黒な感情が激しく渦巻く。
今にも溢れ出しそうなほど、マグマのように膨張し、爆発しそうになる。
(……これはダメだ)
耐えられない。
出てしまう。
人がいっぱいいる往来だ。
結衣も後ろにいる。
でも、無理だ。
「瑞樹くん……? なんで、泣いてるの?」
「……はっ?」
(泣いてる? 俺が?)
朱音に言われて、自分の頬を触ってみると。確かに、ボロボロと止めどなく涙がこぼれ落ちていた。
背後にいた結衣が、異変を察して勢い良く前に回り込んで来て、瑞樹の顔を下から見上げる。
「瑞樹くん、大丈夫……っ!?」
「結衣……」
一瞬、堰き止められると思った。
結衣の、純粋に自分を心配そうに見つめてくる顔を見て。溢れ出しそうなこの真っ黒な感情を、なんとか止められると思った。
でも、一度沸点に達した熱湯がすぐには冷めないように。瑞樹の腹の底で煮えたぎる憎悪と殺意に塗れたこの気持ちも、簡単には冷めなかった。
気付けばもう、勝手に口が動いていた。
「――だったらなんで、その言葉を、雫にも言ってやらなかったんだ」
瑞樹の瞳から、スッと一切の光が消えた。
むき出しの悪意と殺意に満ちた絶対零度の空気が、一花と朱音に真っ直ぐに向けられる。
彼女たちは、今まで見たこともない瑞樹の恐ろしい雰囲気にたじろぐも、それよりも瑞樹の放った言葉に、顔を蒼白にさせて身を縮めた。
「なんでその優しい態度を、雫に見せなかった! どうして今出来たことが、あの時雫にも出来なかった!!」
雫を残酷に否定し、絶望させて拒絶したはずの彼女たちが。何故、同じオタク趣味をカミングアウトした自分には、同じように突き放さなかったのか。
そんな優しい受容が出来るなら。雫が勇気を出したあの日にも、同じことが出来ただろう。
「み、みーくん……それは……っ」
「黙れ一花。お前は傍観者だったな? 何も言わず、何もしなかった。雫が必死に伸ばした助けの手を、自分の保身のために見て見ぬ振りをした! ……そんなお前が、なんで俺には優しい態度を取れる!? なんであの日に同じことをしなかった!!」
一花がガタガタと震え、恐怖で後ずさりする。
瑞樹は血走った目で涙を流しながら、隣の朱音に視線を向ける。朱音はヒッと悲鳴を上げ、胸の前でコーヒーのカップを潰れそうなほど強く握りしめる。
「朱音。オタク趣味は『犯罪者が好む気持ち悪い趣味』なんじゃないのか!? なんで俺にはそうやって汚いものを見る目で否定しなかった!? なんで雫には、大切な友達だって言ってやらなかったんだ!?」
瑞樹は絶望した顔で、震える二人を冷酷に見下ろした。
もう、全てぶちまけてやろうと思った。
計画? 知るか。
復讐? もうどうでもいい。
今目の前にいる二人が。二人のこの身勝手な言動が。どうしても許せなかった。
もう、どうとでもなれ。
「雫が死んだのは……おまっ――!」
「――瑞樹くん、ストップ。顔、おっかないよ」
ギュッ! と。
結衣が、振り上げようとした瑞樹の右手を両手で強く掴み、下からニコニコと笑いかけた。
スッーっと。何かが濾過されていくように、頭の血が下がり、落ち着きを取り戻す。
そして自分が過呼吸のように息を吸うことを忘れていたことに気付き、焦って肺に大きく空気を入れる。
肩でゼェゼェと呼吸し、息を整える。
結衣は瑞樹の背中を優しく摩りながら、一花と朱音に向き直った。
「井上さんと、城ヶ崎さん。……事情はよくわかりませんが、瑞樹くんが今日はそちらのお家に帰らない方がいいだろうってのは、雰囲気でわかります。……うちでしばらく泊まらせますね。彼が落ち着いたら、後で送り届けますから」
二人は顔面蒼白のまま、呆然と立ち尽くす。
豹変した瑞樹にも、立ちはだかる結衣にも、何も言い返すことが出来ずに、ただ恐怖と罪悪感に震えて立っていた。
そんな二人に、結衣は全くブレない、営業スマイルのような笑顔を向ける。
「あ、それと。お二人が心配してるような関係では全くないので、そこは安心してください。……本当に私たちは、ただのオタクの友達ですので」
結衣は、自分の心臓がギュッと握り潰されたように痛むのを感じながら、力なく立ち尽くす瑞樹の手を強く引き、二人の幼馴染の横を足早に通り過ぎた。




