第9話 齟齬(3)
「瑞樹くん……私たちが本来負うべき重い責任を、あなた一人に背負わせてしまって、本当にごめんなさい。……辛くない?」
食事を終え、温かいお茶をすすりながら、朱音の母親が心配そうに瑞樹の顔を見つめた。
その瞳の奥には、瑞樹への感謝と、親としての不甲斐なさに対する心の底からの申し訳なさが滲んでいるのが、痛いほど理解できた。
――しかし。
この母親こそが、あの城ヶ崎朱音の精神を粉々に破壊し、おかしくした最大の張本人なのだ。
小さい頃から、彼女は事あるごとに朱音を否定し続けた。
『あなたは、本当にダメな人間ね』
『どうしてそんな簡単なこともわからないの? 遊んでばっかりいるから馬鹿になるのよ』
『そんな出来損ないで……生きてて幸せなの?』
そんな呪いのような言葉の刃を、日常的に、無自覚に、幼い朱音の心に突き刺し続けた。
その結果、朱音は極端に自己肯定感が低く、他人の些細な言動でヒステリックを起こし、常に人の顔色を窺って自分を否定されることを異常に怖がる歪んだ化け物になってしまったのだ。
朱音をそんな人間に作り変えてしまった張本人が、今、まるで血の通った立派な親のような慈愛を含んだ瞳で、瑞樹を見つめている。
反吐が出そうな光景だが、ただ、これは彼女の演技でもなんでもない。
朱音の母親は、確かに変わったのだ。
彼女が変わった明確なキッカケは、シェアハウス計画を立ち上げる前、瑞樹が彼女と個別で面談をした時だった。
朱音の性格が人とは少し違い、不安定であることを瑞樹に泣きながら相談してきた彼女に対し、瑞樹は真っ直ぐに目を見て、氷のように冷たい声でハッキリと伝えたのだ。
『――あなたが原因ですよ』と。
彼女の夫は海外出張の多い仕事で、朱音が産まれてからも家にいることはほとんどなかった。それ故に家事や育児が完全なワンオペ状態となり、ストレスを吐き出すことも、辛さを分かち合う相手もいなかった。その結果、行き場を失った負の感情の吐け口として、最も抵抗できない弱者である朱音にキツく当たっていたという。
でもそれは、朱音がまだ小さかった頃の話で、小学、中学と手が掛からなくなってからは、そんな酷いことはしていなかったと彼女は泣いて弁明した。
だからこの母親は、今の朱音が精神的に狂っているその原因を、全く理解していなかったのだ。
時間が経てば、少しおかしな性格も勝手に癒えると思い込んでいた。
瑞樹は、その愚かな幻想を打ち砕いて教えたのだ。
ハッキリと、『お前のその言葉が、朱音を殺したんだ』と。
それ以来、朱音の母親は心を入れ替えた。
改心という言葉を使うのもおこがましいが、これまでの自身の罪を償うように、朱音へ一心の愛を注ぐようになった。
ただそれでも、朱音としては複雑だった。
幼い頃に浴びせられた言葉の記憶と、向けられた軽蔑の視線が、魂の奥底に鮮明に焼き付いているのだ。
今の母親がどれだけ優しく微笑みかけても、あの頃のゴミを見るような目がフラッシュバックしてしまう。頭では「お母さんは変わってくれた」とわかっていても、彼女の手が触れた瞬間、体が反射的に拒否反応を起こしてしまうのだ。
「もし、少しでも辛かったり、シンドイって思ってやめたくなったら、いつでも言ってくれていいからね?」
正面から、遊の父親が真剣な顔で言う。
遊の現在の両親は、至って普通の、常識的で善良な大人だ。これまでの彼を引き取ってきた親たちが異常だっただけで、彼らは深い愛情を持って遊を想っている。
問題は、完全に心を閉ざしてしまった遊の側にしかない。
今でこそ瑞樹の計略によって両親を強く信用し始めているが、「サッカーの試合に来てくれたらいいな」という、子どもにとってありふれた期待ですら、最近やっと出来るようになったくらいなのだ。そこまで心が回復するのに、五年以上もの月日を費やした。
血の繋がらない両者の間を隔てる透明な壁は、まだまだ壊れそうになかった。
「そうだよ、瑞樹くん。絶対に、無理と我慢だけはしないでね?」
右端に座る一花の母親も、それに続いた。
彼女は、夫による凄惨な虐待の傍観者であり、また同時に、最低な夫に支配された被害者でもあった。
自分の夫が、幼い娘に性的な暴行を加えていること。彼女はそれを直接その目で見たわけではないが、空気でなんとなく察していた。小さい頃の自分に酷似した一花を、夫がひどく歪んだ生々しい愛情で愛でていることに、気づかないはずがなかった。
助けたかった。一花をあの男の魔の手から引き剥がして、救いたかった。
だけど、若くして結婚し、社会を全く知らず、人と比べて鈍臭くて物覚えも悪い自分が、果たして女手一つで一花を育てて生きていくことが出来るのか。そう考えた時、彼女は『もう少しの辛抱だ』と、娘を犠牲にしてでも今の生活に耐えることを選んでしまった。
いや、それ以上に、夫に口出しした後に自分を待っている暴力という名のお仕置きが恐ろしくて、ただ息を潜めて傍観者に徹することしか出来なかったのだ。
そんな最低な彼女を根底から変えたのは、ある日、幼稚園から手を繋いで帰る夕暮れ道で、一花が無邪気に言い放った言葉だった。
『ねえ、おかーさん。いちか、ゆーくんとせっくすしたいなぁ』
幼稚園児が到底知るはずもなく、放つとは思えないその異常な言葉を聞いて、母親は全身の血が凍りつき、『な、なんで……?』と震える声で返した。
すると一花は、花が咲くような満面の笑みでこう答えたのだ。
『だってそうしたら、ゆーくんに、すきになってもらえるから!』
そこで初めて、彼女は自分の娘の心が、既に取り返しのつかない決定的な異常をきたしていることに気付いた。
激しい絶望と危機感を覚え、同時に、ようやく我が子を守るための母親としての勇気が湧き上がった彼女は、一花の手を引いたままその足で実家へと向かい、自分の父親にすべてを泣きながら相談したのだ。
そこからはとんとん拍子で話が進み、警察が動き、夫と顔を合わせることもなく、平和な日常が訪れた。
一花の母親は、なんでもっと早く動けなかったのかと己の弱さを呪い、激しく自分を責め、そして「これからは私がこの子を絶対に幸せにする」と血を吐くような思いで誓った。
今は自分と老いた父、そして一花の生活を守るために、身を粉にして工場で働いている。ボロボロになりかけているこの体も、一花が密室で負ったあの痛みに比べれば屁でもない、と。
ただ、一花は成長するにつれ、母親が当時の傍観者であったことを理解してしまった。
父親が異常なことをやっていたと知らされた時、「だとしたら、それを見て見ぬ振りを、お母さんはずっと隣の部屋でしていたんだよね」と。
事件当初こそ、その事実の残酷さに一花の理解は及ばなかったが、高校生になった今となっては、それがどういうことなのか痛いほどわかる。
一方で、耳が痛くなるくらい母親から何度も土下座をして謝罪もされ、母親自身もまたDVの被害者だったと知り、母親に対して恨むような明確な感情は湧かなかった。
しかし、心の底から大好きだと手放しで甘えるには、まだまだ長い時間とリハビリが必要だった。
そんな複雑な背景を持つ大人たちの視線を一身に浴びながら、瑞樹は背筋をスッと伸ばし、姿勢を正すと、全員をゆっくりと一瞥してから、完璧なトーンで答えた。
「皆さんのご心配には及びません。俺がこの責任を感じているのは事実ですが、だからと言って、大変でシンドイとか、逃げ出したいなんて思ったことは一度もありませんから。それに……俺にとって、彼らは大好きな大切な幼馴染たちです。毎日が楽しくて、そう言った意味では、俺自身も彼らに救われているんですから」
純度100%の善意で作られた、完璧な好青年の笑顔。
それを顔面に貼り付けて、両親たちを安心させるようにそう言い切ると、大人たちは一様に、胸を撫で下ろすような深い安堵のため息を漏らした。
「本当に……っ、ありがとう、古河くん……!」
遊の母親が、堪えきれずにハンカチで目頭を押さえ、涙ながらにそう言った。
「こらこら、お前が泣いたら、余計に古河くんが責任を感じてプレッシャーになっちゃうだろう」
遊の父親が妻の肩を抱いて宥めるようにそう言って、瑞樹に向かって「本当に、ごめんね」と深く会釈した。
「いいですよ、気にしないでください。頼られるのは嬉しいですから」
瑞樹は、どこまでも爽やかな笑顔で返す。
すると、涙ぐむ空気を変えるように、朱音の母親が少し悪戯っぽい、だが本気の混じった優しい笑みで口を開いた。
「もしよかったら、将来、うちの朱音をもらって結婚してくれちゃってもいいからね?」
「あら、うちの一花も、瑞樹くんなら安心して一生任せられるわね。お父さんも賛成でしょ?」
一花の母親も、祖父と顔を見合わせて笑いながらそう言う。
「いやいや、流石に気が早すぎますよ」
瑞樹が照れたように頬をかきながら頭を下げると、また大人たちが「ふふふ」と温かく笑った。
居酒屋の個室に、優しくて、温かくて、気味の悪いほどの疑似家族のような時間が過ぎていった。
(――お前らの娘を、俺が一番絶望する最悪の形でぶっ壊して殺してやるってことも知らずに、よく笑えるな)
瑞樹は、腹の底でドス黒いヘドロのような感情を煮えたぎらせながら、一緒になって声を出して笑った。
「ところで……」
空気が少し落ち着いたところで、別の話を切り出したのは、遊の父親だった。
「ところで、古河くんのご両親は、今日も……?」
今日も、この報告会には来ないんだね? という遠慮がちな問いだった。
前回の第一回の報告会にも古河家の親は一切姿を見せなかったため、少し不審に思い、心配しているようだった。
「あ、はい。すみません。基本的にうちの親は、超の付くほどの放任主義なので、こういった集まりの場には顔を出さないかと」
心の中で付け加えるなら、超の付く面倒くさがり屋だ。
瑞樹がどんな友達と関わろうが、どんな生活をしようが完全に自由だと言う反面、「お前の人間関係のトラブルに、私たちは一切関わりませんよ」と、明確に親子の線引きをされているのだ。
ただでさえ問題児たちとつるんで同居しているのに、その両親たちが集まる場となると、どうせ暗くて重い身の上話やトラブルの報告になりそうだし、面倒だから絶対に行かないと、母親からは鼻で笑って一蹴されていた。
「そうか……古河くんばかりに負担をかけて、ご両親は怒っていないかい?」
「別に誰かに何か思うところがあるから来ないとか、そういうのではないのでご安心ください。悪く言えばただの放任ですけど、良く言えば、俺の判断を100%信用して任せてもらってるってことなので」
わかりやすく「申し訳ない」と落ち込む遊の父親に、すかさずフォローを入れる瑞樹。そして、一応自分の両親の世間的なメンツも保っておく。
『面倒くさいから行かないって言われました』なんて、この大人たちの前で言えるはずがない。
まったく、我ながら口の回る、よく出来た子だ。
瑞樹のその機転の利いた言葉で、朱音の母親も、一花の母親も、皆一様にホッと安堵の表情を浮かべる。
まあ、自分の子どもがお世話になっている家の親がずっと来ないのだから、不安にもなるだろう。
その後、瑞樹の手帳を見ながら次回の報告会の日程を二ヶ月後に決めて、解散することとなった。
「それじゃあ、また彼らのことをよろしく頼むよ」
「はい、お気をつけて」
店を出て、大人たちが見えなくなるまで深く頭を下げて見送る。
こうして、五人の哀れな大人たちを意のままに操る、奇妙で吐き気のする食事会は幕を閉じた。




