第8話 幻想(6)
「はぁ、神。もうこれが正史じゃん」
感動のあまり両手で顔を覆う結衣をよそに、瑞樹はコントローラーを取り落とすように置き、ぐったりとソファの背もたれに深くもたれかかった。
窓の外は完全に日が落ちており、時計の針は十八時を過ぎていた。かれこれ十時間ほどぶっ通しでプレイして、見事、最難関の『和葉エンド』で終えることが出来たのだ。
和葉が最後に告げた、『自分の好きなものを捨ててでも、あなたと一緒にいたい』という切実な台詞。それで主人公は完全に自分の本当の気持ちに気付き、二人は涙ながらにキスをして結ばれた。
感動した。
画面の中の二人が結ばれて本当に良かったと、少し泣きそうになってしまったシーンもある。これが見たかったのだ。
瑞樹はソファの背もたれに体重を預け、自分の股の間にすっぽりと収まり、その腕の中に抱いている結衣の温もりを感じたまま、薄暗い天井を見上げた。
「……自分のアイデンティティとも言える好きなものを捨てられるほど、好きだったんだな……想像もつかないな……」
「そんな命懸けの大恋愛、普通の高校生で体験することなんてないしねー」
瑞樹は、かつての最愛だった人、『更科雫』のことを思い出す。
もしあの時、彼女が『オタク趣味をやめるから付き合って』と言っていたら。あるいは、もし瑞樹自身が『俺がオタク趣味を捨てるから、付き合ってくれ』と伝えていたら。
果たして、自分たちはどういう結末を迎えていただろうか、と不毛な想像を巡らせてみる。
明確な言葉で恋人だと定義したことはなかったけれど、実際のところ、当時の二人は付き合っているようなものだった。手を繋いで歩き、隠れて抱き締め合い、キスもした。
だから、『もし今の自分が、胸の奥に抱えている「捨てられないもの」を手放さなければ、意中の人と一緒にいられない』としたらどうだろうか、と考える。
――具体的に、その『意中の人』が誰なのか。
考えるまでもなかった。
ふと視線を下に戻すと、結衣が瑞樹の胸元に背中を預けたまま、顔だけを上に向けてこちらをじっと見つめていた。
瑞樹の顎先に触れる柔らかな髪の毛。その隙間から覗く、ビー玉のように澄んだ大きな瞳。そして、雪のように白く滑らかな肌。
友達の贔屓目など一切抜きにして、客観的に見てもとびきり可愛いと言えるこの少女が。今、何の警戒心もなく無防備に自分の腕の中に収まり、その幼気な眼差しで自分だけを見つめている。
その生々しい体温と甘い香りを改めて肌で認識した瞬間、瑞樹はゲームの世界から急激に現実世界へと引き戻される感覚に陥った。
「……どうしたの? 流石にぶっ通しで疲れた?」
心配そうに小首を傾げる、愛らしい仕草。
「あ、さてはあのエンディングの余韻に浸りまくってるやつだ。わかるー!」
こちらの心を解きほぐすような、ニコニコと楽しそうな明るい声。
「でも、お腹空いたから早く夜ご飯作ってー」
むすっと唇を尖らせているくせに、どこまでも甘えきった顔。
彼女から出てくるその表情、声、仕草のすべてが、かつて最愛だった雫に重なる部分があって、でも、決定的に全然違っていて。
瑞樹は今、過去の幻影と目の前の結衣との違いを数えるよりも、ただ純粋に、この目の前にいる結衣と共に歩む、これから待ってる未来の好きを作っていきたいと、強烈に思ってしまったのだ。
(……ダメだ)
ダメだと、頭の奥で冷たい理性が警鐘を鳴らす。
自分みたいな、復讐と悪意に塗れた愚かな人間が、こんなにも眩しい誰かを真っ直ぐに想うなんて。
自分みたいな、幼馴染を支配し、破滅させようとしている歪んだ人間を、こんなに純粋な女の子が想ってくれるなんて。
そんな都合の良いハッピーエンドが、許されるはずがない。
(だって、俺はもう……あいつらを殺すって、決めてるのに)
「……瑞樹くん?」
「……っ!」
至近距離で甘く名前を呼ばれて、ドクン、と、瑞樹の心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで大きく跳ねた。
いや、もう、ダメかもしれない。
瑞樹の心の中で、これ以上踏み込んではいけないと強固に保っていた友情という名の石碑が、音を立てて瓦解していくのを感じた。
見つめ合う視線に、強烈な引力が生まれる。
瑞樹は、まるで何かに操られるように、ゆっくりと結衣の唇へと顔を近づけていた。
「――瑞樹くん、キス、しようとしてるでしょ」
触れ合う寸前の距離。
結衣が顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに、だけど強い意思を持った瞳で瑞樹を真っ直ぐに射抜いた。
その言葉は、微かに震えていた。
拒絶というよりも、今の心地よい関係が壊れてしまうことを恐れる、精一杯の虚勢に見えた。
ハッと我に返り、瑞樹は全身から血の気が引くのを感じた。
やってしまった。
(確かに今、結衣に止められなかったら、俺は間違いなく……)
「ごめんっ」
瑞樹は弾かれたように結衣の体を離し、逃げるようにソファから立ち上がろうとした。
「逃しません!」
ギュッ、と。
結衣が瑞樹の服の袖を強く引っ張り、強引に元の位置へと引き戻した。
「なっ……!」
「気まずくなって何も言わずに距離を取るラブコメムーブは、二次元の中だけで十分! さ、さあ白状して。……今、しようとしたよね。キス」
振り解こうと思えば、男の力なのだから簡単に逃げられる。だけど、結衣の怯えながらも逃げずに踏み込もうとする真剣な眼差しが、それを許してくれなかった。
瑞樹は行き場を失い、苦笑いを浮かべてスッと目線を逸らす。
「……い、言わないと……ダメか?」
「だって私たち、ただの友達なんだよね? ……なのになんで、キスしようとするの?」
結衣だって、心臓が口から飛び出そうなくらい恥ずかしいはずだ。なのに、この感情の正体を曖昧なままにして逃がすつもりはないと、その潤んだ瞳が雄弁に語っている。
「……それは」
しかし、正面から彼女の思いに向き合うことから、瑞樹は卑怯にも目を背けた。
「……俺たち、きっと……既に、側から見たらただの友達じゃない……から?」
「えっ……?」
「めっちゃ恋人っぽいじゃん、さっきまでの体勢含めてさ」
瑞樹の股の間に入り込んで、背後から抱き締めるように何時間もくっつき合っている。
これが健全な友達同士だと言われて、「そうですね」と納得するのは、バグった距離感を持つこの二人くらいだろう。
「そ、それは……確かに……?」
「だから……」
結衣がへへへと毒気を抜かれたように苦笑いした隙を突き、瑞樹は決定的な嘘を重ねる。
「正直、その恋人みたいな甘い雰囲気に、完全に呑まれた。魔が差して、『このままいってもいいかな』って思っちゃったんだ。……ごめん」
「……ふーん」
瑞樹は、逃げた。
これは、今この場で思いついた、いかにもそれっぽい最低な言い訳だ。
本心は、もっと別の、深く重い場所にある。
思っちゃいけないことを、強く思ったのだ。抱いちゃいけないほどの巨大な愛しさを、抱いてしまったのだ。
しかし、この感情は、絶対に無かったことにしなきゃいけない。自分の手が完全に血に染まる前に、彼女をこの狂った箱庭から遠ざけなければいけないのだから。
「……お腹空いただろ。ご飯作るよ。もう、逃げていいか?」
瑞樹が力なく微笑むと、結衣はジッと瑞樹の顔を観察した後、小さく息を吐いた。
「んー、仕方ない。今日は仮釈放だね。これからは執行猶予中です」
結衣はそう言うと、瑞樹の体から離れて、立ち上がるためにスッと手を出した。
瑞樹はその小さな手を取り、互いに引っ張り合うようにしてソファから立ち上がる。
「情状酌量の余地はありましたか」
「そーだね。……私もこんな体勢許してたわけだし、お互い様だから」
「ん?」
「なんでもないっ。……で、夜ご飯なに?」
結衣が少しだけ寂しそうに微笑んで話題を変える。
瑞樹はキッチンに立ち、エプロンをきつく結び直しながら、努めて明るい声で答えた。
「オムライスだ」




