第8話 幻想(2)
ジリリリリ、と。
静寂に包まれた薄暗い部屋に、スマートフォンの無機質なアラーム音が鳴り響いた。
時刻は朝の五時。夏休みを間近に控えたこの季節、窓の外はすでに薄青く白み始めているが、シェアハウスの中はまだ深い眠りの底に沈んでいる。
瑞樹は重い瞼を擦りながらアラームを止め、のろのろとベッドから這い出した。覚醒しきらない頭のまま、まるで糸で操られる人形のようにトボトボと自室を出て、一階の洗面所へと向かう。
蛇口を捻り、初夏の朝の少しだけひんやりとした冷水で顔を洗う。パシャッと水を弾き、タオルで顔を拭ってからふと鏡を見上げた時。
鏡越しの視界に、長い金髪を垂らした女性の姿が幽鬼のように立っているのが映り込んだ。
「わっ! ……って、朱音か。驚かせるなよ」
心臓が跳ねるのを抑えながら振り返ると、そこには目をこすっている朱音がいた。
朱音はまだ完全に夢と現実の境目を彷徨っているような眠気眼で、フラフラと歩み寄り、瑞樹のパジャマの袖をきゅっと弱々しく掴んだ。
「おはよう、瑞樹くん……早いね……」
まだ夢の途中なのではないかと思うほど、ゆったりとした、とろけるような甘い声で喋る朱音。
「今日はちょっと、用事があるんだ。帰りは明日になるから」
鏡越しにタオルを首に掛けながらそう伝えると、朱音は背後から瑞樹の腹に腕を回し、コトンと背中に頭を乗せて強く抱き締めてきた。
「……なんか最近、そういうの多いね。……友達、と……?」
寂しいのだろうか。それとも、見えない誰かに嫉妬しているのだろうか。瑞樹の背中にしがみつく細い腕の力が、ギュッと強くなる。
「そうだよ、オタク友達。……一花じゃないんだから、そんなにくっつくな。暑いだろ」
少し突き放すように咎めると、朱音は「んーん」と首を振り、更に腕の力を強くして瑞樹の背中に身体を密着させた。パジャマ越しに、彼女の柔らかい体温が直に伝わってくる。
「あたしだって……たまには一花みたいに甘えたい時、あるもん……」
「はぁ……」
瑞樹は観念したように小さくため息を吐き、自分の腹に回された朱音の白い手を優しく解くと、体を回転させて彼女と正面から向き合った。
怒ったように眉間にシワを寄せ、ツンと唇を尖らせている朱音。だが、強烈な眠気のせいで目がほとんど開いておらず、なんともアンバランスでヘンテコな表情になっていた。
それでもハッとするほど可愛いと思わせるのは、朱音という少女の生まれ持った素材があまりにも良すぎるからだろう。
「ほら、おいで」
瑞樹はやれやれといった呆れ顔を作りながらも、両手を広げて受け入れの姿勢を見せた。
「……ん」
朱音は待ってましたとばかりに、倒れ込むように瑞樹の胸の中へと収まった。すっぽりと腕の中に包まれると、安心したように満足げに口の端を上げる。
瑞樹は、胸に押し付けられた朱音の綺麗な金髪を、宥めるように優しく撫でた。いつ触っても、シルクのようにサラサラだ。この状態を保つのはさぞ手入れが大変だろうと、どうでもいい思考が頭をよぎる。
「……瑞樹くん……」
「うん?」
「あたし、瑞樹くんのこと……好き、かも」
ドクン、と。
唐突な言葉に、瑞樹は彼女がまだ寝ぼけているのかと小首を傾げ、胸の中にいる朱音の顔を覗き込んだ。
朱音はほんのりと頬を赤く染め、目をギュッと固くつむっていた。
寝ぼけて、いる?
それとも、本気で言っているのだろうか。
瑞樹の箱庭の中で、自分への『依存』が『恋愛感情』へとすり替わり始めている兆候?
「……俺も大好きだぞ。一花も遊も、みんな家族みたいに大好きだ」
瑞樹はあえてその言葉の真意をはぐらかし、平坦な声で答えた。
「そうじゃなくて……っ」
「ほら、風邪引くから部屋に戻ってベッドで寝ろ」
瑞樹は朱音の両肩を掴んで自分の体から優しく引き剥がすと、抵抗する彼女の手を握り、二階の自室へと先導するように歩き出した。
木造の階段をゆっくりと昇る。女性陣の寝室は二階だ。薄暗い廊下を進み、真ん中にある朱音の部屋のドアを開ける。
大人しく手を引かれてついてきた朱音を部屋に入れ、乱れたベッドにコロンと寝かせた。
「じゃ、俺は準備して行くからな。ちゃんと鍵かけて寝ろよ」
そう言い残してベッドから離れようとした時。
シーツの擦れる音とともに、朱音が瑞樹の左手を両手でギュッと強く掴み取った。
「朱音?」
振り返ると、朱音はしっかりと目を開けていた。そこに、先ほどまでの寝ぼけているような緩い空気はない。
彼女はベッドの上で横向きに丸まったまま、縋るような、酷く寂しそうな瞳で瑞樹を見上げて言葉を紡いだ。
「瑞樹くん……遠くに、行かないでね? あたしたちのこと、置いてかないでね……?」
「朱音……」
瑞樹はベッドの傍らにしゃがみ込み、朱音の視線と同じ高さに目線を合わせる。
朱音は今にも泣き出しそうに、その美しい瞳を朝の光の中で潤ませていた。
「瑞樹くんがいなくなっちゃうの、ヤダから……」
「そんなことしない。お前たちを置いていくわけないだろ、大丈夫だ」
「…………の?」
「ん?」
朱音が最後に小さく何かを呟いたが、声が小さすぎて聞き取れなかった。
「なんて言った?」と瑞樹が聞き返そうと、朱音の顔にすっと顔を近づけた、その瞬間。
バッ! と。
獲物を捕らえる蛇のような素早さで朱音が動き、その両手で瑞樹の頬をガッチリとホールドした。
そして、そのままの勢いで瑞樹を引き寄せ――ちゅっ、と。
瑞樹の右頬に、自分の唇を強く押し当てて、勢い良くキスをしたのだ。
「……っ!」
何が起きたのか瞬時に理解できず、時が止まったように完全に静止する瑞樹。
至近距離で交差する視線。瑞樹の目には、今まさに目の前で扇情的に目を細め、ニヤッと口角を吊り上げて笑う朱音の姿が映っていた。
「なにしてっ――」
「しっ!」
想定外の事態に思わず大きな声を出そうとした瑞樹の唇を、朱音がスッと人差し指を添えて塞ぎ、止めた。
隣の部屋では一花がまだ深い眠りについている。あまり大きな声を出すと、彼女を起こしてしまう可能性があるからだ。
「うっ……」
瑞樹は感情の行き場を失い、自分の支配下にあるはずの盤面が乱されたことに酷く悔しそうな顔をして、眉間を顰めた。
朱音はまた、獲物を絡めとるようなニヤッとした笑みを浮かべ、朝の光の中でもはっきりとわかる妖艶で執着に満ちた瞳を瑞樹に向けた。
「――マーキングっ」
甘く、仄暗い響きを含んだ声でそう囁くと、朱音は満足そうにゆっくりと目を閉じて、布団の中に潜り込んだ。
瑞樹は呆気に取られたまま、しばらくの間、ベッドで静かに寝息を立て始めた朱音の丸まった背中を見つめていた。
やがて、頬に残る柔らかい感触と微かな熱を手の甲で拭い去るように立ち上がり、無言のまま彼女の部屋を後にした。




