第9話 齟齬(5)
「……はっ?」
瑞樹は思わずソファから立ち上がり、額に冷や汗を浮かべた。
「だって、みーくんは私たちの裸を見ても興奮しないんだよね? だったら、一緒にお風呂くらい普通に入れるよね?」
ニシシ、と。一花は悪戯を思いついた子どものような、それでいてどこか歪んだ悪い笑みを浮かべて瑞樹に詰め寄る。
確かに、先ほど瑞樹はそう言った。この幼馴染たちの裸を見たところで、今更男としての欲情など湧かないと。
一花の裸に関しては、彼女が不安に押し潰されそうになった時、安心感を求めて肉体を差し出してくるため、これまでに何度も見ている。もはや見慣れたと言ってもいい。
朱音の裸は直接見たことこそないが、瑞樹の中での認識は一花と全く同じだ。復讐の対象であり、手懐けたペットの肌を見て、欲情などするはずがない。
「……幼稚園の頃からずっと一緒にいるんだ。確かにお前たちの裸を見たところで、変に興奮するわけがないだろ……だけど……」
「でしょ!」
「……むぅ」
自分の論理が通ったと無邪気に喜ぶ一花と、瑞樹の興奮しないという言葉にムスッと唇を尖らせる朱音。
対照的な反応を示す二人を見比べながら、瑞樹は困った様に言葉を続けた。
「だけど、恥ずかしい気持ちはあるんだが? 着替えを偶然見てしまったのと、密室で一緒にお風呂に入るのとでは次元が違うだろ。目のやり場に困るし、じっと見られるのも照れ臭い」
その言葉を聞いた瞬間。
朱音の尖っていた唇が緩み、表情がパッと明るくなった。まるで、瑞樹から照れ臭いという言葉を引き出せたことが、どうしようもなく嬉しいかのような反応だった。
「ほら、だって朱音ちゃん! みーくん、ドキドキはするって言ってるよ!」
嬉しそうに朱音の背中をバンバンと叩き、一花は強引に瑞樹の右腕と、朱音の左腕を掴んだ。
「じゃあ、二人で仲良く入ってきてね!」
「おい、俺の話を聞いてたのか!?」
さっきまで、一花が遊に過剰なスキンシップをしているという真剣な話をしていたはずだ。なのに、なぜか自分が朱音と風呂に入るというカオスな流れになっている。
瑞樹はソファに座る遊に助け舟を求めようと鋭い視線を向けたが、遊は我関せずとばかりに、涼しい笑顔でヒラヒラと手を振って見送ってきた。
「さあ、いこーいこー!」
一花は何故か異常に楽しそうに二人の手を引き、朱音は朱音で、顔を真っ赤にしながらも抵抗することなく、まんざらでもない様子でついてくる。
(なんだ、これは……?)
瑞樹の頭の中で、冷静な計算機が高速で回り始める。
すでに、朱音と遊の精神的な陥落は終わっている。彼らを自分へ依存させ、信頼と安心という名の首輪をより強固なものにした。だから瑞樹の完璧な計画では、次は結衣を利用して一花に絶望と幸福を与えることで、彼女を完全に陥落させる予定なのだ。
今この段階で、もし一花と風呂に入るというのなら、計画に支障はない。むしろ、彼女をより深く依存させるためのスパイスとして効果的だとさえ思う。
しかし、ここで朱音と風呂に入って、一体自分の盤面に何の意味があるのだろうか。
――そんなことを冷静に分析しているうちに、気付けば瑞樹は、脱衣所の中に連れ込まれていた。
「じゃ、ごゆっくりー!」
バタンッ、と。
外から一花が脱衣所のドアを閉め、狭い空間に朱音と二人きりになる。
静寂が落ちた脱衣所。
朱音は相変わらず顔を耳の先まで赤くして、もじもじと俯いている。
「……朱音、お前、本当に俺と入りたいのか……?」
瑞樹が探るように低く聞くと、朱音はコクリと、小さく頷いた。
(どういう心境の変化だ?)
朱音は普段から瑞樹にくっついてくることはあっても、自らそれ以上の関係を求めてくるようなことはなかった。
ましてや一緒にお風呂に入るなど、いくら瑞樹のことを絶対的に信頼していたとしても、そんなはしたないことを言ってくる子ではなかったはずだ。男女の幼馴染としての距離感や線引きは、彼女なりに多少なりともしっかり持っていたはずなのだ。
なのに、何故?
「…………瑞樹くんは」
朱音がそっと手を伸ばし、瑞樹の服の袖をきゅっと掴んだ。
そして、熱を持った真っ赤な顔で、ゆっくりと瑞樹を見上げた。
「瑞樹くんは……あたしと入るの、いや……?」
なんという、いじらしくて、艶っぽい表情と声色だろうか。
ただでさえ誰もが振り返るほど整った顔立ちの朱音が、こんなにも無防備な上目遣いでお願いしてきたら、普通の健全な男子高校生なら、理性が吹き飛んで一発KO間違いなしの破壊力だ。
サラサラの金髪の隙間から、今にも泣き出しそうな、期待と不安の入り混じった潤んだ瞳が瑞樹を真っ直ぐに射抜く。
しかし。
それでも、瑞樹の心は一ミリも動かない。
どんなに彼女が美しく、可愛らしい姿を見せようとも。城ヶ崎朱音は瑞樹にとって、雫を殺した憎き復讐の相手であり、最終的にこの手で壊すためのおもちゃでしかないのだから。
瑞樹は、自分の心の温度が絶対零度であることを微塵も悟られないよう、静かに脳内で次の手を考える。
この状況を利用して、さらに深く依存させるべきか?
それとも、下手に踏み込まず、計画のイレギュラーを排除して突き放すべきか?
朱音の意図が、全くわからない。
瑞樹が完璧な正解の選択肢を導き出そうと沈黙した、その数秒間。
「……っ! やっ、やっぱやめるっ!」
突然、朱音が限界を迎えたように叫び、瑞樹の袖から手を離した。
そして、真っ赤な顔を両手で覆い隠すと、脱衣所のドアを勢いよく開けて、逃げるように外へと飛び出していってしまった。
「…………」
一人、狭い脱衣所に残された瑞樹は、完全に唖然としていた。
開かれたままのドアの先、朱音が走り去った薄暗い廊下を見つめたまま、瑞樹はボツリと呟いた。
「……どういうことだ……本当に、わからん」
すべてを支配しているつもりの復讐鬼には、何かを自覚し、暴走し、そして勝手に自滅していく等身大の少女の予測不能な乙女心だけは、どうしても計算しきれなかったのだ。




