第8話 幻想
夏休みも間近に控えた、ある日の夜。
瑞樹は自室のパソコンの前に座り、モニターの明かりに照らされながらキーボードを叩いていた。画面に映し出されているのは、通話・チャットアプリのトークルーム。相手はネットからの気のおけないゲーム友達『ころも』であり、リアルの大切なオタク友達である『井上結衣』だ。
毎晩、寝る前に他愛もないチャットのやり取りをする。それは、現実世界で奇跡的な再会を果たすずっと前からの、二人の心地よい恒例行事だった。
『瑞樹くん、遂に明日、最終話だね』
『だね。結衣はあれから観てる?』
『いや無理だよ。死家は瑞樹くんと一緒じゃないと観れない』
結衣にとって、ホラーやサスペンス要素の強いあのアニメは本来苦手なジャンルだ。だが、瑞樹と熱く語り合うために、わざわざ頑張って観てくれているのだ。ただし、「隣に瑞樹くんがいること」が絶対条件らしいが。
第一話でいきなり三時間という異質な放送枠から始まった『あいシてるHOUSE』は、現在第十一話まで放送済み。そして明日、遂に最終話が放送され、完結を迎えることになっている。
無駄にダラダラと引き延ばすこともなく、きっちりワンクールで一番美しい形で終わらせるのが、この監督の特徴であり美学だ。
瑞樹は毎週欠かさずリアタイで追っているが、結衣の視聴進行度は、瑞樹と一緒に彼女の部屋で観たあの第五話の深夜で時が止まっている。最終話を合わせて残り六話分。CMを飛ばしても、ざっくり二時間以上は掛かる計算だ。
ポン、ポン、と軽快な通知音と共に、結衣からのチャットが連続で届く。
『明日、またうちに来るよね? リアタイ』
『それは、お泊まりしよって誘いでおk?』
瑞樹が少し意地悪くそう返すと、画面上の結衣のアイコンの横に『入力中…』の吹き出しが出ては消え、また出ては消えてを繰り返した。なんて返信しようか、スマホの画面と睨めっこして迷っている彼女の顔が目に浮かぶようだ。
(……ちょっとイジり過ぎたか)
瑞樹は反省し、『嘘嘘。ちゃんと終電で帰るから』と入力してエンターキーを押そうとした、まさにその瞬間だった。
『おk』
と、たった二文字、結衣から潔い返事が飛んできた。
瑞樹は思わずキーボードの上で指を止め、胸の奥がキュッと甘く締め付けられるような感覚に陥った。同時に、自然と口元から笑みがこぼれ落ちる。
『じゃあ、お泊まりセット持ってくわ』
『荷物大変だからいいよ。私、揃えておいたから。それ使ってもらって大丈夫』
『え』
『え』
瑞樹は額にジワリと変な汗が滲むのを感じた。
揃えておいた?
それではまるで、いつ瑞樹が泊まりに来ても大丈夫なように、わざわざ男物の日用品を買い出しに行って準備していると言われているみたいじゃないか。
『ほんとに? 着替えとか、歯ブラシとか』
『手ぶらでいいよー。全部あるから』
『ありがてー』
『また、瑞樹くんの手料理が食べたい』
『そーゆーことね、まったく』
まったく。
『自分のために準備してくれた』と、少しでも甘い期待をしてしまった自分が酷く恥ずかしくなる。結局は、また飯使いの家政婦扱いか。
『なにがまったくなのかな瑞樹くん? もしかして、いつでも私のお部屋に泊まりにきてね♡的な甘い意味だと思ったね?』
『心を読むな心を』
『えっちだなー、きみは』
『うるさい。結衣に発情なんかしません』
『……それは、シンプルに傷付く』
『じゃあいいのか、あんなことやこんなことをしても』
『まあ、多少なら?』
『まさかの許しがでた!?』
やっぱり、楽しい。
こんな肩の力の抜けた、ふざけた会話、シェアハウスの幼馴染たちとは絶対に出来ない。
近しい会話は出来たとしても、瑞樹は幼馴染たちを支配し、依存させるために、言葉の一つ一つに意図と意味を持たせてしまう。
しかし、結衣とはなんの裏も計算もない、ただの無意味で純粋な会話が出来る。
だからこそ、この時間がどうしようもなく楽しいのだ。
『話の流れだから聞くけどさ。やっぱり男の子は、恋人じゃない相手でも、そういう「あんなことやこんなこと」をしたいって思うものなの?』
ふざけ合っていたところに、急に真面目なトーンのメッセージが飛んできた。
また、例の『小説の取材』なのだろう。
『そればっかりは、人によるとしか言えないな』
『それはまあ、なんでもそうじゃん? 一般論じゃなくて、瑞樹くんならどうなのかを教えてほしいの』
『これまた、恥ずかしいことを……』
きっと瑞樹がどんなふうに誤魔化そうとしても、結衣は引かないだろう。それは小説の取材だからという熱意だけでなく、誤魔化しを嫌う結衣という真っ直ぐな人間性がそうさせているのだ。
でも、だからと言って恥ずかしくないということには決してならない。
『嫌だったら、いいけど』
結衣がそんな、少ししょんぼりとしたような文面を送ってきた。もう、拒否できるわけがなかった。
『いいよ、大丈夫。……あんなことやこんなことが具体的にどんなことを指すのか、いまいち曖昧だけど』
『猫型ロボットの歌みたいになってて笑ったw そりゃまあ、恋人同士がするようなイチャイチャなこと、ってことで』
瑞樹は少しだけ考えて、自身の本音をキーボードに打ち込んだ。
『……好きだったら、恋人になってなくても、したいって思うかな』
『ほう?』
『俺の個人的な感性だから、同意も同調もしなくていいんだけどさ。恋人だろうがそうじゃなかろうが、相手のことが「好き」ってことには変わりはないというか』
瑞樹は、自身の感情を整理するように連続で打ち込んだ。
『恋人っていう関係性になったら、その「好き」って気持ちがより深くなってくだけで、だけど恋人じゃなくても好きは好きなんだよ。だから、好きな子には触れたいし、いろいろしたいって気持ちは確実にある』
『じゃあ逆に、好きって気持ちがなければ、そういう気は起きないんだ?』
結衣のその鋭い問いに、瑞樹は即レスした。
『起きない』
『これっぽっちも?』
『ないな。結衣も知ってる通り、俺は幼馴染の女の子がいる環境で暮らしてるけど、少しもそんな変な気持ちは起きない』
朱音にいくら可愛い顔で擦り寄られても、あの一花に無防備な裸で迫られたとしても。
瑞樹はそこから先の何かをしたいとは、一切思わない。彼女たちは自分の箱庭の大事な存在で、大好きなのは間違いないが、それは家族や、あるいはペットに対する親愛に近いものだ。
男としての欲情とは、明確に線引きされている。
『そっか。「いろいろしたい」ってのは?』
『触りたいなとか、抱きしめたいとか。キスも、それ以上も。……あー、はずいなー』
『じゃあ、瑞樹くんが好きって思った相手にだけ、そのいろいろをしたいって思うんだよね?』
『そう』
『……付き合ってなくても、その子のことが好きだから、そういうことしたいって思うんだよね?』
『うん。だから、何度も言わせないでくれ!』
『そろそろ寝落ちする』
「ええ!?」
瑞樹が思わず素っ頓狂な声を上げた瞬間、画面上の結衣のステータスが『オフライン』に切り替わった。
突然の強烈な眠気に襲われたのか、それとも何か別の理由があるのかはわからないが、あまりにも唐突に結衣とのチャットが遮断されてしまった。
(そういえば、明日の予定をきちんと決めてなかったな)
瑞樹はスマホを取り出すと、待ち合わせの時間の確認だけをしようと、結衣の番号に電話を掛けた。
数コール。出ない。
「もう寝たのか!?」
思わず瑞樹はスマホに向かってツッコむ。
そして、もう一度掛け直す。
数コール。出ない。
三度目の正直。最後にもう一度だけ掛ける。
数コール。……ガチャ。
『……ちょ、今まさに寝落ちするとこなんだけど……』
布団の中にでも潜っているのか、ひどく篭った、少し上擦っているような声が返ってきた。
「寝落ちは結果であって、予定してするもんじゃないだろ」
『マジレスしないでよ……なによ、もう』
「いや、明日……何時頃に行けばいいかなって。その確認だけしたかったんだ」
『…………』
無音。
電話は繋がっているが、結衣からの返事がない。
「……反応がない。ただの屍のようだ」
『……ご飯』
「ん?」
『明日は……瑞樹くんのご飯しか、食べないから』
布団越しに聞こえるその声は、どこか照れ隠しのように早口だった。
「それはつまり、朝ご飯の時間から作りに来いと?」
『……どっちでもいい! 任せる! そーゆーことだから、寝落ちする!』
プーッ、プーッ、プーッ。
「えええ!?」
切れた。それとも、理不尽にキレた?
あれだけ感情がわかりやすかった結衣が、今日の終わり際はなんだかよくわからない。
「思ったことは口に出してくれないとわからねーよ……。はぁ……」
瑞樹はスマホの画面を閉じ、部屋の壁掛け時計を確認する。
時刻は、午後十一時を少し回ったところだった。
瑞樹はPCの電源を落とし、部屋の明かりも消して、ベッドにゴロンと横になった。
「……よし、俺も寝落ちしてみよ」
少しだけ早まる心臓の鼓動を感じながら、瑞樹は明日の結衣の顔を思い浮かべ、静かに目を閉じた。




