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第10話 崩壊(2)

 駅の改札を出た時、吸い込まれる様に視線が導かれて、すぐに結衣がいるのを見つけた。


『結衣も早く来てくれたんだ』と胸の奥が少しだけチクッと甘く痛み、嬉しくなった。しかし、その微かな高揚感は、すぐに別の黒い感情で塗り潰された。


 結衣の近くに、男が二人いる。


 ナンパか? 結衣に? あれか、また例の噂絡みか。


 よく目を凝らすと、二人の男のうち一人が、あの本田だと気付いた。


 まさか結衣にまたちょっかいかけてるのかと、腹の底からドス黒い怒りがふつふつと湧いてきて、しかしよく見るとそうではないのがわかった。


 本田は結衣にちょっかいを掛けているのではなく、結衣にちょっかいを掛けてきたチャラいナンパ男を咎めているのだと。


(なんだ、このモヤモヤは……?)


 よくわからない、苛立ちと焦燥感のようなものが込み上げてきた。自分の大切なおもちゃを、赤の他人の男に守られたような、不快で、それでいて情けない感覚。


 そうして少しの間、遠巻きに本田たちのやり取りを見ていて、やがて結衣が一人になったところで駆け寄った。


「――結衣?」


「瑞樹くん!」


 振り返った結衣は、先程まで面倒臭そうに顔を顰めていたのが嘘のように、瑞樹を見るなりパァッと花が咲いたように表情を明るくした。


「え、なんで? まだ待ち合わせより大分早いよ?」


「なんか、ちょっと早く来たい気分だったから……」


 バツが悪そうに視線を逸らして答える瑞樹は、同じ質問を結衣に投げた。


「でも、結衣だって早いだろ」


「私も、早く来たかったからですぅー」


 ニシシ、と。少し照れ隠しをするように、鼻に皺を寄せて可愛く笑う結衣。


「待ち合わせはカフェだろ? ここ、駅だが?」


「そーゆーとこ、いちいち理詰めでツッコんでたら、女の子にモテないよー?」


 結衣は悪戯っぽく笑いながら、自然な動作で瑞樹の左手を取り、歩き始める。


 瑞樹は少しだけ驚きながらも、自然と結衣の隣で歩幅を合わせて、結衣の小さな手を己の右手で優しく包み返した。


 結衣は嬉しそうな顔で瑞樹を見つめると、トンっ、と肩を密着させ、瑞樹の体に全体重を預ける様にして歩き始めた。


「……この歩き難さの極み、相変わらず結衣って感じ」


「なつかしー? 夏休み、あんまり会ってなかったもんねー」


「もっと遊べばよかったな」


「そーだよ。せっかく瑞樹くん用のお茶碗とかお箸まで買ったのに、あの日以来、全然うちに来ないんだもん」


 結衣は、繋いだ手を強く握りながら、ムスッとした顔で下から見上げてくる。


「瑞樹くんがご飯作ってくれないから、私、あの日から食事一切してないんだからね」


「え、もしかして俺、今幽霊と手を繋いでる!?」


「そう。瑞樹シェフの裏飯屋のご飯でしか成仏できません」


 結衣は右手を下に曲げてお化けのポーズを取り「うらめしや〜」とそれっぽく言う。


「なんかよくわかんないけど上手い!?」


「ビーフストロガノフ」


「なんかよくわかんないけど美味い!!」


 あははは! と結衣が腹を抱えて楽しそうに笑う。


 周囲の空気まで一気に明るくする様な、この無邪気なニコニコ顔が瑞樹は好きで、どうすればもっとこの笑顔を引き出せるか、無意識のうちに頑張ってしまう。


「ところで結衣。これ、どこに向かってるんだ?」


 駅を出たところで目的のカフェとは全く逆方向に進み出し、瑞樹は思わず聞いた。


 結衣はピタリと立ち止まると、体を捻らせて駅の反対側にある目的地のカフェを指差す。


「あそこがカフェ」


 そして体を戻し、ぐるっと大きく弧を描く様に右手を回した。


「こーんな感じで、ぐるーっと遠回りしてこ?」


 散歩しながらお話し。


 図らずとも、結衣が普段見ている街の景色を見て回ることが出来そうだ。


「いいね。じゃあ歩きながら、古今東西ゲームしよう」


「やるー!」


「お題は『アニメと漫画の技名で火属性縛り』!」


「あー、勝った。もう勝っちゃった。私、火属性の魔法一番得意」


「はいはいホラフレイム乙。俺からな。……『煉獄の炎』!」


***


 二人で仲良く手を繋いだまま小一時間ほど歩いた所で、住宅街にある閑散とした少し大きめの公園に向かって、突然結衣が指差した。


「あ、ここ。私がまだ一般人で、沢山の友達と人並みの遊びをしてた場所」


「なんだその、今はオタクで友達が少なくて特殊な遊びをしてると強烈に暗示してるみたいな言い方は」


「なっつかしー!」


 結衣はパッと瑞樹の手を離して走り出し、誰もいないブランコに飛び乗った。


 瑞樹もつられて隣のブランコに座る。


 キィ、キィ、と錆びた音を立てながら、ブンブンと立ち漕ぎで勢いをつける結衣。


「いにしえの記憶が蘇るよー!」


「はぁ、結衣にもこんな元気に外で遊ぶ時代があったなんてな」


「今や、完全インドアの引きこもりオタクっ!」


 結衣は勢いのままブランコからピョーンと飛び降り、体操の選手のように両手をバッと挙げて「ターッ!」と着地した。


 飛んだ距離は、僅か三十センチ。


 結衣は得意げに振り返るが、そんなドヤ顔をしていい飛距離じゃない。


「え、もしかして結衣……運動オンチ?」


 瑞樹が呆れ顔でそう聞くと、結衣はキョトンとした顔で首を傾げた。


「え? 運動出来るオタクなんて、都市伝説だよ」


「……」


 瑞樹はブランコの上に立ち、自重を使って大きく漕ぎ、一番高い程よいタイミングで前方に飛んだ。


 スタッ、と軽やかに着地。二メートルは飛んでいる。


「どうだ」


 瑞樹は嘲笑うかの様にニヤッと微笑むと、結衣は信じられないものを見るように目をまん丸にした。


「……信じるか信じないかは、私次第!」


「え、信じて?」


「瑞樹くん、運動出来たんだ。……オタクの風上にも置けない、裏切り者だ」


 結衣はプクッと頬を膨らませて瑞樹の手を引き「次はこれ」と隣にある雲梯を指差した。


 ヒョイヒョイと腕の力だけで身軽に進み、最後の棒を掴んでパッと手を離し着地する瑞樹。


 結衣は「おー」と感嘆の声を漏らし、パチパチと拍手する。


「さすが裏切り者だねー。すごい」


「別に、出来る奴は出来るだろ。それを言ったら結衣こそ、陽キャのオタクなんて都市伝説だ。むしろ伝説だ」


「私、伝説の女!?」


「喜んでる!」


 キャッキャと楽しそうに笑いながら、次は巨大な滑り台の遊具に連れて行かれた。


 筒状のチューブ型滑り台で、滑ってる最中は外の景色が全く見えないタイプのやつだ。 

 戸愚呂を巻いた螺旋状の作りになっており、まるで巨大な蛇の体内を滑り落ちるような感覚になれる。


「これ、いけるかな?」


 滑り台の入り口に立ち、二人はその暗い穴の中を見つめる。


「……いや無理だろ」


 どう見ても、未就学児や小学校低学年の小さな子が使う様な公園の遊具だ。高校生の体格では、どう考えてもスムーズに滑り落ちれるとは思えない。


「運動神経抜群の瑞樹くんなら、絶対いけるよ!」


「滑り台に運動神経関係ないからね!?」


「やってやってー!」


 結衣に背中をグイグイ押されて、瑞樹は渋々チューブの入り口に座る。お尻がギリギリハマるくらいだが、滑れないことはなさそうだった。だが肩幅があって、両手を上に伸ばしてバンザイの姿勢で滑らないと、肩が引っかかって通り抜けられなさそうだった。


 瑞樹は仕方なく、両手を上に挙げてお願いした。


「……押してくれ」


「ほいさー!」


 結衣が瑞樹の背中に手を添えて、勢い良く前へ押す。


 スルスル……と、プラスチックの摩擦音を立てながら、瑞樹の体がゆっくり暗闇の中へと滑り落ちていく。


「おっそーい! はは! 私、先下で待ち構えてるね!」


 結衣の楽しそうな声が遠ざかる。


 ゆっくりと滑る。ゆっくり過ぎて、カーブの途中で止まりそうになったところで、瑞樹は嫌な汗をかいて焦る。


「え、これ完全に止まったら、どうやって下まで行くんだ!?」


 両手はバンザイをしていて、どこかを押して勢いをつけることもできない。体もほぼピッタリとチューブの両サイドにハマっていて、絶望的な摩擦が発生しまくっている。


 下から「瑞樹くんおそーい! どこー! タイムトラベルでもしてるのー?」なんて結衣の呑気な声が反響して聞こえてくるが、瑞樹はそれどころではなかった。


 最後の急なカーブに差し掛かり、瑞樹はお尻に強烈な違和感を感じる。


 ボコっと、何かが隆起している。おそらく、小さな子どもがスピードが出過ぎた時に減速させるための安全装置の役割の段差だろう。


 しかし、高校生の瑞樹の体重と体格にとっては、これが致命的なブレーキとなって減速しすぎてしまう。


「やばい、止ま……っ!」


 ギュッ、と。最後のカーブで完全に減速され、瑞樹の体はチューブの中で遂にピタリと止まってしまった。


 両手をバンザイしたまま寝っ転がり、戻ることも進むことも出来ないという、なんともマヌケな格好の瑞樹。


「結衣! 大変だ! 助けてくれ!」


「どーしたのー!」


「中で完全に止まった! 動けない! 下から足、引っ張れないか?」


「なにそれ面白い」


 面白がるな! と心の中でツッコむ瑞樹。


 滑り台自体は二メートルちょっとくらいの高さだった。そこから螺旋状に滑り降りたとして、出口まではもうすぐそこの距離だと思うのだが。


「あ、瑞樹くんいた」


 瑞樹が顔を足下に向けると、曲がった先からひょっこりと顔を出し、ニヤニヤと笑う結衣の顔が見えた。


 結衣の小さな体なら、難なくハイハイして下から登ってこれたのだろう。


「すごい格好だね。腕戻せないの?」


「戻せないな。お腹側に少しスペースはあるけど、肩の横はもうピッタリハマってる」


 出口付近の方が、ほんの数センチだけ径が小さいのかもしれない。子どもにとっては気にならない誤差だが、高校生の瑞樹に取っては致命的な誤算だ。


「え、じゃあ今、無抵抗の瑞樹くんをこちょこちょし放題ってこと?」


「おいやめろ。……それより、今気が付いたんだけど、左手の袖がなんかに挟まってる。激しく動いたら服が破けるかもしれないんだ」


 軽く左手を動かすと、袖の布が強く引っ張られている感触があった。何かに引っかかったというより、プラスチックの継ぎ目に挟まっている気がする。


「それじゃあ……まあ、仕方ないかー」


 ムスッと大袈裟に頬を膨らます結衣。


「上に乗っていいから、ちょっと袖の様子を見てくれないか?」


「おっけー。ちょっと失礼しまーす」


 結衣は靴を脱ぎ、ゆっくりと瑞樹の体の上に自身の体を覆い被せる様に乗り、暗いチューブの中で匍匐前進の要領で上へと目指す。


 薄闇の中、結衣の顔が瑞樹の脚、腹、胸と徐々に這い上がって近づいて来る。


 結衣の体の重さと、少女特有の柔らかさを全身でダイレクトに感じながら、瑞樹は無心になるために顔をさっと横に向ける。


 タイミングを見計らったように、瑞樹の頬を、結衣の柔らかい胸がムニュッと押し潰す。そしてそのまま通過しようとした時、結衣が「あっ」と小さく呟いた。


 ドクンっ。ドクン。


 心臓が、狭い空間でうるさく鳴り始める。


「ぼーびば? (どーした?)」


「……挟まってるねー。ちょうどチューブの接続部かな。絶妙な窪みに服が入り込んでる感じかも」


「ぼぶが、ぼっべぶべ(そうか、取ってくれ)」


 ドクッドクッドクッ……。


 心音が、結衣に伝わってしまいそうだ。


 いや、これは結衣の心臓の音……?


「わかった。気をつけるけど、破けちゃったらごめんね。……あと今、喋らないで」


 んー! と力を入れながら、結衣は瑞樹の頭上へ手を伸ばし、入り込んだ服の袖を取ろうと尽力する。瑞樹の顔のすぐ横で、結衣の胸が上下に擦れる。


「ばべびぶべぼばぼ(あえいうえおあお)」


「ぜっ——たいっ、いまっ、する必要っ、ないよねっ、発声っ練習ぅ! ……んんっ、届かないっ」


 ドッドッドッ……。


「ばばばびゃば、ばぼばびゃば、びばびゃば(赤パジャマ、青パジャマ、黄パジャマ)」


「……んんっ……!」


 ざっ、と結衣の体が滑ってずり下がり、暗闇の中で顔を真っ赤にさせた結衣と、鼻先が触れるほどの至近距離でバチッと目が合う。


「……早口言葉すんなし」


「ごめん。喋るなと言われたら、より喋りたくなってしまって」


 互いの熱い吐息が掛かる距離で見つめ合う。


 暗闇の中、どこか艶っぽく、ジト目の瞳をうるっとさせた結衣。


 その吸い込まれてしまいそうな深く澄んだ瞳を、瑞樹は無言で見つめ返した。


 しばらくして、結衣が先にふいっと視線を逸らした。


「……取れたよ」


「お、おう……ありがとう」


 瑞樹は左手を動かしてみると、何の抵抗も感じない。無事に解放されたようだ。


 あとは結衣がまた下に戻って、足を持って引っ張ってくれたら無事に出られる。


――しかし。


 結衣は何故か、瑞樹の上にぴったりと馬乗りになった状態のまま、徐に体を前後に動かし始めた。


「ちょっ……! おい!」


「これで下まで落ちれないかな?」


 確かに、上の結衣が前後に動くことで下方向への重力が加わり、自然に滑り落ちていくとは思う。


 だけど、この密着した体勢でそれは、あまりにも危ない。


「やっ、めろ。結衣っ……」


 多少体が触れたくらいでは、別に何の反応もしない自信があった。


 しかし、この閉鎖空間で、継続的に、しかも『そこ』に触れられ続けると、男の生理として制御なんて出来ない。不可能だった。


「――んっ……」


 結衣の口から、甘く艶っぽい声が漏れる。


 動きが止まり、熱で蕩けたような、見たこともない色っぽい目で瑞樹を見つめ下ろす結衣。


 荒くなった結衣の甘い吐息が、瑞樹の唇に断続的に当たる。


「……はぁ、はぁ。……瑞樹くんの、せいだからね……」


 結衣が今、瑞樹の体の『どこ』に触れて、何をしようとしているのかは目で見なくてもわかった。触れてはいけない部分に、彼女の触れてはいけない部分が触れていると予想できた。


「……ちょっとだけ、貸して」


 瑞樹は、たまらずギュッと目を瞑る。


 もうどうしようもない。頭の中が真っ白になる。


 暗い密室の熱気と、幼馴染からの甘すぎる誘惑。こんな状況で理性を保つことなど、到底不可能だった。


 そうして、張り詰めていた理性の糸が、ついに限界を迎えてプツリと切れ――。


***


無言のまま、ただ熱い吐息だけが狭い空間で交錯する、狂おしい時間が過ぎていた。


「ねーママー! ここで遊びたーい!」


 ピタリと。


 チューブの中で重なり合っていた二人の時が、動きが、完全に止まる。


 すぐ外の至近距離で、無邪気な子どもの声が響いたのだ。


 瑞樹と結衣は弾かれたように息を潜め、石像のように静止する。


(嘘だろ、こんな時に……!)


「あとでホットケーキ食べるんでしょ。また今度来ようね」


「はーい!」


 母親のものらしき優しい声が聞こえたと思ったら、楽しそうに笑いながら話すその親子の声が、少しずつ遠ざかっていった。


「…………」


「…………」


 暗闇の中、異常に紅潮した顔で見つめ合う二人。


 乱れた服と、充満したむせ返るような熱い空気だけが、先程までここで起きていた事実を克明に物語っている。


 急激に、氷水を浴びせられたように現実に戻された。


 ここは近所の公園。しかも、白昼堂々。


 一体、何をしてるんだ。

R18指定になりそうな箇所はカットしております。

2026.09.03 19時

ノクターンノベルズにノーカット版をアップロード済み。

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