第7話 遊戯(4)
自動ドアが開き、遊が警察署の冷たい建物から外へ出ると、そこのロータリーには見慣れた二人の姿があった。
遊の、現在の両親だった。
父親はひどく悲しそうに眉を下げてオドオドと立ち尽くし、母親はハンカチを握りしめて泣き顔を作っているのがわかった。
「……なんで、ここに……」
遊がポツリと呟いたその疑問の言葉が両親の耳に届くよりも早く。
乾いた、パチンッという甲高い音が、夜の警察署の前に響き渡った。
「え……?」
遊は頭がぐらんと大きく横に揺れ、一瞬視界が真っ暗になった。左の頬に、火を噴くようなジンジンとした痛みが走る。
それが、母親に力任せに頬を平手打ちされたのだと脳が理解した時には、耳を疑いたくなるような母親からのヒステリックな非難の言葉と、なんとか場を落ち着かせようとする父親の情けない言葉が、まるでハウリングを起こしたマイクテストのように、遊の耳の中でガンガンと反響し始めていた。
母親からの第一声は、『あなた、犯罪に関わったの!? なんでそんなことしたの!?』だった。
父親の第一声は、『おい、声が大きいよ。周りが見てるから落ち着いて』だった。
――今のこの『親』は、これまでの大人たちとは少し違うかもしれない。
遊は、最近になって密かにそう感じ始めていたのだ。
これまでのわらしべ長者のような人生の中で出会ってきた大人たちは、誰も彼も自分が一番大事で、遊のことを心から愛してくれる人間など一人もいなかった。だから何度も離婚と再婚を繰り返し、遊をたらい回しにしてきた。
だけど、今のこの両親は、他人に期待することをとうの昔にやめた遊の心にすら届くほど、真っ直ぐな愛情に溢れていた。
好きなものは? 嫌いなものは? 将来何がしたい? 今、何が欲しい?
なんでも優しく聞いてくれた。天音遊という一人の人間に、初めて真剣に興味を持ってくれた。
どれだけ遊が心を閉ざし、冷たくあしらっても、毎日三人揃って食卓を囲み、温かいご飯を食べながら沢山話をしてくれた。遊の機嫌が悪ければ適度な距離を取り、遊が本当にいけないことをすれば、本気で叱ってくれた。
『家族としての普通』を、初めて普通に享受してくれたのだ。
だから……この人たちになら、少しだけ期待を寄せてもいいかもしれない。信じても、いいかもしれない。
遊は、ゆっくりと氷を溶かすように、ようやくそう思い抱く段階まできていたのだ。
なのに。
夜の警察署から一人で出てきた遊を迎えた両親の第一声は、息子の身を心配する言葉でも、「お前を信じている」と味方になる言葉でもなかった。
真っ先に息子が良からぬ罪をしでかしたと決めつけて咎める言葉と、周囲への迷惑や世間体だけを気にする保身の言葉。
スッ……と。
遊の瞳から、宿りかけていた微かな光が、完全に消え去った。
「……やっぱり、あんたたちもそうなんだ」
遊の口からこぼれ落ちたのは、怒りでも悲しみでもない。
酷く落ち着いた、氷のように冷たくて、平坦な感情のない声色だった。
「あっ……遊……?」
その決定的な拒絶の響きに、そこでやっと両親たちは事の重大さに気付いたのか。遊を置き去りにした言い争いをピタリとやめた。
でも、もう遅かった。
一度粉々に砕け散ったガラスは、二度と元には戻らない。
「あんたたちを、信じようと思った僕がバカだった。結局、あんたたちも自分が可愛いだけで、自分が一番大事なんだ」
遊の虚無の瞳から、堪えきれなくなった大粒の涙が、ボロボロと止めどなく溢れ出る。
「……『おかえり』って、言って欲しかった。ただ、『大丈夫か』って、心配して欲しかっただけなのに……!」
「遊、ごめんなさい、お母さんパニックになっちゃって……!」
「待ちなさい遊、父さんが悪かった……!」
遊は、泣きながら「ごめんね」と優しく伸ばしてきた両親の手を力強く振り解くと、夜の街の暗がりへと、あてもなく走り出してしまった。
拒絶され、残された両親は、自分たちが取り返しのつかない決定的な過ちをしてしまったことを悟り、その場の冷たいアスファルトに泣き崩れた。
***
その悲惨な一部始終を、少し離れた暗がりから、まるで上質な映画でも観るかのようにじっと眺めていた瑞樹が、項垂れている両親の元へ静かに近付いた。
そして、同級生の保護者を気遣う、出来のいい青年の顔を作って優しく声を掛けた。
「おじさん、おばさん。……俺が追いかけて、シェアハウスに連れ帰って落ち着かせます。だから、お二人は今日はこのままお帰りください」
「古河くん……ああ、私たち、遊に大変なことを……」
腰が抜けて立てなくなってしまった母親が、顔面蒼白で涙をこぼしながら呟いた。
「親として……一番やってはいけないことを、してしまった……っ」
泣き崩れる母親の肩を、父親が痛ましそうに抱き寄せる。
その姿を見下ろしながら、瑞樹は悲痛な顔を作って頭を下げた。
「お二人は悪くありません。警察に連行されるなんて、パニックになるのは当然です。それに、俺が伝えたのが、あまりにも本当のことのように思える『ウワサ』でしたから……。俺の方こそ、お二人に余計なことを吹き込んでしまって、本当にごめんなさい。では、遊を追いかけるんで失礼します。また後で連絡しますね」
瑞樹は深く一礼し、そう言い残して、遊が走って行った方角へと駆け出した。
街灯の少ない暗い夜道に入り、両親の視界から完全に姿が消えた、その瞬間。
「…………ははっ」
瑞樹の口元から、必死に抑え込んでいたニヤニヤとした笑みが、決壊したように止めどなく溢れ出した。
警察に疑われているというもっともらしいウワサを両親に吹き込み、警察署の前で待ち伏せさせるよう誘導したのは、他でもない瑞樹自身だ。
遊の心に芽生えかけていた『両親への信頼』を、両親自身の無自覚な暴力によって見事に叩き折らせるための、悪魔の盤上。
――完全に、完璧に、盤面が揃った。
遊の心が完全に孤立し、自分にしか依存できなくなる、最高の理想の形になった。
「……最高かよっ……はははっ、あはははは!」
夜の闇に溶け込むような、不気味で、ひどく気持ち悪く、そして確かな殺意に満ちた極彩色の笑みを浮かべて。
瑞樹は、愛しい幼馴染の背中を追って、暗闇の中を歓喜と共に走り抜けた。




