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第10話 崩壊

 特に明確な理由はなかったけれど、予定の時刻よりも少しだけ早めに家を出ようと思った。


 別に、この息の詰まるシェアハウスに居たくなかったとか、結衣に一秒でも早く会いたかったとか、そんな甘い感情じゃない。


 ただ、隣に結衣が歩いていない結衣の街の景色を、ほんの少しだけ一人で見てみようと思っただけだ。


 他意はない。ただの気まぐれだ。




「じゃあ、行ってくるから」


 たまたまリビングのソファでテレビを見ていた一花に、出かける旨を短く伝えた。すると、一花はパタパタと小走りで玄関まで着いてきた。


「お友達のとこ?」


 瑞樹はスニーカーの踵を潰さないように履きながら、「そっ」と短く答えた。


「ほんとに仲良いねー」


 一花はそう言うと、立ち上がった瑞樹の腕を両手で捕まえ、自分の柔らかい胸にギュッと抱き込んだ。


 ふわっと、一花の甘い花の香りが鼻をくすぐる。


「今日は帰ってくる? それとも、またお泊まり?」


 小首を傾げ、上目遣いで聞いてくる一花。


 瑞樹は少し考えて、空いている方の手で一花の頭を軽く撫でた。


「帰ってくるつもりだよ。もし泊まることになったら、ちゃんと連絡する」


 一花は頭を撫でられて嬉しそうに目を細めたが、その口からはハッキリと、探るような言葉が紡がれた。


「……やっぱり、泊まる可能性はあるんだね」


「……なんだよ。ただの友達だぞ」


「ふーん? ただの友達は、お泊まりなんかしないと思うなー?」


 ニヤニヤと、どこか意地悪く笑う一花。


「なんだよ、それ」


 よくわからない。昨日の夜、急に激昂して部屋から追い出してきた朱音といい、やたらと絡んでくる今日の一花といい、一体なんなんだ。


 この箱庭に何が起きているのか。


「みーくん。……ギュッてして?」


 一花は瑞樹の腕から離れると、玄関の土間の前で両手を広げて立った。


 何か、漠然とした不安を抱えているのだろうか。


 今の瑞樹には、彼女たちの行動の真意が全く読み取れない。己の支配力が及んでいない感覚に苛立ちを覚えつつも、瑞樹は小さくため息を吐いて、一花を軽く抱き締めた。


 すると一花は、瑞樹の腰に回した自分の手を、ギュウウッ! とありったけの力で強く手前に引いた。


「ちょっ、一花、強いぞ」


 一花は瑞樹の制止も聞かず、これでもかと力を込め、瑞樹の胸元に自分の顔をスリスリと執拗に擦り付けた。


 ここで無理に引き剥がしても、彼女の不安や猜疑心を余計に煽ることになるかもしれない。そう判断した瑞樹は、されるがままに無言で立ち尽くした。


 しばらくして。


 すっかり満足した様子の一花は、瑞樹からパッと離れると、満面の笑みで大きく手を振った。


「いってらっしゃーい!」


「い、いってきます……」


 本当に、なんなんだこいつらは。


 瑞樹は得体の知れない疲労感を抱えながら、逃げるようにシェアハウスの扉を開けた。


***


 特に理由はなかったけれど、少しだけ早めに出ようと思った。


 別に、一人で家にいるのが暇で退屈だったとか、瑞樹くんに一秒でも早く会いたかったとか、そんなんじゃない。


 ただ、彼が私の街にやってくるその時まで、待ち惚けというものを一人でしてみたかっただけ。


 他意はない。ただの気まぐれだ。




 結衣は待ち合わせの時間よりも随分と早く、駅の構内で待っていた。


 改札口がよく見える位置で、かつ、改札から出てきた人からもすぐに見つけてもらえる位置。結衣はその大きな柱に背中を預けて、何を考えるわけでもなく、ボケーっと行き交う人々を眺めていた。


 夏休みも終盤の平日の駅前。


 その立ち居姿が、どこか儚げで触ったら壊れてしまいそうな危うさを孕んでいたからなのか。それとも、小さくて幼い顔立ちから、単に言い返してこなさそうな弱者に見えたからなのか。


 いずれにせよ、結衣は「また面倒なことに巻き込まれた」と、心の中で深いため息を吐いた。


「なー、いーじゃん。暇でしょ? 俺と遊ぼーよ」


 ナンパだ。


 結衣は普段から、街で声を掛けられることは多かった。もっとも、その大半はどこかから悪意を持って仕入れた『尻軽女の結衣』というデマを信じ込んで寄ってくる気持ち悪い連中だったのだけど、それでもたまに、こうして単純に見た目だけでナンパをしてくる輩もいた。


 いつもなら適当にあしらって、どこか人混みに逃げるのだけど、今日は、この場を動けない。動きたくなかった。


 もし自分が別の場所に移動している間に瑞樹が改札から出てきてしまったら、彼とすれ違うかもしれない。そう思ったら、ここから逃げ出すことが出来なかったのだ。


 だけど、今となっては素直に逃げれば良かったと心底後悔している。


「おいおい。俺を無視してんじゃねーぞゴラァ」


「えー、うるさーい。……はい、反応したよ。これでいい?」


 鬱陶しいナンパ男をひたすらスマホを見て無視していたら、突然、傍から聞き覚えのある低い声が飛んできたのだ。


 驚いて声の主の方を見たら、かつて『尻軽女の結衣』を目当てに街中で押しかけてきた、あのガタイのいい不良男――本田だった。


 どういう風の吹き回しか、本田はこのチャラいナンパ男に喰ってかかり、ナンパ男はナンパ男で「なんだお前」と飄々と本田をいなしながら、結衣へのナンパを続けてくるという地獄のような構図が出来上がっていたのだ。


 本当に今すぐ逃げ出したかったけど、本田は今にも胸ぐらを掴んで手が出そうだし、クソみたいな奴だけど、一応ナンパの仲裁に入ってくれたみたいだし。完全に板挟みになって、動くに動けなくなってしまった。


「……めんどくさー」


 思わず結衣から本音が漏れるが、言い合う二人の男は聞いちゃいない。


「ねえ君、アイドルみたいー。ほんとかわいー。俺のめっちゃタイプー」


「おめぇの好みなんか知らねーよバカ。さっさと消えろカスが」


「口悪いねー、きみ。何歳? 俺二十歳なんだけど」


 二十歳にもなって平日の昼間から駅で高校生をナンパとか、人生終わってる。それとも二十歳だからこんな生産性のないことしてるのだろうか。


 なんて、どうでもいいことを冷静に分析しながら、結衣はまた深くため息をついた。


「……あいつのこと、待ってんだよな?」


 ふと、本田が顔だけこちらに向けて、低い声で聞いてきた。


『あいつ』という代名詞が誰を指すのか一瞬考えたが、結衣はすぐに意図を察してコクリと頷いた。


「なになにー、内緒話ー? 俺も混ぜてよ」


 ナンパ男がニヤニヤしながら結衣に近寄ろうとした瞬間、本田はそれを強引に遮る様に、二人の間にガシッと肩を入れて立ちはだかった。


「お、ナイト様かっけーじゃーん。でも邪魔」


「……悪いことは言わねぇ。命が惜しけりゃ、今すぐ消えろ」


「えー。その子と遊びたいのにー」


「お前、本気で死にたいのか」


「……はぁ?」


 たかがナンパ如きで大袈裟な、とナンパ男は馬鹿にしたように乾いた笑いをこぼす。


 だが、本田は額に冷や汗を浮かべながら、一切の冗談を交えずに真顔で返した。


「こいつに手ぇ出したら、マジでこいつの彼氏に殺されるぞ」


 本田のその一切笑わない必死の剣幕と、恐怖で偽りようのない吹き出る汗を見て、ナンパ男はピタリと動きを止め、両手をスッと挙げた。


「……まさか、マジでヤバいやつ?」


「マジだ。お前、この光景をあいつに見られただけでも危ないんだぞ。すべてを調べ尽くされて、逃げ場をなくされて、気付いたら首吊って死んでるぞ」


 本田の頭の中にある瑞樹像がどれほど恐ろしいものに仕上がっているのかは定かではないが、その気迫は本物だった。


「わ、わかったよ……か、かえりまーす……」


 完全に観念したのか、それとも本能的な命の危機を感じたのか。ナンパ男は引き攣った顔で後ずさりすると、足早に人混みの中へと去って行った。


 それを見て、本田も肩の力を抜いて大きくため息を吐き、そのまま結衣には目も合わせず、その場を後にしようとした。


「……ありがとう」


 結衣は一応、背中越しに感謝の言葉をかけた。


 過去にムカつくことをされた相手ではあるけど、今助けてくれたことには変わりない。


 本田は立ち止まらず、短く「ああ」とだけ答えて、そのまま駅の喧騒のどこかへ消えて行った。


「はぁ……なんだかなぁ」


 その後ろ姿を見送って。安堵のため息と一緒に、結衣が柱に寄りかかろうと振り返った、その時だった。


「――結衣?」


 そこには、息を少し切らせた、一番待ち望んでいた人の顔があった。

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