第8話 幻想(10)
二人が交代でお風呂に入り、歯磨きを終えてすべての身支度を整えた時には、時刻は既に深夜の二時を過ぎていた。
早朝から活動を開始し、十時間ぶっ通しでゲームをし続け、さらには精神をゴリゴリとすり減らすアニメを二時間以上観た瑞樹の体力は、完全に限界を迎えていた。
結衣が洗面所で寝る準備を終えてリビングに戻ってくる頃には、瑞樹はソファに座ったままコクリコクリと深く船を漕いでいた。
「瑞樹くん、ここで寝たら体おかしくするよ。ほら、ベッド行くよ」
結衣が横に立ち、瑞樹の肩をゆさゆさと揺らして起こす。
「んん……ねむー……」
「ほら、目を開けて瑞樹くん。私じゃ瑞樹くんを運べないから、自分で歩いてもらわないと」
「ん……は! 寝てた!?」
バチッ! と急に目を見開き、一瞬で完全覚醒する瑞樹に、結衣は「わっ、そんな急に起きることある!?」とビクッと肩を跳ねさせて驚いた。
瑞樹は昔から寝起きが良い。良過ぎるくらいだ。寝ぼける時間もベッドでうだうだとする時間もほぼ無く、電源を入れた機械のように一気に覚醒状態まで持っていくことができる。
特になんの意味も意義もない、地味な特技だった。
しかし、今日は特に疲労が溜まっている。
覚醒したのも束の間、またすぐに瞼が鉛のように重くなってきて、強烈な睡魔の波が押し寄せてくる。
「ちょっと、また寝る気!? 早くいこーよ」
んんー! と結衣が小さな両手で瑞樹の腕を強く引く。瑞樹はのっそりと立ち上がり、ゾンビのようにふらふらと結衣に手を引かれて寝室へと向かった。
寝室に入り、シングルベッドの布団をめくって結衣が先に入ると、続けて瑞樹が滑り込むように入る。
瑞樹は眠気のせいか、結衣がいるのを考慮していないように、我が物顔でベッドの中央を陣取った。ズズっと結衣は壁際に押し込まれ、ただでさえ小さい体を更に小さく縮める羽目になる。
「ベッドふかふかー。こりゃすぐ寝れるわ……」
満足そうに布団を首までかけ、目を閉じる瑞樹。
「え、私のこと見えてない!? 私いるんですけど。てかそもそも、ここ私のベッドなんですけど!」
「うるさいなー。深夜に耳元で大きな声を出すんじゃありません」
「なんか私が悪いみたいになってない?」
結衣は抵抗しようと、布団の中でグイグイと瑞樹の背中を押すが、瑞樹はびくりとも動かない。
「んもー、これじゃ私が体おかしくしちゃう」
文句を言いながらも、どこか楽しそうな結衣の声。瑞樹はそれを聞いて、流石にベッドから落ちない程度に体を横にずらした。
少し、からかって遊びすぎた。
「ごめんごめん」
「ねー、枕は?」
視線を横に向けると、ムスッとした表情で横たわる結衣と目が合った。
結衣の使っている枕が小さくて、瑞樹が頭を乗せるとその面積を使い切ってしまうのだ。二人で使うとなると、頬をすり合わせるくらい近づかないと無理だ。
瑞樹は少し考えて、左腕を布団からスッと出すと、結衣の頭の上で伸ばした。
意図を理解した結衣は、ジト目で瑞樹を見つめながらも、よいしょと頭を浮かし、首元に入ってきた瑞樹の左腕にゆっくりと頭を乗せた。そのまま瑞樹の肩にコツンと頭を寄せて、ピッタリと瑞樹の体に身を寄せる。
もはや、小さい枕を二人で無理矢理使った方がまだ物理的な距離を取れたのではないかと思うほど、甘い距離感になってしまった。
「……なんか、近過ぎないか?」
「そう? 今更な気もするけど」
瑞樹の脇腹に微かに触れている柔らかい胸の感触も。瑞樹の胸板にポンと置かれた小さな左手も。布団の中で瑞樹の脚を挟み込んでいる細い太ももの感触も。
彼女に取っては、別に大したことない日常のスキンシップなのだろうか。
でも確かに、今日一日散々結衣に触れてきて、今更この程度で照れるなんて感情はないかもしれない。
「そうかもな」
「でしょ。私に発情なんてしないでしょ?」
「…………」
「え、無言こわ」
結衣が顔を上げて、瑞樹の胸元から覗き込むように見上げる。
瑞樹は気まずくて、スッと視線を天井へと逸らした。
「いやっ……前にも言ったけど、普通に触りたいぞ」
年頃の女の子なら引くこと間違いないストレートな台詞を、瑞樹はさらっと言う。
結衣は暗闇の中でもわかるくらい微かに頬を赤らめて、熱を冷ますようにまた顔を瑞樹の胸の方に埋めた。
「そ、そーいえば、そうだったね」
か細く呟く結衣。
「ちょっとやそっとじゃ、この気持ちは変わらないね。……あ、そうだ」
瑞樹は、ふと悪魔的な契約を思い出す。
「昼間、ゲームで和葉を一発で攻略したご褒美の、『なんでも言うこと聞いてくれる』ってやつ。……あれ使って、今から結衣を触ってしまおうか」
ぐふふ、とわざとらしく悪役のような気持ちの悪い笑みを漏らす瑞樹。
もちろん、本当にそんな狼のようなことをする気はない。
無防備な結衣をからかって、困らせてやろうと思っただけだ。
いつものように『変態!』とか『えっちなのはダメって言ったじゃん!』とムキになって返してきたら、『ちぇー』とわざとらしく落ち込んでみせる。
そんな、他愛のないラブコメ的な流れを楽しもうと思っていた。
いつもの悪ふざけのノリだったのだ。
なのに。
今もこうして腕の中で小さく丸く収まっている結衣から、思ってもみない返答が来てしまった。
なんて言ったのか、脳の処理が追いつかなくて、瑞樹は思わず「え?」と聞き返した。
すると結衣はまた顔を上げて、暗闇の中、どこか強い意志を持ったように、潤んだ瞳で瑞樹を真っ直ぐに見つめて、ハッキリと言ったのだ。
「……いいよ、触っても」
結衣は瑞樹から少しだけ体を離して、瑞樹の右手が滑り込みやすいように、布団の中に隙間を作った。
わけがわからなかった。
結衣が、そんなことを許すとは微塵も思っていなかった。
でも、少し瞳を震わせて、頬を赤くして、普段の彼女からは想像もつかないような艶っぽい表情で見つめてくる結衣を見ると、それが冗談には見えなかった。
瑞樹はゴクリと生唾を飲み込んで、ゆっくりと右手を、結衣の胸の方へと近づけた。
しかし、そこでハッと気付く。
(いや待てよ!?)
これは、もしかすると結衣のお得意の『アニメや漫画のシーン再現』かもしれない。
同じベッドで寝る男女。「触っていいよ」と目を閉じる女の子。
いやいや、どんなエロゲだよ。
結衣が好きなラブコメに、こんな際どい状況のものがあるのか。少なくとも、瑞樹の脳内データベースの検索には引っかからない。
だとしたら。やっぱり、そういうことなのか。
瑞樹はキュッと目を閉じる。
正直、触りたかった。偶発的に触れてしまうのと、互いの明確な意思を持って触るのとでは雲泥の差だ。「いいよ」と言ってくれているのだから、触って、その時の結衣の反応も見てみたい。
瑞樹だって一端の男子高校生だ。こんな気持ちになるのは、至極自然なことなんだ。
「ほんとに……いいんだよな?」
「……いちいち確認しないでよ。恥ずかしいんだけど」
『冗談でーす! わーいわーいへんたーい!』なんて茶化すような台詞が飛んできそうな空気は、一切なかった。
瑞樹はゆっくりと震える右手を伸ばし、そして。
――ぷにっ。
結衣の、柔らかい『お腹』を摘んだ。
「…………」
「…………」
完全に尻込みした。ビビったのだ。
一歩踏み越えるだけの、意気地が無かった。
結衣とお腹を摘んだまま目が合った状態でしばらく時が経ち、やがて結衣が「ふふっ」と小さく吹き出して笑った。
「ヘタレだね。瑞樹くん」
恥ずかしくて今すぐどこかに消えてしまいたかった瑞樹だが、あいにく逃げ場所もなかったので、素直に敗北を認めた。
「……はい。俺はヘタレです」
結衣は開けた隙間を閉じるように、再び瑞樹にべったりとくっつき、「さ、寝よっか」と瑞樹の体を抱き枕のようにギュッと抱き締めた。
寝ようとしている結衣の頭上に向かって、瑞樹はヘタレなりの思いをポツリと呟いた。
「俺たちは、友達だから……友達は、そんなことしないだろ。……結衣のこと、好きだから、今のこの関係は大切にしたくてですね……」
それは、半分は本音で、半分は逃げだった。
自分の汚れた手が、彼女に触れる資格などない。いつか破滅する自分と、これ以上深く関わらせてはいけない。
瑞樹のその不器用な言い訳に対して、結衣は何も答えなかった。
答えなかったけど、代わりに。
布団の中で瑞樹の右手を取り、自分の左手の指を絡め、恋人繋ぎのまま、ギュッと強く握りしめてきた。
その無言の強さと温もりに、瑞樹は静かに目を閉じ、抗えない眠りの中へと落ちていった。




