第9話 齟齬(6)
もうもうと白い湯気が立ち込める、湿度の高い浴室。
シャワーの湯がタイルを叩く音が響く中、浴槽に肩まで浸かっていた遊が、ふと世間話でもするように、唐突にそんなことを言い出した。
「城ヶ崎はさ。古河のことが好きなんだと思うよ」
「――ええっ?」
瑞樹は、自身の体に石鹸の泡を這わせていた手をピタリと止め、ギョッとして湯船の中の遊を振り返った。
現在、二人は男同士、一緒に風呂に入っている。
脱衣所から朱音が顔を真っ赤にして逃げ出した直後、入れ替わる様にやってきた遊が、「じゃあ僕が入るよ」と服を脱ぎ始めたのだ。
何故かそのまま一緒に入ることになったのだが、遊が何か真面目に話したい様な雰囲気を纏っていたため、瑞樹も甘んじてそれを受け入れたのである。
「いやいや。一花がお前のことを好きだっていう仮説ならまだしも、朱音が俺を?」
「ああ、それね。井上が僕を好きっていうのは、僕たちの完全な勘違いだったよ」
遊はお湯を手ですくいながら、あっけらかんと笑って答えた。
「さっき井上に直接『もしかして僕のこと好きなの?』って聞いてみたら、『そんなわけあるかー! バカゆーくん!』って、すごい剣幕で怒られた」
遊は悪びれる様子もなく付け足した。
そんなデリケートなことを、本人に直接、しかも直球で聞く器量が遊にはあった。彼は他人が自分をどう思うかということに、異常なほど執着がない。だからこそ出来る荒業だ。
「え、じゃあなんだ。……本当に、朱音が俺のことを好きって思ってるのか……?」
未だに信じられず訝しむ瑞樹に対し、遊は人の悪そうな笑顔を見せながら深く頷いた。
「僕は他人の感情にも自分の感情にも興味はないけど、さすがにさっきまでのあの反応を見りゃ、察しもつくよ」
瑞樹はシャワーヘッドを壁に掛け、さっきの朱音の一挙手一投足を頭の中でリプレイしてみる。しかし、イマイチその恋愛感情というものにピンと来ない。
「え、全然わからないのだが……。あいつ、そんなわかりやすい素振りあったか?」
「そんな素振りしかなかったよ? 井上の何倍もわかりやすかった」
遊はまた、心底おかしそうに笑う。
瑞樹はシャワーで体の泡を洗い流しながら、必死に過去のデータを検索してみるが、やはり全くわからない。
「幼馴染なのに……そんなこと」
と言い掛けて、瑞樹は先ほどリビングで『幼馴染間で恋愛感情が発生するのはよくある王道展開だ』と、自分で結論づけていたことを思い出した。
しかし、こと自分と朱音の関係性に関しては、決定的に違うと思っていたのだ。
なんたって、瑞樹が意図的に朱音に抱かせている思いは、あくまでも『絶対的な信頼と安心』。そして、瑞樹がいなければ生きていけないという『底なしの依存』。そこに尽きるはずなのだ。
対等の人間に向けるような、淡い恋愛感情なんて、そんな自立した感情をあの壊れたペットが抱くはずがないと思い込んでいた。
「城ヶ崎は、何事にも一生懸命だからね。溝口の事件の時もそうだったけど、あののめり込み方を見るに、若干周りが見えなくなるところもあるから。普段は人の目を異常に気にするくせに、いざ恋愛になると周りが見えなくなって盲目になる。……昔からの、あいつの悪い癖だね」
遊は温かい湯船の中で気持ちよさそうに背伸びをして、ふふっと笑った。
そんな陽気な様子の遊とは対照的に、瑞樹はシャワーを浴びたまま、完全に絶句していた。
(昔からの……?)
自分の支配下に置き、完全に理解しているつもりだった朱音と、遊の話す朱音が、まるで別人のように感じられた。
朱音の心の傷も、行動原理も、すべてわかっているようでいて、その実、彼女の根底にある人間としての本質を、自分はほとんどわかっていなかったのではないか。
冷たい焦燥感が、足元からジワリと這い上がってくる。
(俺は一体……誰を相手にして、誰を支配しようとしていたんだ……?)
自分の描いていた完璧な設計図が、根本から狂っていた?
唖然として固まる瑞樹を見て、遊はまた声を上げて笑った。
「ははは! なんだよ古河、そんなに驚くこと? 僕らの幼馴染の城ヶ崎朱音はずっとそうだったじゃん。ほんと、古河は古河で、昔からそういうところ鈍感だよね」
遊は湯船の中から、濡れた指でビシッと瑞樹に向かって指を差した。
「古河は、大局を見ることはすごく得意だけどさ。その分、人の細かい感情の機微を読み取るのが決定的に苦手だよね。……もしかして、もう城ヶ崎から好きとか直接言われてるんじゃないの?」
「…………言われた、な」
「ほーら、やっぱり」
思い返すと、前回結衣の家に泊まりに行った日の早朝。
寝ぼけたような、でも確かな熱を持った瞳で、朱音にそんなことを言われた気がする。
『あたし、瑞樹くんのこと好きかも』と。さらに彼女はマーキングと言って、頬にキスまでしてきたではないか。
あれは依存からの狂気的な行動ではなく――ただ純粋な、恋する乙女の暴走だったということなのか。
「僕が口出しすることじゃないけどさ」
遊は湯船の縁に腕を乗せ、少しだけ真面目なトーンで言った。
「幼馴染だから、家族みたいなもんだからって、ハナから彼女の気持ちを『無いもの』として扱うのは、ちょっと可哀想かなって思うよ。幼馴染とはいえ、普通の男女だし。少しはちゃんと向き合ってあげてくれたら……僕も、友達として嬉しいかな」
その後も、遊は湯船に浸かりながら何かを穏やかに話してくれていたが、瑞樹の耳にはその言葉はまるで頭に入ってこなかった。
(俺は、何も見えていなかったのか……?)
すべてを掌握しているつもりでいた己の傲慢さが、音を立てて崩れていく。
シャワーで足元へと流れ落ちていく白い石鹸の泡と一緒に、瑞樹の中で保たれていた完璧な支配という大切な前提までもが、排水溝へと無残に流されてしまったような気がした。




