第10話 崩壊(3)
公園から逃げるように離れた瑞樹と結衣は、まるで先ほどの出来事など何事もなかったかのように、仲良く手を繋いで歩いていた。
「今日も青空が綺麗ですね、瑞樹くん」
「そうですね。こんな日はピクニックにでも行きたいですね、結衣さん」
しばらく無言だった二人は、そんなお見合いのようなぎこちない会話を延々と繰り返していた。
照りつける真夏の太陽が二人をじりじりと刺し、ジワリと滲む額の汗が果たして暑さのせいなのか、それとも先ほどの熱のせいなのか、もはや誰にもわからない。
唯一わかるのは、この空気感が最高に気まずいということだけだ。
しかし、さすがの瑞樹も、そして結衣も、この息の詰まる雰囲気に晒され続けるのは限界だった。
先にその沈黙を壊したのは、結衣だった。
「……ごめん。ムラついた。真昼間の公園なのに」
結衣は繋いだ手を揺らしながら顔を伏せて、表情を悟られないように小さな声でそう呟いた。
「……俺も、ごめん」
瑞樹も、素直に自分の非を認めて謝る。
「抵抗しようと思えばいくらでも出来たのに、しなかった。いいかなって、思っちゃったところはある。……白昼堂々の、公園なのに」
まだ心臓がドクドクと警鐘のように鳴っている。繋いでいる手のひらを通じて、この情けない鼓動が結衣にまで届いているのではと不安になるレベルだった。
あの暗闇の中での瞬間は、お互いに本当にどうかしていた。
「恥ずかしくて、死にそうだ」
瑞樹が本音を漏らすと、結衣がふいっと顔を上げて見上げてきた。
「死なないから大丈夫だよ。ついでに言うと、全然引いてないから大丈夫」
結衣はまだ熱の残る頬を赤らめて、少し照れたように優しく笑った。
「それは助かるけど、ついでにって前置きが引っかかる。ちなみに、俺も結衣に引いてないから大丈夫」
「ちなまないでよ。……でもありがと、助かる」
結衣が、ホッとしたように瑞樹の腕によしかかってきた。
いつもの、ゼロ距離の心地よい距離感だ。
まだ少しだけ気まずい。だけどきっと、すぐにいつもの軽口を叩き合う二人に戻るのだ。
それまでもう少しだけ、この甘い気まずさと淡い記憶を、大事に楽しむことにした。
***
結衣の街の駅前カフェに着くと、お昼の繁忙のピークを過ぎたのか、お客さんもチラホラといる程度で、穏やかで落ち着いた雰囲気が漂っていた。
案内のホールスタッフに奥のボックス席に座るよう促され、結衣は向かい側ではなく、いつものように瑞樹のすぐ隣にピッタリとくっついて座った。
それを見た若いスタッフは、「えっ」と一瞬時が止まったように静止したが、すぐに微笑ましいものを見るような笑顔を向けてきた。
『とっても仲良しですねー』なんて、スタッフの心の声がハッキリと聞こえた気がした。
瑞樹はそれに気づかないふりをしながら、メニューを眺めた。
「なあ結衣。すごくお腹空いたから、普通に飯食っていい?」
「奇遇だね。私も全く同じこと考えてた」
このカフェは、SNS映えするお洒落なパンケーキがオススメの店だった。カフェ利用するほとんどの女性客は、そのパンケーキとコーヒーを目当てに来ることが多いらしい。
事前に店の情報を貰っていた瑞樹は、初めての店だし、オススメと言われているパンケーキにしようかと思っていたが。
どうやら先ほど公園で無駄に体力と精神力を消費したせいで、腹の虫は甘いお菓子など許さないようだった。
ガッツリと炭水化物を食いたい、と。
「俺は、昔ながらのナポリタンとコーヒーのセットにしよう。……大盛りで」
「私は、濃厚カルボナーラとカフェオレのセット。サラダとスープ付きで」
「ガッツリだな」
「ガッツリだね」
二人は目を合わせて、さっきまでの気まずさを吹き飛ばすように笑い合った。
しばらくして注文した熱々の料理が届くと、二人は無心で食べた。
半分ほど食べ進めたところで、味変と称してお互いのパスタを皿ごと交換して少しずつ食べてみたり、結衣が「苦手……」と避けたサラダのミニトマトを瑞樹が食べてあげたり、「やっぱり、前に瑞樹くんが家で作ってくれたボロネーゼの方が美味しいな」「嬉しいこと言ってくれるね。じゃあ今度また作ってやるよ」なんてやり取りをしたり。
そんな風にして、穏やかで温かい食事の時間を楽しんでいた。
「ふう」
瑞樹は食後のアイスコーヒーを一口飲み、ボックス席の背もたれに深く背中を預けた。
まだ少し残っているパスタとスープを美味しそうに食べる結衣を横目で見ながら、瑞樹は今日の本当の目的を思い出す。
ただただ、彼女と遊びに来たわけではない。
瑞樹は昨夜、盤面が崩れる恐怖から居ても立っても居られず、思わず構ってちゃんを発動してしまったあの相談を、結衣に聞いてもらうためにここへ来たのだ。
自分の意のままに支配し、理解し、完全に依存させていたと思っていたはずの幼馴染が、実は瑞樹の意図しない自立した感情を持っていたかもしれない。
それが、酷く怖い。
そんな話だ。
でも、当然だが全てを事細かに話すわけにもいかない。
瑞樹の狂った復讐劇は、瑞樹の中だけに絶対の秘密として収めておかないといけない。
結衣だって、一花を壊すための計画の駒にしてしまっているのだから、尚更だ。
(どこまでを、どうやって話そうか……)
そんなことを深刻に考えていたら、いつの間にか食べ終わった結衣が、くいっと下から顔を覗き込んできた。
「難しい顔して、どうしたの瑞樹くん」
ご馳走様、と綺麗に手を合わせて、結衣は甘いカフェオレを一口飲んだ。
結衣はそのまま、コトンと瑞樹の肩に自分の頭を乗せて、満足したように大きく息を吐いた後、緊張を解すような安心させる声色で静かに呟いた。
「……話したくなかったら、無理しなくていいよ? 今日はこうして、久々に会えただけで嬉しかったから」
そんな優しい提案に、甘えて乗ってしまおうかと一瞬心が揺れた。だけど、この不安の正体を知りたいという気持ちも嘘ではなかったから、瑞樹は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「昨日のチャットの話……同居してる、幼馴染のことなんだ」
結衣は相槌を打つ代わりに、キュッと瑞樹へ更に体重を預け、聞いてるよと合図を送った。
「俺は、その幼馴染のことを誰よりも理解してるつもりで。思考とか、行動原理とか……『こうしたらこう思うよな』とか、『こういうことをしたらこういう行動に出るよな』とか、全部完璧にわかってるつもりだったんだ」
瑞樹は、結衣が居ない側の左手でアイスコーヒーのグラスを持ち、表面に浮かんだ水滴を親指で無意識に撫でた。
「……良い言い方じゃないけど、支配してるつもりだった。前も少し言ったと思うけど、性格に難のある子たちだから、社会で生きてくのに不便なんだ。だから……えっと……」
「取り繕うとしなくて大丈夫だよ。引かないから」
言葉に詰まる瑞樹を見て、結衣はニコッと笑う。
スッと肩の重い荷が降りたように感じて、瑞樹は頷いた。
「……俺が、ある程度コントロールしてあげないといけなくて。俺の判断で、俺の思うようにその子を操ってたんだ。そして、そのコントロールをより確実にするために、ある程度俺に依存もさせた。瑞樹がいないと生きていけないって、そう思うように……」
結衣は隣で、茶化すことなく真剣な眼差しで瑞樹を見つめている。
「でも、昨日……幼馴染のその子が、俺のことを好きかもしれないって、別の幼馴染に言われたんだ。そんな風に仕向けた覚えは一切ないのに、俺の意図しない感情を抱かせていたんだ」
瑞樹の額から、ジワリと冷たい汗が滴り落ちる。
「どうやら、その別の幼馴染によると、その子が俺に対して好意があったのは一目瞭然だったらしい。しかも、そんな分かりやすい言動をする性格ってのは、昔からずっとそうだったらしくて……。そして俺は俺で、昔からそういう他人の感情の機微に鈍感だったみたいで……」
「……割れちゃうよ」
結衣が、瑞樹の左手にそっと自分の右の手のひらを乗せてきた。
気がつけば、瑞樹はコーヒーのグラスを握り潰しそうなほどの異常な力で強く握りしめていた。
「わ、わるい」
「うん」
結衣が少し姿勢を正して座り直したところで、タイミング良く店員がやってきて、食事を終えた食器をテーブルから下げていく。
しばらくその動きを無言で見つめ、全て下げ終わって再び二人きりになったところで、結衣が静かに口を開いた。
「瑞樹くんは、その子たちのすべてをコントロールしてたと思ってた。だけど、瑞樹くんの知らないその幼馴染像を教えられて、あれ? コントロールなんて最初から出来てなかったんじゃないか? って、瑞樹くんはパニックになったんだね?」
瑞樹は重々しく頷いた。
結衣はテーブルに肩肘をつき、覗き込むようにして瑞樹の目を真っ直ぐに見つめる。
「そりゃ、怖いかもね。絶対服従の猫ちゃんだと思って育ててたつもりが、実は虎だって言われたようなものだもんね。いつか首元を噛みちぎられるんじゃないかって、不安にもなるよね」
「えっ」
「ん? 瑞樹くんが不安になってるのは、ソコでしょ?」
キョトンとしたように、結衣が首を傾げた。
「知らない幼馴染像があったことでも、コントロール出来てなかったことでもなくて。……その幼馴染が、瑞樹くんの支配を必要としない、自立した自我を持つ普通の高校生だったかもしれないことが、怖いんじゃないの?」
「あぁ……」
――そうか。
知らない朱音の姿を聞いて、今までの完璧な支配が全く意味がなかったかもしれないと思った。だとしたらつまり、瑞樹の中での理想的な復讐が成し遂げられないということになる。
そこに恐怖し、不安を抱いているのだと瑞樹は思い込んでいた。
でも、結衣のその的確な指摘で、瑞樹は自分の本当の恐怖に気付いた。
支配の成功や失敗ではない。
そもそも、彼女たちの心は最初から支配下になどなく、ただ自分の意志で執着していただけ。
だとしたら、完全に支配すること自体が、不可能だったのかもしれない。
もし支配が不可能だったのだとしたら、彼らの心を意図的に操って絶望へ落とす復讐も、そもそも不可能だったということになる。
何の罪も解らせることも出来ず、絶望の後悔を残させることも出来ず、ただ物理的に殺すことしかできない。
そうやって、ただの無様な殺人鬼に成り下がってしまう可能性に、瑞樹は心の底から恐怖していたのだ。
「……そう、かもな……」
あからさまに声のトーンが落ち、絶望したような顔をする瑞樹。
そんな重い瑞樹に対し、結衣は至って明るく返す。
「でも、瑞樹くん。私には、なんで瑞樹くんがそこまでして、その子たちを完璧に支配しなきゃいけないのか、わからないよ」
「それは、さっきも言ったけど――」
「うん、覚えてるよ。社会で生きていくのが中々難しい子たちなんでしょ? でもね、瑞樹くん。瑞樹くんは、この先何十年も、どっちかが死んじゃうまでずっと、自分の人生を犠牲にしてその子たちの面倒を見続ける気なの?」
(何十年もではない。高校三年生の卒業までだ。彼らが死ぬまで、ではあるが、決定的なタイムリミットがある)
「そんなの、現実的じゃないと思う。と言うより、不可能だよ。それくらい、頭のいい瑞樹くんだって本当はわかると思う」
結衣は、背もたれにドサっと体重を預けて、カフェの天井を見上げた。
「だから……瑞樹くんは、彼らを支配すること自体が目的じゃない。支配はただの手段であって、何か別の本当の目的があるんでしょ?」
――殺すことだ。
幼馴染たちを支配し、絶対的な依存をさせ、幸せの絶頂と未来への希望を抱かせたところで、全てを奪い取って殺す。
それが、瑞樹の唯一の目的だ。
瑞樹の、血塗られた復讐だ。
そんなこと、この光の当たる世界にいる結衣に言えるわけがなかった。
「……ある。けど……言えない。言いたくない」
すると結衣は、「うん」と、短く返した。
まるで、瑞樹からそうやって拒絶の言葉が返ってくるのが、最初からわかっていたかのようだった。
瑞樹は驚いて、結衣の顔を見る。
結衣は、ニコニコと穏やかに笑っていた。
「昨日のチャットの時からそうだったけど、なんか瑞樹くん、一番の核心には触れないで欲しいって壁を作ってる感じだし。……いいよ、言わなくて」
結衣は、チョンと人差し指で瑞樹の胸の真ん中を押す。
「その代わり、隠し事をしてる瑞樹くんのその重たい悩みは、私には解決出来ないからね。いくら私がオタクで妄想力豊かでも、さすがにそこまで簡単に察してあげることはできないから」
結衣は両手を伸ばし、瑞樹の頬を優しく、包み込むように覆った。
「でも、話す前より、少し顔色は良くなった気がする。……私のおかげだねー?」
「……あ、うん」
瑞樹は思わず、毒気を抜かれたような情けない声でそう答えた。
確かに、彼女と話して、少し気が晴れたようだった。
多分それは、結衣のおかげで自分の得体の知れない恐怖の原因がハッキリとわかったからだろう。
盤面が狂い、復讐を完璧に成し遂げられないかもしれない。
でも、原因がわかれば、まだどうにでも軌道修正はできるはずだ。朱音の恋愛感情を利用して、新たな罠を張り直せばいい。
瑞樹は、自身の内側からドロドロと沸いてくる黒い殺意と感情を必死に奥底へ隠しながら、目の前で、自分を救おうとしてくれているニコニコと笑う太陽のような結衣の小さな手を取り、強く、決して離さないように握りしめた。
「……ありがとう、結衣」




