第9話 齟齬(2)
最低最悪だと、自分でもわかっていた。
復讐のためなら、何でも利用して、どんな非道な手でも使うと、あの日、決めたのだ。
だから、こんな愚かな復讐劇に無関係な他人を巻き込んでも、心は微塵も痛まないと思っていた。むしろ、盤面を彩る最高のお膳立てをしてくれて、「ありがとう」とすら嘲笑って思えるはずだった。
だけど。
一花を絶望の淵へ叩き落とすためのこの計画に、彼女――水橋結衣を巻き込んだことだけは、心の奥底で少しだけ、後悔していた。
井上一花という女の子は、自分が他者から認められなかったり、存在を否定されたり、そういう『自分の居場所』を脅かされることを極端に嫌い、また異常なまでに怖がる。
少しでも揺らげば、すぐに「自分は愛されていない」と錯覚してしまうからだ。
幼い頃から実の父親から凄惨な性的虐待を受け続け、『性的な接触=愛の証明』だと歪んだ刷り込みをされてきた一花。しかし、瑞樹が時間をかけて根気よく別の愛の形を教え込んだことで、肉体関係がなくても愛せるし、愛されると、彼女の狂った価値観は少しずつ変わり始めていた。
しかし、それは同時に『これまでの自分の愛の求め方が異常だった』と自覚させる残酷な劇薬でもあった。安易に体を差し出して愛を乞うことができなくなった一花は、まるでその行き場をなくした反動のように、精神的な繋がりとしての『愛』を、より強く、病的に願うようになってしまったのだ。
愛を渇望し、また、その愛が自分の手からこぼれ落ちることに酷く怯える。
だからこそ、一花にとって唯一の絶対的な安らぎの場所であり、誰よりも何よりも自分を愛してくれると信じている瑞樹が、自分以外の女の元へ離れていく素振りを見せれば、彼女は確実に発狂し、絶望する。
その劇烈な絶望を与えるための生贄として、結衣を利用しようと考えた。
結衣とオタク趣味を通して仲良くなり、あわよくば彼女に好意を抱かれるくらいの親密な関係になる。そして、瑞樹から漂う見知らぬ女の影を、わざと一花に嗅ぎ取らせる。
「もしかして、みーくんに彼女ができたんじゃないか」「自分を見捨てて、その女のところへ行ってしまうのではないか」――そんな破滅的な妄想を、一花の脳内に植え付ける。
結衣と一緒にいるところを一花に見られてもいい。なんなら、一花の見ている前で結衣とイチャイチャしたって構わない。とにかく一花に最大の危機感を覚えさせ、底知れぬ絶望を味わわせられれば、それで盤面は完成するのだ。
そして、完全に心が壊れ、一人で泣き叫ぶ一花に対して、瑞樹が再び救いの手を差し伸べる。
「結衣はただの友達だ」
「俺が本当に大切に想っているのは、この世界で一花だけだ」
そんな甘ったるい嘘の言葉を浴びせて優しく抱きしめてやれば、一花は安堵の涙を流し、「もう瑞樹がいなければ生きていけない」と、さらなる深い依存心とともに心に刻み込むだろう。
そのまま一花に「付き合って」と懇願されたら恋人ごっこをしてやればいいし、「抱いて」と体の関係を求められたら、好きにさせてやればいい。
とにかく、落ちるところまで徹底的に落としてやって、その後に天にも昇るような至福の愛を与えてやる。
その方が、最終的に殺される時の絶望の高低差が、より大きく、美しくなるだろうから。
――でもやっぱり、少し、後悔している。
あの真っ直ぐな瞳で好きを好きと隠さずに言い、心の底から楽しそうに笑う結衣を。
瑞樹という人間を信じきって無防備に隣で眠る結衣を。
騙して、裏切って、最後に『君と過ごした時間は、すべて復讐のためのダミーでした』とネタバラシをした時、すべての真実を知った結衣が、一体どんな傷ついた顔をするだろうかと想像すると、胸がひどく軋むのだ。
二人で過ごした時間は、嘘偽りなく心から楽しかった。不覚にもドキドキだってした。
もしも復讐鬼になんてなっていなくて、境遇さえ違えば、普通に高校生として出会って、付き合ったりしたのだろうか。
そんな叶わぬ『もしも』を考えてしまうからこそ、彼女の純粋さを復讐の道具に巻き込んだことに、消えない申し訳なさを抱いてしまう。
でも、これでいい。
瑞樹自身も、これでもかと日常の幸せを感じて、そこから急転直下で地獄へ落ちなければならないのだ。
奴らと同じように絶望しなければならない。
これは、大好きな女の子を死に追いやった自分自身に与える、絶対の戒めであり、罰なのだ。
自分だけが、結衣と一緒に幸せなまま死ぬわけにはいかない。
(だって、一番悪いのは……俺なんだから)
あの日、幼馴染たちに『本当の自分を打ち明けたい』と願った雫の、その震える背中を無責任に押したのは、紛れもなく、古河瑞樹なのだから。
「お待たせ、古河くん」
不意に、穏やかな大人の男性の声が耳に届いた。
瑞樹が沈んだ思考から顔を上げると、そこには、申し訳なさそうに、しかし確かな信頼の笑顔を向けてくる見知った五人の大人たちが立っていた。
瑞樹は即座に立ち上がり、深く、礼儀正しく頭を下げる。
「お久しぶりです」
午後七時過ぎ。駅前にある、個室タイプの大衆向け居酒屋。
瑞樹は今日、この場所に呼ばれていた。
掘りごたつの使い古された大きな木製テーブルには、色とりどりの調味料が並べられ、壁には若干のタバコと焼き鳥の匂いが染みついている。六人で使用するには少し広すぎる部屋だったが、今からここで執り行われる秘匿性の高い『報告会』には、これくらいの空間と他者の目の遮断が必要だった。
大きなテーブルを挟んで、瑞樹と大人たち五人が向かい合って座る。
さながら企業の厳粛な面接のような異様な雰囲気に、オーダーを取りに入ってきた若い店員さんが何事かと少し肩をビクッとさせて驚いていた。しかしそこはプロ。下手な詮索はせず、静かに水とおしぼりを置いて「ご注文はタッチパネルでお願いします」と言い残し、足早に去っていった。
どことなく気まずい、だが瑞樹にとっては完全にコントロール下にある異様な空気が漂う。
瑞樹は正面に並んで座る大人たちを、左端から順番に、悟られないよう静かに一瞥した。
左から、朱音の母親、遊の母親、遊の父親、一花の祖父、一花の母親。
彼らは、瑞樹がシェアハウスで同居する、幼馴染たちの保護者だ。
瑞樹が一番左に座る朱音の母親に視線を向けると、意図を察した彼女が静かに口を開いた。
「あ、ごめんね。うちの旦那、今週は出張で海外にいて、今日はどうしても来られなかったの」
朱音とよく似た顔立ちの、美しく綺麗な女性。色こそ黒だが、朱音と同じサラサラとした長い髪がよく似合う三十代。落ち着いた色合いのブラウスに身を包み、大人の清楚な雰囲気が滲み出ている。しかし、その瞳の奥には、奔放な娘を抱える親としての苦悩のようなものが微かに見え隠れしていた。
「あ、いえ。お仕事でお忙しいと思いますので、お気になさらないでください」
「……ありがとう」
そう言って安堵したようにニコッと笑う顔が、どこまでもあの朱音と似ている。
「この間の件だけど。……本当にいろいろと動いてくれてありがとうね、古河くん」
正面に座る遊の母親が、テーブルに額がつくほど深く頭を下げ、続けて隣に座る遊の父親も痛ましそうに頭を下げてきた。
この間の件とは、言うまでもなく、遊の警察沙汰の一件のことだろう。
年齢は五十代半ばだろうか。二人とも仕立ての良いカジュアルなスーツを身に纏い、社会的地位を感じさせる貫禄ある佇まいだ。そんな立派な大人二人が、高校生の自分に対して本気で頭を下げて謝罪してくる。普通の高校生なら居堪れない気持ちになるだろうが、瑞樹の心は微動だにしなかった。
「そんな、どうか頭を上げてください。俺は幼馴染として、友達として、当たり前の出来ることをしたまでです」
「遊は……まだ引きずってないかしら?」
遊の母親が困ったように、しかしどこまでも遊を案じる深い愛情に満ちた顔で聞いてきた。
「ええ、大丈夫です。最近は毎日サッカーの練習で忙しくしているので、それも良かったかもしれないですね。体を動かしている間は、余計なことを考えずに済みますから」
「……私たちのことは、家で何か言ってたりしないかい? あの日のこと……深く反省しているんだが……」
遊の父親が、後悔に苛まれたような不安な瞳で見つめてくる。
「先日、お二人がサッカーの試合を見に来てくれたこと、凄く嬉しかったと、照れくさそうに笑って喜んでましたよ」
瑞樹が完璧な好青年の笑顔を作ってそう返すと、遊の両親は「ああ……」と息を吐き出し、心底安心したように強張っていた顔の緊張を解いた。
遊とは顔の作りは少しも似ていない。血の繋がりも全くなく、戸籍上で母親と父親になっているだけの赤の他人。だが、この二人の表情を見ると、遊が今までたらい回しにされてきたどの両親だった人たちよりも、本気で彼のことを愛し、想っているのが痛いほど感じられた。
「一花は……元気にしてる?」
右端に座る一花の母親が、祈るように両手を組み、心配そうに眉を下げる。
この人の血を正しく受け継いでいると感じざるを得ないほど、彼女は一花と瓜二つだった。一花の歳の離れた姉だと間違われてもおかしくないほど顔の作りは若々しい。
しかし、深くくぼんだ目元に残る濃いクマや、水仕事でひび割れ荒れた手、ストレスで輝きを失った髪の毛を見ると、彼女がどれだけ精神的・肉体的に疲弊しているかが一目で窺えた。
「相変わらず、一番元気ですよ。この間なんか、俺が夕食にハンバーグを作って出したら、それが嬉しくてリビングを走り回って。そのままラグで滑って転んで、『いたーい!』っておでこ抑えながら大笑いしてましたから」
瑞樹のその微笑ましいエピソードに、「ふふふっ」と、張り詰めていた大人たちが一斉に頬を緩めて笑った。
無邪気で危なっかしい一花の姿が、親たちの脳裏に一様に想像できたようだった。
「そっか……良かった」
泣きそうな顔で、本当に嬉しそうに笑う一花の母親。
隣に座る一花の祖父も、目尻のシワを深くして満面の笑みで何度も頷いていた。
一花の父親は、実の娘への凄惨な性的虐待の罪で警察に逮捕され、同時に離婚が成立した。それ以降は、心身ともにボロボロになった母親と、母親の父――今ここにいる一花の祖父の二人だけで、傷ついた一花を必死に守り育ててきたのだ。だから今日は、一花の父親代わりとして、この場に祖父が同席している。
「さ、堅い話はこれくらいにして、まずは注文しましょうか。瑞樹くんも、今日は遠慮しないで好きなものいっぱい食べてね」
朱音の母親が気遣うようにタッチパネルを操作し、全員分の注文を済ませていく。
程なくして冷えた飲み物が届き、当たり障りのない世間話をしているうちに、続々と温かい料理も運ばれてきた。
側から見れば、五人の疲れた大人と一人の男子高校生が囲む、あまりにも異様で不自然な食事会。
しかしこれは、未成年の子供たちだけでシェアハウスという特異な環境を維持する上で、大人たちにとって必要不可欠な報告会なのだ。
今回で二回目の開催となり、二か月に一回、こうして集まることがルールとして取り決められている。
この場では、両親たちが離れて暮らす我が子について気になることを瑞樹に質問し、瑞樹がそれに丁寧に答える。あるいは、瑞樹の方から生活費や設備の要望を両親たちに伝えたりもする。
そうして、溝の深い幼馴染たちと両親たちの間を瑞樹がただ一人で取り持ち、正確で、的確で、齟齬のない現状の報告を行うのだ。
この場に幼馴染の本人たちがいないのは、様々な複雑な事情と心の傷を抱えた彼らの本当の様子を、客観的に間違いなく大人たちに伝えられるのは、この世で瑞樹だけだからだ。
別に、親と子が完全にお互いに顔を合わせたくないと思って絶縁しているわけではない。なんなら各々、月に何度かはちょこちょこと会っているし、電話やメッセージアプリで話だってしている。
ただ、普段の生活態度や精神の起伏を俯瞰して見て、それを包み隠さず報告できる監視役は瑞樹しかいない。だから、瑞樹だけが彼らの代理人としてこの場にいるのだ。
心に深い問題を抱え、性格に著しい欠陥とトラウマを備え持つ自分たちの子どもたち。彼らを真の意味で理解し、支えられるのは古河瑞樹だけだと、両親たちも心の底から感じていた。
だからこそ、この特例中の特例であるシェアハウスでの同居を、全員一致で許可したのだ。
そして、卒業までの三年間という高校生活の同居を通して、子どもたちが少しでも過去の呪縛から解放され、前向きに変わることが出来れば、親としてこれほど嬉しいことはないと願っている。
すべては、傷ついた我が子を不器用ながらも想う、両親たちの切実な願いと一存だった。
一人の高校生である瑞樹にとっては、あまりにも大きすぎる責任。普通なら押し潰されてしまうような大役だ。
だけど、当初は、愛する『雫』も一緒に住めるはずだった。彼女と一緒にいられる毎日の喜びに比べたら、他人の親の期待を背負うことなど大したことないと思っていたのだ。
しかし。
その大切な雫が、彼らの子どもたちのせいでいなくなってしまった今となっては、瑞樹はただ単純に、己の復讐の野望を完遂させるために、この『親公認のシェアハウス』という最高の隔離環境を利用させてもらっているに過ぎない。
毎月、四つの家族から、管理者である瑞樹の口座に多額の生活費が振り込まれる。
家賃や食費、光熱費をすべて差し引いても、高校生四人で生活するには明らかに多過ぎるくらいの額だ。幼馴染たちに「親からのお小遣いだ」と称して相場より高い金額を渡しても、それでもまだまだ瑞樹の手元には潤沢な資金が残る。
それは、本来親が負うべき問題児の世話という重い責任を瑞樹一人に押し付けたことへの、大人たちからの負い目と免罪符を含んだ金額だった。
だから瑞樹は、自身の口座に残ったその多過ぎる血塗られたお金を、惜しみなく彼らの子どもたちを破滅させるための復讐の資金として、ありがたく利用させてもらっているのだ。
「……ご馳走様でした」
瑞樹は静かに手を合わせ、深く頭を下げた。
大人たちが笑顔で全額払ってくれるだろうその温かい食事を、瑞樹は腹の底でどす黒く嘲笑いながら、綺麗に平らげた。




