第9話 齟齬(4)
報告会から帰りシェアハウスの扉を開けると、そこには不貞腐れた顔で頬を膨らませた一花が待ち構えていて、そのままの勢いで飛び付いてきた。
「おかえり、みーくん!」
そしてその後ろから、不機嫌そうな顔の朱音も歩いてやってきた。
「おかえり、瑞樹くん」
「ただいま。……どうした、二人とも。玄関まで出迎えてくれるなんて」
「ちょっと聞いてよみーくん! ゆーくんが酷いんだよ!?」
「お、おい!?」
一花に強引に手を引かれてリビングに入ると、ダイニングテーブルの上には、綺麗に畳まれた洋服と、そしてヒラヒラとしたレースのついた女性モノの下着が積まれていた。
そしてそのテーブルの前で、ひどく面倒くさそうに、無表情で残りの洗濯物を畳む遊の姿があった。
「おかえり、古河。……助けてくれ」
瑞樹が帰ってきて、ようやく地獄から解放されたと言わんばかりに、遊は深い深いため息を漏らした。
「『助けて』じゃないよゆーくん! ゆーくんには、デリカシーとか乙女心とかが決定的に足りないと思う!」
「僕は男だからね。乙女心なんてわかるわけないよ」
「ちょっとは配慮してって言ってるの!」
瑞樹が朱音の方を見ると、彼女は困ったように苦笑いしながら、事の顛末を話してくれた。
どうやら、取り込まれた洗濯物が乾いたままリビングの端にしばらく放置されていたので、それに気付いた遊が気を利かせて全員分を畳んでくれていたらしい。
そこに一花がやってきて、自分や朱音の下着を完全な無感情で事務的に畳んでいる遊を見て、「なんでそんな無感情なの!?」と理不尽にキレているとのことだった。
「……え、下着を見られたり触られたりしていることに怒ってるんじゃないの?」
瑞樹が目を点にして一花に聞くと、一花はフンスと鼻息を荒くして答えた。
「そんなことに怒るわけないじゃん! むしろ、畳んでくれてることにはめちゃくちゃ感謝してるよ? ただ、見てよ! あの無感情の顔! 能面!」
一花がビシッと指差す先で、遊はまるで工場のライン作業のように、淡々と女性陣のブラジャーやショーツを折り畳んでいる。
「まるで、噛み終わったガムを紙屑で包んで捨ててるみたいな目なの!」
やけに具体的な例えだ。
「変に興奮してニヤニヤされるより、よっぽど良くないか……?」
瑞樹の至極真っ当な問いに、遊も無表情のまま手を動かしつつ、深く大きく頷いた。
「えー、やだやだ! ちょっとくらい興奮して欲しいじゃん! 一応、私も朱音ちゃんも、ピチピチの女子高生なんだから!」
そうなのか? と瑞樹が同意を求めるように朱音に顔を向けると、朱音はサッと顔を真っ赤にして横に向け、明後日の方向へ視線を逸らした。
『私に話を振るな』と全身で言っている。
はあ、と瑞樹は保護者のようなため息を吐いて、目の前で地団駄を踏む一花の頭をポンポンと撫でた。
「あのな、一花。俺たちはもう、長いことこうして一緒に暮らしてるだろ。一緒にいすぎてもう、兄弟とか家族みたいなもんなんだよ。だから正直……下着はおろか、お前たちの裸を見たって、今更興奮なんかしないぞ」
その言葉を聞いた瞬間。
一花と、顔を逸らしたままだった朱音の体が、ビクッと大きく震えた。
「えっ……え……? そうなの……?」
一花の顔から、スッと血の気が引いていく。
青ざめた顔で立ち尽くす一花に向かって、遊は『古河の言う通りだ』とうんうんと頷き続けている。
「こ、これは大変だ……!」
一花は顔面蒼白のままそう呟くと、突然朱音の腕をガシッと掴み、そのまま有無を言わさず朱音を引っ張って、二階の自分の部屋へと消えて行った。
嵐が過ぎ去った後のような、妙な静けさがリビングに漂う。
瑞樹は遊と顔を見合わせて、呆れたように苦笑いした。
遊は残りの洗濯物をすべて畳み終え、右は一花、左は朱音と几帳面にわかりやすく置き揃えると、今日一番の大きなため息を吐きながらソファにドサッと腰掛けた。
「……疲れてるな。サッカーの練習か?」
瑞樹は遊の隣に腰掛ける。
遊は右手で両目を覆い、深く天井を仰いでいた。
「いいや、部活の練習はもう慣れたから体力的に大丈夫なんだけど。……なんというか、最近、井上の様子がおかしくて」
「え?」
自慢じゃないが、瑞樹は自分でもかなり周りが見える人間だと思っている。観察力にも優れているし、ことこの箱庭の幼馴染たちに関しては、彼らの精神状態をコントロールするために特に注意深く気に掛けていた。
中でも井上一花は、感情がすべて表に出るわかりやすい部類の子だったから、様子に変化があれば真っ先に気付くはずだ。
だけど、瑞樹には何も思い当たる節がなかった。
「全然気付かなかった……何かあったのか?」
遊は姿勢を直して座り直すと、酷くやりにくそうな苦笑いを浮かべながら話し始めた。
「……やたらと、僕にボディタッチをしてくるんだ」
「それはいつものことだろ」
「いや、まあそうなんだけど……その、触ってくる場所が、やけに際どい所ばかりなんだよ」
「……それは、なんか変だな」
一花はいつだって、甘えた犬のようにくっついてくるし、寂しかったり不安になると、一緒に寝ようとしたりする。時には、無防備な裸で迫ってこようとすらする。
ただ、その依存の対象はいつだって瑞樹一人だけであり、遊相手にはせいぜい腕を組むくらいが限度だったはずだ。
「さっきのアレも見ただろ? 僕が下着を見て興奮しなかったことで本気でキレてきたんだよ。意味がわからん」
「……ああ。あー。……なあ、遊。もしかして……」
そんなことは起こり得ないと思っていたが、可能性としてはゼロではなかった。
瑞樹の大好きな二次元のラブコメ世界では、むしろ良くある王道の展開だ。
幼馴染という狭い関係性の中で発生する、恋愛感情のバグイベント。
「一花のやつ、お前のこと好きなのかもな?」
「…………」
過剰なスキンシップは一花の性格そのものだが、それを普段しない相手である遊に対してし始めたというあたり、なくはない。
下着を見て興奮しなかったことに怒ったのも、言い換えれば『好きな人に、自分のことを女の子として見てほしかった』という怒りとも取れる。
「いや、ないでしょ……」
遊は、本気で気味が悪いものを見るように、呆れて顔を顰めた。
「……ないよな。俺たちに限って、そんな……ははは……」
瑞樹も、乾いた笑いを漏らした。
自分たちは、そんな真っ当な恋愛をし合えるような人間じゃない。全員が致命的に壊れていて、共依存という鎖で繋がっているだけの、歪な化け物たちなのだから。
と、そこに。
ドタドタという足音と共に、一花が再び朱音の手を引いてリビングに戻ってきた。
「ちょっ、ちょっと一花っ、やっぱりこんなの……っ!」
何やらひどく恥ずかしそうに顔を伏せて抵抗する朱音を強引に引っ張って、一花は瑞樹の目の前に朱音を立たせた。
ソファに座る瑞樹を見下ろす朱音の顔は、熟れたりんごのように真っ赤に紅潮し、潤んだ瞳が激しく泳いでいる。
「朱音? どうした?」
瑞樹のその問いに、朱音ではなく、背後に立つ一花が自信満々に答えた。
「ねえ、みーくん。……今から、朱音ちゃんと……」
一花は、とびきり悪戯っぽく、しかしどこか必死さを孕んだ笑みを浮かべて言った。
「お風呂に入ってよ」




