第8話 幻想(3)
朝の六時半を過ぎた頃。
瑞樹は駅の反対側にある二十四時間営業の大型スーパーで買い出しを済ませ、ずっしりと重いレジ袋を両手に抱えて、結衣の住むワンルームマンションの前に到着した。
「……やばっ」
見慣れたドアの前に立って、瑞樹はふと重大な事実に思い至った。
昨夜のチャットで間接的に「朝から来い」と言われたものの、具体的に何時に行くかという連絡を一切していなかったのだ。完全に瑞樹の裁量に委ねられたまま、連絡が途絶えてしまった。
さすがに、休日のこんな早朝に突然チャイムを鳴らして叩き起こすのはデリカシーがないだろうと思い、瑞樹は一旦袋を足元に置き、スマホを取り出して結衣に電話を掛けることにした。
数コールの後、ガチャリと通話が繋がる。
『……もし、もし』
まだ深い眠りの底にいたのだろう。ひどく掠れた、とろけるような寝ぼけ声がスピーカーから届いた。
「起こしてごめん。今、家の前にいるんだ」
『……なにそれ。新手のメリーさん……?』
「中に入れてくれ。そしたらまた寝ていいから」
『……物理的に家に入ろうとするメリーさんとか……初めて聞いた……』
急に起こされたというのに、相変わらずノリが良すぎる。
直後、ドアの奥からペタペタという裸足の足音が聞こえてきて、すぐにカチャリと内鍵が開けられた。
ゆっくりとドアが開かれると、そこにはパジャマ代わりのダボダボのグレーのスウェットに、ヨレたアニメTシャツという見事な干物スタイルの少女が立っていた。
ショートカットの髪の毛はあちこちに見事な寝癖を作り、両手で目をこすりながら、今にも倒れそうに舟を漕いでいる。
つい先ほど、シェアハウスで朱音を相手に同じような寝起きの光景を見たばかりだ。しかし、朝から妖艶な雰囲気を漂わせていた朱音と違って、小動物のように無防備な結衣の姿には、どこか庇護欲をそそる幼いイメージがあった。
「おはよう、結衣。来る時間の連絡忘れててごめん。朝ごはん、作りに来た」
「……んー」
「入っていいか?」
「……んん」
結衣は閉じた目のまま寝ぼけて頷き、くるりと振り返ると、トボトボと覚束ない足取りで部屋の奥へと戻っていく。
それが入ってもいいという合図だと受け取り、瑞樹は重い買い物袋を提げて家の中に入り、静かに鍵を閉めて結衣の後を追った。
キッチンカウンターに袋を置き、結衣の行方を目で追う。
彼女は寝室のドアの前で立ち止まったまま、目を瞑ってフラフラと前後に揺れていた。
瑞樹は慌てて駆け寄り、結衣が床に倒れないように両肩にそっと手を添える。
「おい、危ないぞ」
すると結衣は、安心したように瑞樹の腕に全体重を預け、コテンと瑞樹の胸に倒れ込んできた。
「……目が、開かない……ベッドまで連れてって……」
またしても、さっきの朱音と同じような密着状態になる。違うのは、結衣には変な思惑など一切なく、あるのは純粋にベッドに戻る意思だけだ。
瑞樹は苦笑しながら結衣の華奢な肩を抱き寄せ、寝室に入って乱れたベッドに優しく寝かせる。結衣はシーツに包まれると、夢の続きでも見るように、あっという間に安らかな寝息を立て始めた。
「……無警戒過ぎだろ。どんだけ俺のこと信用してくれてるんだか」
ネット上の友達になってからもまだ日は浅く、リアルで会ったのもまだ数回。なのに、この有様だ。休日の早朝に男を家に上げ、自分はまた無防備に眠りにつく。
「俺が悪い奴だったら、どうするつもりなんだよ」
瑞樹は寝顔に向けて小さく呆れたように微笑み、静かに寝室のドアを閉めた。
***
キッチンに戻った瑞樹は、買ってきた食材を手際よく仕分けし、朝ご飯で使うもの以外を冷蔵庫にしまっていく。
今日の朝ご飯のメニューは、シンプルに鮭の塩焼きと出汁巻き卵、そして豆腐とワカメの味噌汁だ。絶対に自炊をしない結衣が、普段の生活ではまず食べることがないであろう、和食の王道のラインナップ。
結衣の部屋にあるほぼ新品の調理器具とIHコンロを使い、瑞樹は流れるような手際で準備を進める。
鍋で出汁を取る優しい香りと、フライパンで鮭が焼ける香ばしい匂いが、無機質だったワンルームに満ちていく。一時間もしないうちに、完璧な朝食が完成した。
食卓テーブルに出来上がった料理を並べていると、匂いにつられたのか、タイミング良く結衣が寝室から起きてきた。
「おはよう」
「……おはよう、瑞樹くん」
結衣はまだ少し眠そうに目を擦りながらリビングに入ってきたが、食卓に綺麗に並べられた朝ご飯を見た瞬間、みるみるうちに表情がパァッと明るくなった。
「わぁっ……! 朝ご飯が口寄せされてる!」
「俺の努力を、忍術で片付けるな!」
「顔洗ってくる!」
結衣は嬉しそうにドタドタと洗面所へ向かった。
その隙に瑞樹は、熱々の味噌汁をお椀に注ぎ、炊き立てのツヤツヤした白米を茶碗に盛り付けてテーブルにセットした。そこへ、顔を洗ってサッパリした結衣が食卓に座る。
「わあああ……!」
湯気を立てる和食のセットを前に、目をキラキラとさせて喜ぶ結衣。
瑞樹も自分の分の食事を適当な食器に盛り、向かいの席に着いた。
「お口に合うかわかりませんが。召し上がれ」
「いただきます!」
結衣は綺麗に両手を合わせると、まずは味噌汁を一口飲み、「うまー! 出汁ー!」と叫んだ。
次に焼き魚の身をほぐして一口食べ、「シャケー!」と幸せそうに両頬に手を当てる。
続けて出汁巻き卵を箸で切り分けて口に入れ、「ふわっふわー!」と感動に打ち震え。
最後に白米を頬張って、「炊き立てーっ!」とバンザイするように両手を挙げた。
前回のボロネーゼの時もそうだったが、結衣は本当に、見ているこちらが嬉しくなるくらい美味しそうにご飯を食べてくれる。料理を作る者にとって、冥利に尽きるとはこのことだ。
「……炊き立てのご飯とか、何年振りだろ……美味しい……」
ふと、結衣が少しだけ寂しそうなトーンでポツリと呟き、箸を置いた。
「大袈裟だな。高校に入学して一人暮らしを始める前は、実家暮らしだったんじゃないのか?」
「うーん。実家暮らしだからって、必ず親の手料理が毎日出てくるとは限らないんだなー、これが」
結衣は、わざと大袈裟に明るく振る舞って笑った。
しかし、その無理に作られた明るさが、逆に彼女の抱える痛々しい過去や孤独な食卓の風景を容易に想像させた。
そして、瑞樹にもその『痛み』の正体は、痛いほど理解出来た。
「俺の家さ、小学生の頃から両親がネグレクト気味でさ。その頃から、食卓にはご飯の代わりに、ただお金だけがポンって置かれるようになったんだ」
瑞樹が静かに告白すると、結衣がびっくりしたように瞳を大きく見開き、箸を持ったまま瑞樹を見つめた。
「だから俺は、そのお金を持って近所のスーパーに行って、食材を買って自分で作るようになったんだよ。……結衣は、もらったお金でコンビニ弁当で済ませた派だな?」
「し、仕方ないじゃん。まだ子どもだったし……料理なんてわからなかったし……。てか、瑞樹くんも、私と同じような境遇だったんだね」
「だな。俺の場合は、その頃から幼馴染たちが周りにいたから、一緒にご飯食べたりして気が紛れたけど。結衣は……一人で、逃げ場とかあったのか?」
瑞樹が尋ねると、結衣は「んー」と考えながら箸を持ち直し、シャケと白米を口に運んだ。
「それこそ、オタク趣味かな。小さい頃から、親がいない部屋でアニメ観まくってたし。二次元の世界にどっぷり浸かってたから、辛くはなかったよ。……寂しくは、あったけど。へへ」
そう言って笑う結衣の表情は、どこか無理をして強がっているように見えた。
「でも、今は全然へーきだよ。両親とも離れてからは割と普通に電話で話すし。ただ、こうやって瑞樹くんの作ったあったかいご飯食べてたら、なんかちょっと昔のこと思い出しちゃって。……朝から変な話しちゃってごめんね」
「謝らなくていいよ」
どんなに明るく取り繕っても、寂しそうに笑う結衣の心情は、痛いほど察してしまう。言葉にしなくても、彼女がどれだけ一人で孤独な時間を耐え抜いてきたのか、ひしひしと伝わってきた。
だから。
「俺の作ったやつでいいなら。……手作りのご飯が食いたくなったら、いつだって俺が作ってやるよ。白米食って、心の底から純粋に美味しいって思えるようになるまで、ずっと付き合ってやる」
瑞樹の口から、真っ直ぐで嘘のない本音がスッとこぼれ落ちた。
結衣はカアッと顔を赤くさせ、照れ隠しのようにジト目で瑞樹を睨みつけた。
「……そーゆークサイ台詞、よくもまぁ恥ずかし気もなく言えるね?」
「『思ったことはちゃんと口に出して伝えた方が良い』と、どっかの偉い人が俺に教えてくれたからね」
「その人は偉大だね。歴史の教科書に載るべきだと思うよ」
「載ったら『これお前じゃね?』ってイジられる学生生活になるぞ」
「私が生きてる内に歴史になるの? それはヤダね。ふふっ」
二人で目を合わせ、クスクスと笑い合う。
いつもの軽口の応酬で、結衣は少し元気を取り戻したようだった。
「ところで瑞樹くん。ほんとに朝から来てくれたんだね」
「そりゃな。あんな脅迫みたいな言い方されたら、行かないわけにはいかなかっただろ」
『明日は瑞樹くんのご飯しか食べない』
結衣は確かにそう宣言したのだ。あれは半ば、瑞樹に対する脅しに近い。
「あはは。どんだけ早くても、来るのはお昼頃かと思ったよ。でも、ありがとう。朝からこんなに美味しいご飯が食べられて、私、すっごく幸せ」
「俺も、朝から寝起きの可愛い結衣と会えて幸せだ」
「…………っ」
結衣はまた限界まで顔を赤くして、無言でパッと俯いてしまった。
「おい、そこは何かしらノッて返してくれないと、言った俺が死ぬほど恥ずかしいんだが?」
瑞樹がたまらずツッコミを入れると、結衣はジトッと瑞樹を下から見上げた。
そして、おもむろに自分の座っていた椅子を持ち上げ、ガタガタと瑞樹のすぐ隣のスペースに無理やり設置した。
自分の茶碗やお椀もすべて瑞樹の隣に移動させ、いつものように肩と腕をぴったりと密着させたゼロ距離で、食事の続きを始めたのだ。
「……何故、わざわざ隣に来る」
「小説の『取材』」
「取材といえば、なんでもまかり通ると思ってきてないか?」
「……バレたか」
まあ、別に嫌じゃないからいいけど。
瑞樹は小さく呟きながら出汁巻き卵を口に運び、肩越しに伝わる結衣の温かい体温を感じながら、楽しくも微笑ましい朝食の時間を過ごした。




