第7話 遊戯(3)
結衣の家を出て電車に揺られ、瑞樹は一人で家路を歩いていた。
雨はすっかり上がり、雲の隙間からは初夏の星空が微かに覗いている。瑞樹の足取りは、いつになく軽やかだった。
ふと、ポケットの中の携帯電話が震えた。
画面に表示された名前に、瑞樹は少しだけ目を丸くする。
「一花?」
相手は一花だった。こんな時間に電話をかけてくることは珍しい。
瑞樹が通話ボタンを押して電話に出ると、スピーカーの向こうから、一花の酷く焦り、パニックに陥ったような声が飛び込んできた。
『み、みーくん大変! ゆーくんがっ、ゆーくんがっ……!』
「落ち着け、一花。深呼吸しろ。何があった?」
瑞樹が静かな、いつもの保護者のような声色で諭すと、電話越しに一花が「ごめん」と小さく謝り、ヒューっと大きく息を吸い込む音が聞こえた。
そして、今にも泣き出しそうな震える声で、彼女は決定的な一言を口にした。
『ゆーくんが……さっき家に来た警察の人に、連れていかれちゃったの……!』
「…………」
『み、みーくん?』
「あ、ああ。悪い」
予想外だった。
警察が動くことは織り込み済みだったが、まさかこんなにも早く遊に接触するとは、思っていなかったのだ。
(――完璧だ。すべて、計画通り)
暗い夜道の中、瑞樹は口の端が三日月のように吊り上がり、ニヤけてしまうのを必死に抑え込んだ。
「状況はわかった。俺がこれからすぐに警察に迎えに行くから、一花は朱音と一緒に、絶対に家から出ずに待っててくれ」
『うん……わかった。みーくん、ゆーくん大丈夫だよね? 何も悪いことなんて、してないよね?』
「大丈夫だ、一花。あの遊に限って、そんな悪いことするわけないだろ? 俺たちが信じないで、誰が遊を信じるんだ」
『うん……っ』
「夜飯、作って待っててくれ。遊と二人で一緒に帰るから」
『わかった、気をつけてね』という一花の返事を聞き届け、通話を切る。
瑞樹はスマホの画面を見つめたまま、暗闇の中で静かに笑みを深め、そのままアドレス帳から別の人物を選んで電話を掛けた。
数回の長いコールの後、相手が出る。
「もしもし、古河です。……はい、夜分遅くに申し訳ありません、お久しぶりです。実は、今すぐ来てほしいところがあるんです」
瑞樹はゆっくりと歩みを進め、やがて道路脇にそびえ立つ、無機質で重厚な建物を見上げた。
「――警察署です」
***
同じ頃。
警察署内の殺風景な取調室で、天音遊は若い警察官と机を挟んで対峙していた。
「夜遅くに協力してくれてありがとう、天音くん。はじめに言っておくけど、これはあくまで任意の取り調べで、別に君を何かの犯人だと決めつけているわけじゃないからね。リラックスして、質問に対して正直に答えてくれたら助かるよ」
柔和な笑みを浮かべる警察官に対し、遊は生気を失ったような、底知れない虚無の瞳でじっと見つめ返した。
「いいですよ。なんですか」
「うん」
警察官は手元のメモ帳を開き、ペンを握りながら淡々と質問を始めた。
「先週の土曜日、天音くんは昼間どこにいたかな?」
「学校のサッカー部の合宿ですよ」
「へえ、サッカーやってるんだ? 確かに、スポーツマンっぽくていい体格してるね、天音くん」
遊は馴れ馴れしい態度に少しイラッとしたように、小さく顔を歪めた。
「世間話はいらないかな? 緊張を解そうと思ってさ」
「別に緊張とかしてないんで。とっとと終わらせてください」
「わかった。それで天音くん。その合宿はどこであったの? この街かい?」
「そうです。市立のスポーツセンターです。金曜の夜から、そこに泊まり込みでの合宿でした」
「ふんふん。スポーツセンターといったら、あの事件のあった高級住宅街の近くの?」
警察官が、ペンを止めて遊の顔を真っ直ぐに見た。
遊は一瞬だけ思考を巡らせ、静かに頷いた。
「あの位置関係を『近く』と取るのであれば、近くですね」
「確か、ホームセンターも近くにあったよね」
遊はまた頭の中で地図を描き、やがて頷く。
「そうですね。住宅街よりは、合宿所に近いですね」
「そのスポーツセンターで合宿をしていた、と。朝から晩までずっと?」
「そうですね」
一体何を聞きたいのか、その真意がイマイチ掴めず、遊は机の下で段々と貧乏ゆすりをしだした。
「休憩もお昼休みもなく?」
「バカですか。そんなわけないじゃないですか」
「お昼はみんなで一斉にとるんだよね? 大体十二時から一時間くらいかな? じゃあ、それ以外の休憩は?」
「土曜日はグループごとに分かれて練習してたので、休憩はグループ単位で、リーダーの決定でバラバラにとってましたよ」
「なるほど。……じゃあ、その休憩の時間に合宿所を抜け出そうと思えば、抜け出すことはできたわけだ。体調が悪いとグループのリーダーに嘘を伝えたりしてね」
「『出来るかどうか』で言えば、出来るでしょうね。顧問の目もずっとあるわけじゃないし、選手も多い。僕が一人抜けるくらい、簡単でしょうよ。……あの、さっきからなんなんですか? なにが聞きたいんですか」
苛立ちを隠さない遊に対し、警察官はパタンとメモ帳を閉じ、鋭い視線で遊を見据えた。
「――土曜日の昼間に。合宿所近くのホームセンターで、『天音遊』を名乗る男性が現れたんだ」
「…………は?」
「その男性は、作業着を購入して、そのまま高級住宅街の方に歩いていった。途中、防犯カメラの死角のどこかでその作業着に着替えてね」
「……」
「そしてその男性は、とある家に入ったんだ。『溝口』という表札の家に。しばらくして出てきたんだけど……彼は一体、なんのためにそんなことをしたんだろうね?」
「知りませんよ。それは僕じゃないです」
遊は即座に否定した。
「うん。俺もそう思うんだけどさ。その日に溝口宅の近くで、作業着姿の天音くんを見たって目撃情報も警察に入っててね」
「だから、それも僕じゃないですって! ……僕が、溝口に何かしたとでも言いたいんですか?」
「へえ。君、溝口家の息子さんと面識があるんだね?」
しまった、と遊はあからさまに動揺した。
もちろんこれは、警察官がカマをかけ、そう仕向けているに過ぎない。しかし、感情が揺さぶられていた遊には、その誘導尋問の効果がてきめんだった。
遊はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、感情の消えた冷たい瞳で警察官を見下ろした。
「もういいですか。溝口家の事件に、僕は一切関係ありません」
警察官は余裕のある微笑みを浮かべ、静かに立ち上がった。
「うん、もう帰ってもらって構わないよ。夜遅くに協力ありがとう」
「……なんだよ、それ」
「いや、ごめんね。天音くんが溝口家の事件に直接関わってないのは、話していてわかったんだ。署内でもあれは完全に落ち着いてるしね。ただ、天音くんを現場の近くで見たというタレコミが出たもんだから、警察の立場上、一応裏付けとして調べなきゃいけなくて」
「そんな不確かなものに、僕を巻き込まないでくださいよ……」
「もしかしたら何か知ってるかもしれない。何か事件の裏に関係してるかもしれない。そんな『もしも』の可能性を調べ尽くすのが俺たちの仕事だからさ。理解してくれるとありがたいよ」
遊は深くため息を漏らすと、乱れた椅子を正した。
それを見て、警察官が不意に、様子を伺うような低い声で聞いてきた。
「――溝口くんがいなくなって、嬉しいかい?」
遊の動きがピタリと止まり、ゆっくりと首を向けて警察官を睨みつけた。
「そうですね。僕の大切な人を泣かせたので」
「あの動画の女の子だね? 城ヶ崎朱音さん。君の、シェアハウスの幼馴染だっけ」
被害届を出したわけでもないのに、何故警察がそこまで知っているのか。遊は驚きと、警察の情報網に対する戦慄を同時に覚えた。
隠しても無駄だと悟り、遊は自嘲気味に口を開く。
「……本当は、僕がこの手でアイツを殺したいと思ってましたよ。でも、友達がそれを止めてくれました」
「良い友達をもったね、天音くん。罪を憎んで人を憎まず。犯罪者のせいで、自分の人生まで棒に振って犯罪者になるのは、バカのやることだ」
「そうですね。今なら、それがわかりますよ」
警察官が取調室の重い扉を開け、出るように促すと、遊は無言で出口に向かって歩き出した。
その背中を見送りながら、警察官はわざと聞こえるように、独り言のように喋り出した。
「それにしても、ホームセンターで天音くんを名乗ったあの男は、一体誰なんだろうね。なんの目的があって、わざわざ作業着なんかに着替えて、溝口家に行ったんだろう。事件は一応は落ち着いたけど、あの動画の出所も含めて、謎が多く残る。ずっとモヤモヤしてるよ」
警察官とすれ違いざま、取調室の扉の枠に手をかけた遊は、足を止めてボソッと呟いた。
「……怪しまれずに家に侵入するために、業者か作業員にでも扮したんじゃないんですか。ネットに出回ったあの動画は、そうやって侵入して仕掛けた隠しカメラで撮影されたものだ」
「なんのために、そんなリスクを冒して?」
遊は完全に足を止め、冷たい廊下を見つめたまま答える。
「……アイツが彼女を傷つけると、最初から知ってたのかもしれませんね。その動かぬ証拠を押さえるためとかじゃないですか」
「ふむ……」
「なんにしても、僕にとっては救世主ですよ。結果的に、僕が一番殺したいと思っていた相手が、勝手にいなくなってくれたんですから」
「なるほどねぇ」
遊は再び歩き出し、警察官に背中を向けたまま、最後に鋭い声で一言だけ言い残した。
「――ただ、僕の名前を使って、誰かが僕を『犯人』か『関係者』に仕立て上げたかったのは、確実ですね」
その言葉だけを冷たい空気に残し、遊は足早に警察署の廊下へと消えていった。




