第9話 齟齬
『――雫が、死んだ』
その電話越しのひどく冷たい連絡を受けた時、古河瑞樹の脳は、それがどこの国の言語なのかを全く理解できなかった。
日本語だろうか? 英語だろうか? いや、そもそもこれは言語という概念なのだろうか?
本気で頭を巡らせ、思考の迷路に迷い込んだ瑞樹は、ただ『雫が死んだ』と、意味を持たないただの音の羅列として、オウムのように淡々と両親に伝えた。
すると、どうやらその言葉の意味がわかるらしい両親が、顔面を蒼白にさせ、慌ただしく家の中で動き回り始めた。
その異常な光景を視界の端で捉えながら、瑞樹は、言語かもなにもわからなかったその単語の正体を、ようやく正しく理解し始めた。
死んだ?
自らの命を絶った?
この世には、もういない?
もう、一緒に布団で並んで話すことも。
一緒に部屋で寝転がってアニメを観ることも。
手を繋ぐことも。
温かいその小さな肩を、抱き締めることも出来ない。
昨日見た、あの夕暮れの公園での、痛々しいほど優しくて、ひどく悲しそうに笑った彼女の顔が、脳裏に鮮明に蘇る。
そうやって正しく言葉の意味を理解して――しかし瑞樹は、自分が『どう反応すればよいのか』が、まったくわからなかった。
大切な人が死んだら、大声を上げて泣き喚けばいいのだろうか。
それとも、手のひらに爪が食い込み、血が滲むほど強く握りしめて、静かに泣けばいいのだろうか。
はたまた、世の中にはよくあることだと、狂ったように楽観的になればいいのだろうか。
「なんでだよ」と、世界に対する怒りに身を任せて暴れればいいのだろうか。
正解がわからなかった。
だから瑞樹は、体から魂が抜け落ちてしまったように、すべてを考えるのをやめた。
まるで、自分とは関係のない遠い国の悲しいテレビCMを眺めているかのように。ただただ流れていく時間を、流れていくままに、無感情に身を任せていた。
お通夜の線香の匂いも、告別式での大人たちの泣き声も。
いつの間にか終わっていた、空っぽの中学の卒業式さえも。
すべてが、ピントの合わない白黒映画のようだった。
そんな現実感のない日々の果てに、雫の母親に、彼女の家に呼ばれた。
『瑞樹くん……雫と、ずっと仲良くしてくれて、本当にありがとうね。もしよかったら、雫の持ち物、何か形見に持っていってくれないかな』
ひどく憔悴し、一回り小さくなってしまった雫の母親は、瑞樹が雫と『特別な関係』にあったことを、どうやら知っていたようだった。
案内されて、彼女の部屋のドアを開ける。
中に入ると、酷く懐かしくて、胸が締め付けられるほど大好きな、雫の匂いがした。
可愛らしい淡いピンクの壁紙。
壁に一枚だけ大切に貼られた、彼女が好きだったアニメのポスター。
勉強机の上に、ちょこんと飾られた小さなキャラクターのフィギュア。
オタクとしては少し遠慮しがちな、控えめな部屋。
だけど、それがどこまでも優しくて、内気な雫らしくて。
瑞樹は、この部屋が大好きだった。
二人でこの床に寝転んで、時間を忘れて漫画を読んだ。
二人でこのベッドに肩を寄せて座って、息を潜めてアニメを観た。
部屋の真ん中に立っていると、楽しそうに好きなアニメの話をする雫が、今にもドアの向こうから『お待たせー!』と麦茶を持って、はにかみながら入ってくるんじゃないかと、本気で錯覚した。
ふと、机の上に置いてあった小さな写真立てを手に取る。
そこには、幼稚園の制服を着てニッコニコに笑う幼い瑞樹と、その隣で恥ずかしそうに顔を俯かせる、小さな雫のツーショットが写っていた。
しかし、その写真の表面は、なぜか一度ひどく水に濡れて、ふやけて、そのまま不自然に波打つように固まっていた。
その、紙を歪ませた無数の水滴の跡が、まるで。
まるで――。
「……ううっ……雫っ……!」
気づいた瞬間。
決壊した。
これまで無意識に堰き止めていた、あるいは完全に消え掛かっていたと思っていた莫大な感情が、津波のように一気に溢れ出してきた。
瑞樹は、その写真立てを胸に抱き抱えたまま、その場で膝から崩れ落ちた。
雫は、死んだのだ。
この冷たい世界に絶望して、この写真を握りしめ、一人で泣きながら、死んでしまったのだ。
その事実を、瑞樹は今、この瞬間に『初めて』理解した。
「あああああっ……! あああああああああっ……!!」
獣のような、嗚咽とも絶叫ともつかない鳴き声を上げて、瑞樹は泣き崩れた。
どれだけの時間、声が枯れるまで泣き続けていたのかわからない。けれど、雫の母親が瑞樹の背中にすがりつき、一緒になって大声で泣き、強く抱き締めてくれたおかげで、瑞樹はかろうじて心が完全に壊れずに済んだ。
瑞樹は、ふやけて今にも破れてしまいそうな、涙の跡が残るその写真だけを貰うことにして、自分の家へと帰った。
静まり返った家に帰ると、薄暗いリビングの食卓テーブルの上には、いつものように親からの夕食代のお金だけが無機質に置かれていた。
それを見て、『ああ、世界は何一つ変わっていない。この日常は、彼女が死んでも変わりなく過ぎているんだ』と、残酷な事実を実感した。
ポケットの中で震えたスマホを取り出し、画面を開く。
幼馴染グループのメッセージアプリのやり取り。
城ヶ崎朱音も。
井上一花も。
天音遊も。
そこには、まるでこの世界で『更科雫』という人間が最初から存在しなかったかのように。
『いついつ遊ぼう』とか、『高校生活楽しみだね』とか、そんな吐き気がするほど普通の、ありふれた日常を変わりなく過ごしている彼らの言葉が並んでいた。
たった一人。
一番優しくて、一番傷ついていた大切な女の子だけを、冷たい土の下に置き去りにして。
彼らは何事もなかったかのように、輝かしい明るい未来を生きようとしている。
――こんなことが、許されていいはずがない。
雫にだって、高校生になって、小説を書いて、絵を描いて、好きなものを好きだと笑える、輝かしい未来があったはずなのに。
そして、その未来の風景の中には、変わらずあの幼馴染たちを『大好きな友達』として含んでいたはずなのに。
なのに。
雫のその優しさを踏み躙り、絶望の底へ突き落とし、死の引き金を引いた『原因』である人間たちが、のうのうと笑って生きていていいわけがない。
殺す。
瑞樹の胸の中にあった、果てしなく深い悲しみ。
彼女を失った、凍えるような寂しさ。
雫に対する、愛おしくて、優しくて、温かかったすべての感情が、その瞬間、真っ黒に濁り、純度100%の殺意へと変換された。
殺す、殺す、殺す。
雫を否定し、彼女からすべてを奪い、死に追い込んだあの幼馴染たちを。
一人残らず、絶望の底に叩き落として、殺してやるんだ、と。
『コロスコロスコロスコロスコロスコロス』
もちろん、その標的の中には、一番の愚か者である自分自身も含まれている。
雫を救えなかった自分。
不容易に背中を押してしまった自分。
あの時、教室で何も言えずに立ち尽くしてしまった、無力で最低な自分。
彼らを全員、雫が味わったのと同じか、それ以上の絶望を与えて殺す。
そして最後は、この忌まわしい自分自身を殺す。
それが、雫のいない世界に取り残された、古河瑞樹の『たった一つの生きる意味』になった。




