第7話 遊戯
中学生になっても、更科雫と古河瑞樹は、二人だけの秘密を守り続けてきた。
平日は朱音、一花、遊の幼馴染と五人で一緒に放課後に集まって遊び、休日の土日は毎週、雫と瑞樹の二人きりで遊んでいた。
遊ぶとは言っても、基本的には雫が好きなアニメや漫画の話を瑞樹がただうんうんと聞いたり、雫が好きな作品を二人で肩を並べて黙って観たりするくらいだった。
それでも、雫にとっては自分の『好き』を嘘偽りなく表現できるかけがえのない時間であり、また瑞樹にとっても、楽しそうに笑う雫を見ることが出来る至福の空間だった。
いつまでもこの時間が続けば良いと、二人は心から願っていた。
そして二人は、お互いのことを好きだと、確かに思っていた。
その思いを直接言葉にして伝えることはなかったし、明確に告白してお付き合いを始めるといったこともなかったけれど、二人でいる時には自然と手を繋ぎ、肩を抱き寄せ合い、誰もいない場所でそっとキスもした。
『好きだ』と言葉にしてしまったら、この完璧で心地よい関係性の何かが変わってしまうのではないかと、初心な中学生ながらに直感で恐れていたのかもしれない。
だから二人はこの甘くて脆い関係を、二つ目の秘密として、ひっそりと共有していたのだ。
そんな中学三年間もあっという間に過ぎ去り、卒業式を間近に控えた頃。
雫の中で、大きな心境の変化が訪れた。
大好きな幼馴染の朱音と一花と遊にも、本当の自分を知って欲しい。ありのままの自分を、好きになって欲しい。
高校生という、輪郭の見えないふわっとした大人の雰囲気や、義務教育の終了という明確な区切りを目の前にして、彼女の中でこれまでの自分を『変えたい』という前向きな気持ちが大きくなったのだろう。
だから瑞樹は、大好きな雫のその健気な思いを、全力で叶えてあげたいと心から思ったのだ。
二月二十四日。
中学生としての、最後の登校日。あとは数日後に卒業式を執り行うだけで、この日を最後に中学校での生活は最後となる。
放課後。幼馴染五人は、名残惜しいという感傷からではなく、なんとなく教室に残って時間を潰していた。友達と別れる寂しさは、誰も抱いていない。またこの五人で同じ高校に通うことが決まっていたからだ。しかもそれぞれが家元を離れ、五人だけのシェアハウスで暮らすことまで決まっている。
だから彼らの心は寂しさよりも、早く高校生になりたいという期待の気持ちの方が大部分を占領していた。
ぽちぽちと携帯電話を弄る朱音。高校に入学したら何部に入るかと楽しそうに話す遊と一花。ボケーっと、窓の外を見つめる瑞樹。
それぞれが適当に時間を過ごしている中、ただ一人、雫だけが落ち着きなくソワソワと両手を握りしめていた。
それに気付いた瑞樹は雫のそばに近寄り、彼女の意思を視線と小声で再度確認した。
「言いたいんだよな?」
「……うんっ」
雫は、強く、力強く頷いた。
あとは自分が背中を押してやるだけだと、瑞樹が静寂を破って切り出す。
「みんな、ちょっといいか?」
そう言って全員の注目を集めると、瑞樹は雫の隣に立ち、「大丈夫だ」と伝えるように彼女の細い背中にそっと手を添えた。
雫は瑞樹の温もりに後押しされ、最初は自信無さげに、しかしやがてハッキリとした口調で、自身の胸の内に秘めていた趣味のことを打ち明けた。
可愛い女の子が活躍するアニメが好き。キラキラして胸がキュンとする漫画が好き。休みの日は、一日中アニメや漫画の世界を楽しんでる。声優さんも好き。動画配信者さんも好き。コスプレイヤーさんも好き。いつか自分でも小説を書いてみたいし、絵を描くことにも挑戦してみたい。
世間でオタクと言われるその文化が、全部、全部大好きなのだと。
『みんなのことが大好きなのと同じくらい』、この趣味が大切で大好きなのだと。
顔を真っ赤に染めて。だけど、今まで見たことがないくらいキラキラと瞳を輝かせて、雫はすべてを告白した。
みんなに打ち明けたい。みんなに理解してもらいたい。こんな本当の自分を、瑞樹と同じように、みんなにも受け入れて好きでいて欲しい。
幼稚園の頃から、ずっと一緒に育ってきた友達だから。きっとわかってくれる。恥ずかしい秘密だけど、認めてくれるはずだ。
雫がそう固く信じていたのと同じように、瑞樹もまた、幼馴染たちの絆を信じていた。
たけど。
なのに。
雫の顔がみるみるうちに血の気を失い暗くなっていき、隣で肩を震わせて、悲鳴のような嗚咽を漏らし始めたところで、瑞樹の思考は完全に停止してしまっていた。
何が起きたのか、全く理解が追いつかなかった。
自分がこんなにもイレギュラーに弱い人間だとは思っていなかった。どうすればいいか、何を言えばいいのか、助け舟の言葉が何も頭に浮かばない。
頭の中が、純白に塗りつぶされてしまった。
雫が顔を覆い、ボロボロと涙を流しながら教室を飛び出していって、どれだけの時間が経ったのか。
不意に現実世界に意識が引き戻された瑞樹は、ようやく雫を追うために足を踏み出すことが出来た。
その時、背中に突き刺さった幼馴染たちの視線を感じて、少し前の残酷な反応が、瑞樹の脳裏で冷たい現実として蘇ってきた。
遊は、理解できないものを見るような目で「更科は僕たちより内気な性格なんだから、趣味くらいは社交的なものにした方がいいんじゃないか?」と冷酷に非難の言葉をぶつけた。
朱音に至っては、「ダメだよ雫! そんな犯罪者が好む趣味、絶対ダメ! 雫のためにならないっ! ダメダメダメっ……!」と、まるで汚らわしいものでも見るかのようにヒステリックに全否定した。
そして一花は、ただ沈黙を貫いた。
三者三様の、残酷な拒絶反応。
ようやくまともに思考を回せるようになった瑞樹は走りながら、自分たちの淡い期待が完膚なきまでに打ち砕かれたことを実感した。
瑞樹は廊下を走りながら、悔しくて、不甲斐なくて、ボロボロと涙を流した。
他人とは違う歪な性質を持っている幼馴染たちだが、仲間に対してだけは無償の愛を捧げてくれると信じていた。互いの性質を受容し、共に歩いていけると、思っていたのだ。
そのすべてが、最悪の形で裏切られた。
雫は、自宅近くの寂れた公園にいた。
夕暮れのベンチに姿勢を正してちょこんと座り、だけど顔だけは深く俯いていた。
息を切らした瑞樹が近づくと、それに気付いた雫は目を丸くして、そして、信じられないほど優しく笑いかけた。
その笑顔が、あまりにも痛々しくて、切なくて。瑞樹は喉の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。
気付けば、瑞樹は声をあげて子どものように泣きじゃくり、雫の小さな体を力強く抱き締めていた。
「な、泣きすぎだよ、瑞樹くん」
傷ついたはずの雫に、逆に背中を撫でられて慰められる。
打ち明けさせなければ良かった。ずっと二人だけの秘密にしておけば良かったのだ。そうしておけば、彼女がこんなに残酷に傷付くことは絶対に無かった。
後悔も、懺悔も、今となってはすべて手遅れで無意味だから。瑞樹はただひたすらに、「ごめん」「ごめんな」と繰り返すことしか出来なかった。
「大丈夫だよ、瑞樹くん」
雫は穏やかに笑い、瑞樹の頭を優しく撫でながら言葉を続けた。
「みんなに認めてもらえなかったのは……少し寂しいけど。でも、ちゃんと自分の口で伝えることは出来たから。それで、大丈夫」
思ったよりも彼女のトーンが元気だったからか。それとも、「あなたは悪くないよ」と赦されたような気がしたからなのか。瑞樹も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「これから……どうしよっか?」
雫のその静かな問いに、瑞樹は一切の迷いなく答えた。
「俺は、雫が一番大事だ。あいつらが何を言って否定しても、俺はこれからも雫のすべてを認め続ける。雫を、第一に考える」
「……ありがとう、瑞樹くん」
雫は、ふわりと、悲しそうに笑った。
そして、その日の夜。
更科雫の、自らの短い人生が、終わった。




