第7話 遊戯(2)
「み、瑞樹くん、痛いっ……起きてよ」
すぅーと耳に抜ける、心地良い聞き慣れた声で瑞樹が目を覚ます。
「ねぇ起きた? 起きたなら早く離して。痛いし、暑い」
ゆっくりと目を開けると、目の前には結衣の寝癖のついた後頭部があった。シャンプーの甘い良い匂いが鼻をくすぐる。
そして、自分の両腕が、がっちりと結衣の柔らかい身体を背後から抱き締めていた。
その現実を目で見て、腕の感触で肌で感じて、ようやく、瑞樹の寝ぼけた意識が完全に覚醒する。
それとともに、急激に血が上るような恥ずかしさが込み上げてきた。
「うおっ!?」
勢い良く体を離し、瑞樹はバネで弾かれたようにベッドから飛び起きた。
「ご、ごめん!」
一晩中、結衣を背後から抱き締め、下敷きになった左腕で腕枕をしていたからなのか、左腕全体がジンジンと痺れて脈を打っており、感覚もほとんどない。
そして、初夏の気温の中でずっと密着していたからか、身体中が火照るように暑い。エアコンは効いているはずなのに、汗がジワリと背中を伝う。
結衣はベッドからゆっくりと起き上がると、少し眠そうなジト目で瑞樹を見つめた。
「別にいいけど、痛かった」
「ごめん……! 無意識だったとはいえ、本能の赴くままに……!」
「言い方!」
結衣はベッドから足を下ろすと、少しだけ心配したように首を傾げた。
「怖い夢でも見たの?」
「ああ……いや、なんか昔の夢、かな。見た気がする」
瑞樹は、昨晩寝る前に思い出していた、雫の最期の笑顔を思い返しながら誤魔化した。
「そっか。寝言で『ごめん、ごめん』って何回も言いながらめっちゃ強く抱き締めてくるし、どうしたのかと思ったよ。大丈夫?」
「お、おう。大丈夫だ」
結衣は「そっか」と言うと、立ち上がって「うーんっ!」と大きく伸びをした。
「くぅー! めっちゃ寝たー! ……瑞樹くん、気付いてる? もうお昼だよ」
「ええ!? マジか、そんなに寝てたのか……」
スマホで時間を確認すると、時刻はすでに正午を回っていた。
今日は日曜日。特に誰とも約束の予定もなかったから良かったが、それにしても女子の部屋だと言うのに寝過ぎてしまった。
「お腹空いたよミズキモーン。お昼ご飯作ってー」
「俺はそんな夢を叶えるために未来から来た青いロボットじゃありません」
「じゃあ掃除してー、洗濯してー、肩揉みしてー」
「なんでも言うことを聞いてくれる専属の有能メイドでもありません」
「むー。いたいけな女の子をあんなに強く抱き締めたんだから、そのくらいの奉仕してくれてもいいじゃんかー」
「え、償い!? みそぎ!? 確かに罪深いことはしてしまったかもしれないけど……元はと言えば」
『結衣がそんな無防備な背中を見せるように仕向けたからだ』と正論を言おうとして、瑞樹はやめた。それを言うと、昨晩の「恥ずかしい本音語り」を蒸し返すことになりそうだったからだ。
「はいはいそうですね、元はと言えば私が無防備だったのが悪いですよーだ」
結衣は瑞樹が言おうとしたことを瞬時に理解して、その続きを不貞腐れたように言い放った。
トコトコと瑞樹の側を横切って、寝室からリビングへ移動する結衣を、瑞樹は「わかったよ」とため息を吐きながら追いかけた。
結衣はそのままリビングのソファに体育座りで座ると、「ごはんまだー?」と不機嫌そうにわざとらしく顔をしかめる。
結衣は思ったことをハッキリと言うタイプだが、言葉にしなくても、表情からハッキリと感情が読み取れる。
それがなんだか犬や猫みたいでおかしくて、瑞樹は思わずふふっと笑ってしまった。
「なによー」
「なんでも」
瑞樹はキッチンに移動し、勝手知ったる他人の冷蔵庫を開ける。昨日のボロネーゼで使った残りの挽肉と、賞味期限ギリギリの卵パックを発見した。戸棚にはレンジで温めるタイプのパック白米もある。
「二色丼でいいか? 甘辛いそぼろと、卵の」
ソファの結衣にそう声を掛けると、結衣は「パァッ」と効果音がつきそうなほど表情を一気に明るくした。
「いい!」
結衣はニコニコしながらキッチンにやってきて、瑞樹の隣に並び立つ。
「なんか手伝う?」
「んー」
昨日は「パスタを茹でて」と言ったら乾麺ごとレンジに入れようとしたくらいだ。そのレベルの彼女にとって、料理の手伝いは逆に危険を伴う。
「じゃあ、ボウルに卵を割って、菜箸で溶いてくれるか?」
「……卵? 割る? とく?」
「何故卵に疑問系がつく!? 卵という概念くらいは知ってるよね!?」
「なにそれ美味しいの?」
「美味しいよ!」
「わーい!」
これ以上やらせると大惨事になりそうだと察し、「やっぱり座ってていい」と結衣の背中を押してソファに戻し、瑞樹は手際よくお昼ご飯の準備をした。
***
ものの三十分で二色丼を仕上げて二人で食べた後。瑞樹は言われた通りに部屋の簡単な掃除と自分の服の洗濯を済ませ、ソファに座る結衣の背後に立ち、肩を揉んでいる。
「いやー、至れり尽くせりだー」
特に凝ってもいないプニプニの柔らかい肩を揉む。これは疲労回復というより、結衣が瑞樹に『これをやらせること』自体に意義を見出していそうだ。
「満足いただけましたか、結衣お嬢様」
「申し分ないよー。あー、瑞樹くんとずっと一緒にいたら、私完全にダメ人間になっちゃいそう」
「そこから自力で脱する努力をしなさい」
「えー。僕と契約して、専属メイドになってよ」
「なんだその白い悪魔のような胡散臭い申し出は」
「主人に手を出したら即刻解雇ね」
「そっちの首が飛ぶのね!?」
「あはははは!」
結衣は楽しそうに笑うと、「ありがとう、もういいよ」と言ってソファの後ろの瑞樹に振り向いた。
「瑞樹くんはどんなノリでもわかってくれて、欲しいツッコミを的確にくれるから好き」
「っ……!」
不意打ちだ。昨日からずっと、結衣の言動に振り回されている気がする。
それもこれも、きっと結衣が今執筆している小説が原因に違いない。現実世界でラブコメっぽいイベントを故意に発生させて、その『男子のリアルな反応』を取材しているのだ。
「結衣のその特殊なノリについていけるのは、俺くらいだからな。一生付き合ってやるよ」
瑞樹はスカした反応で返す。そんな言葉の攻撃は効かないぞ、というアピールだ。
「……ふーん?」
結衣は訝しげに目を細め、やがて諦めたように「ふふっ」とため息をつくと、ソファに座り直した。
瑞樹はリビングに干してあった自分の私服に手を当て、「お、乾いてるな」と漏らす。
そろそろ、お暇しよう。
「ねえ、瑞樹くんってさ」
干してあった私服を手に取ったところで、結衣が話しかけてきた。
「ん?」
「家事めっちゃ手際よく出来るけど、一人暮らししてるの?」
「……あー」
そういえば、結衣には話していなかった。話す機会がなかったから話していなかった気もするし、心のどこかで『なんか知られたくなかった』とも思う。
「え、そこ言い淀むとこ? 一人暮らしか、実家暮らしの『はい』か『いいえ』の二択じゃない?」
第三の選択肢なのだ。瑞樹は幼馴染の男女四人で暮らしている。
「怪しい!」と結衣がジト目で睨みを利かせてくる。
黙っていても、いずれはわかることだ。隠し立てするようなことでもない。
「……シェアハウスで暮らしてる。小さい頃からの幼馴染と、四人で」
「ええ!? シェアハウス!?」
何それ面白そう、話聞かせてよ! と、結衣が身を乗り出す。
「あー……。ちょっと性格とか生き方に問題がある同級生たちでさ。社会復帰的な意味も含めて、親から離れてみんなで暮らしてるんだ」
家出じゃないし、全員の両親と学校からの承諾も正式に得ていると、念のため付け加えた。
「なるほど……なんか、あんまり深く踏み込んで欲しく無さそうだね」
瑞樹が苦笑いで誤魔化しているのを見て、結衣は察したように言った。
「話したくないなら、無理に聞かないよ。でも、私に話し難い理由は教えて欲しいかな」
本心を話しても、結衣は邪推も茶化しもしない。気持ちの擦り合わせがスムーズに出来る貴重な相手だ。だから瑞樹は、その心の内を正直に開けることにした。
「……幼馴染たちの複雑な事情のことは、詳しくは話したくない。俺の他に三人と暮らしてるんだけど、みんな大好きで、俺にとって大切な存在であるってことだけは伝えておく。でもなんていうか、その……結衣に対して、若干の『後ろめたさ』みたいのがあるんだ」
「なるほどねー。……その同居人の中に、女の子がいるんだ?」
「えっ」
多分、きっと、そうだ。
そこを、結衣に知られたくなかったのだ。
結衣のその鋭い指摘で胸の中で焦りが生じてるのも、なんか言いたくないと思っていたのも、その正体は、間違いなくこれだ。
「図星だ。焦りすぎだよ瑞樹くん、わっかりやすー。……女の子と一緒に暮らしてて、それを黙って私と遊んでて、そこに後ろめたさを感じてるんでしょ」
「そ、その通りです……」
結衣はソファから立ち上がり、立ち尽くす瑞樹の顔を下から覗き込む。
「その子と、付き合ってるの?」
「いや、大事な存在だけど、そんなんじゃない」
朱音も一花も、幼馴染であり、それ以上の関係を望んですらいない。それは瑞樹だけでなく、彼女たちも同意見のはずだ。
「だったらいいじゃん? 別に私に対して、後ろめたさを感じる理由はないと思うけど」
「いや……その……」
「ハッキリ言う。それが私たちのルールでしょ?」
チョン、と結衣に人差し指で胸を押され、瑞樹は観念した。
「……女の子と一緒に暮らしてるって結衣に知られて、それが原因で、結衣に『チャラい』とか『軽蔑する』って仲違いしちゃうんじゃないかって思ったら……知られたくなかった」
「瑞樹くん……」
結衣がポッと頬を赤らめ、またジト目で瑞樹を見つめる。
「それは……まるで私がっ……」
「な、なんだ?」
結衣がブルッと首を振り、顔を逸らす。
「なんでもない! ……あーあ、瑞樹くんはまったく傲慢だね。もうエンカするのやめよーかな」
「ぐっ……」
チラッと視線を瑞樹に向けると、あからさまに「捨てられた子犬」のように残念そうにする瑞樹。
それを見て、結衣は意地悪な表情を和らげて、「はぁ」とため息を吐いた。
「ハァ……。ずるいなって、思った」
結衣が大きな瞳で、瑞樹を真っ直ぐに見つめた。
「瑞樹くんと一緒に暮らせて、ずるいって思った。毎日くだらないアニメの話が出来て、毎日好きなご飯作ってもらえて、めっちゃ理想の生活じゃんって思った。……だから瑞樹くんが女の子と暮らしてるって聞いて、正直、少しだけ嫉妬した」
「そっ、そうか……」
「うん。でも、だからといって『別にこれで私たちの関係はおしまいね』ってなるつもりは、私にはないから安心して。これからも、最高のオタク友達としてよろしく」
友達。
『嫉妬』という言葉と結衣の赤面を見て、一瞬もしかして気があるのではないかと勘ぐったが、杞憂だった。
結衣はあくまでも、気兼ねなくオタクを楽しみあえる『友達』としてのポジションを崩さない。
「……なんか、スッキリした。聞いてくれてありがとう、結衣」
「それはよーござーしたねー」
結衣は寝室の扉を開けて、瑞樹を中に誘った。「着替えるんでしょ、使って」と。
瑞樹が「サンキュ」と言って寝室に入り、ガチャリと扉を閉めた瞬間。
リビングに残された結衣は、そのままズルズルとその場に崩れ落ちた。
誰にも見えないように、膝の中に真っ赤な顔を埋める。
「なにがスッキリよ……私はめっちゃモヤモヤしてるっつーの……バカ……」
結衣はポケットから自分のスマホを取り出し、暗い液晶に映る自分の顔を見て、思わず吹き出した。
「負けヒロインみたいな顔して……私、バカじゃん……」




