第6話 取材(6)
「じゃあちょっと、お風呂で汗流してくるねー」
深夜〇時。言い残して、結衣が鼻歌交じりにシャワーを浴びに行ってから約三十分が経過した時だった。
突如、浴室の方から「あっ」「嘘っ」というドタドタと慌ただしい物音が聞こえた。と思えば、一分後にスウェットにTシャツというラフな部屋着に着替え、ショートカットの髪の毛がべしゃべしゃに濡れたままの結衣が、顔面蒼白の血相を変えてリビングに飛び出してきた。
「……ようやく気付いたか」
「い、いつから!?」
「先週。今日のこのリアタイの約束をした時から」
「なっ、なっ……!」
冷静沈着に言い放つ瑞樹に対し、結衣は唇を噛みながらワナワナと震え、激しく思案する。
そう。『死家』をリアタイで視聴すると、アニメ本編が終わる時間は午前一時を回る。
当然、そんな時間では隣町へ帰るための終電はとっくに終わっているし、都会でもないこの街では、深夜のタクシーも運行を終了している。
瑞樹が家に帰る手段は、完全に絶たれていたのだ。
「ということで、一緒に寝よう結衣」
「泊まるのは当たり前みたいになってる!? ていうか、何この巧妙な叙述トリック!」
顔を真っ赤にさせ、苦虫を潰したように顔をしかめる結衣。濡れた髪からポタポタと水が滴り落ちている。
「冗談だよ」
瑞樹は苦笑いしながらソファーから立ち上がった。
「え?」
「まだ数回しかリアルで会ったことない女の子の部屋に、いきなり泊まるわけないだろ」
「え、いやでも終電ないし、タクシーも……」
「電車で一本の距離だし、大丈夫」
「……歩く気?」
「走る!」
「そーゆー根性論の問題じゃなくて! ごめん……」
瑞樹は背負ってきたリュックを肩に掛け、玄関に向かう。その様子を、結衣は捨てられた子犬のように申し訳なさそうに見つめていた。
玄関で靴を履き、瑞樹は部屋の奥で立ち尽くす結衣に振り向いた。
「今日は楽しかった、ありがとう。リアタイ出来たのも嬉しかった。もし続きも観れそうだったら、また感想会しようぜ」
「うん……」
結衣は八の字に眉を下げ、申し訳なさそうに、それでいて何か葛藤しているように視線を泳がせ、落ち着きのない様子でモジモジとしている。
「完全に私のせいなのに、こんな夜中に追い出すみたいになっちゃって……ごめんなさい……」
「結衣のせいじゃないよ。さっきも言ったけど、俺は最初から終電がないことに気づいてたのに、あえて言わなかったわけだから。確認を怠った俺の完全な自己責任だ」
少しだけ。ほんの少しだけ、瑞樹は健全な男子高校生としての下心を持って期待していたのだ。
深夜アニメを二人で同じ部屋で観る。当然帰れないのだから、自然とお泊まりの流れになる。そこに結衣が一切言及しなかったのは、無自覚なのか、それとも「それでも良いよ」という合図なのではないか、と。
もちろん、それが全てではない。
深夜の静寂の中、二人でゴロゴロと横になり、寝落ちするまで永遠にアニメや漫画のオタク語りをする。そんな修学旅行のような未来を想像し、少しだけ期待していたのだ。しかし、彼女のあの血相を変えた反応を見る限り、完全に失念していたいただけだったようだ。
「じゃ、またね。おやすみ」
「ごめんね瑞樹くん……気をつけて帰ってね。おやすみ」
最後まで申し訳なさそうに、今にも泣き出しそうな顔をする結衣を尻目に、瑞樹はガチャリと部屋のドアを開けて外に出た。
***
神様の悪戯とか。狐に化かされたとか。
偶然とか。奇跡とか。
今この瞬間、どの言葉が当てはまるのかわからなかったが、一番しっくりくるのは『バケツをひっくり返したかのような』という表現だった。
瑞樹が結衣の部屋の扉を開け、完全に外廊下に体が出たまさにその瞬間。
まるで天の神様が狙い澄ましたかのように、上空から信じられないほど大粒の雨が滝のように降り出したのだ。
天気予報にも全く予兆はなかった、まさにゲリラ豪雨というやつだ。
突然の水の冷たさと、屋根を叩く凄まじい打撃音に瑞樹は思考が停止し、ピタッとその体も硬直してしまった。開いたままの扉の先から、目をまん丸とさせた結衣と目が合って、二人の時間もまた静止した。
数秒後。ハッと我に返った瑞樹は、ずぶ濡れのまま両手を広げ、天を仰いだ。
「ハハハハハ! 遂に見つけたぞ勇者! この時をどれほど待ったことかっ!」
「なに急に魔王側やってんの! 風邪引くから早く入って、ばか!」
結衣に腕を強く引かれ、瑞樹はまた彼女の部屋へと舞い戻った。
***
部屋に戻った瑞樹は、冷えた体を温めるためにすぐにお風呂に入れてもらった。
着替えとして、結衣が以前「男装コスプレ」を試した時に購入して一度も使っていなかったという新品の男性用下着を借り、大きめのスウェットと、観賞用に壁に飾ってあった推しアニメのLサイズの限定Tシャツを借りた。
「泊まっていきなよ。この雨じゃ、走るのすら絶対無理だって」と言ってくれた結衣のお言葉に甘え、瑞樹は今晩、結衣の家でお泊まりをすることになった。
結衣としても、瑞樹を帰すことへの申し訳ない気持ちが大きかったらしく、結果的に泊まることになってホッと安心したのか、表情も柔らかくなっていた。
深夜二時。
二人は部屋の電気を消し、真っ暗な空間で同じ天井を見ながら、寝る前の語り合いをしていた。
「こんなことになって、本当にごめん」
「もういいって。私は大丈夫だから、気にしないで」
「……ありがとう。正直、お泊まりしてこうやって語り合いたかった」
「なにそれ。瑞樹くん、修学旅行行ったことないの?」
「あれは男子特有の恋バナだろう。俺は、気兼ねしないオタク友達と、オタクな話を永遠にしながら寝落ちしたかったんだよ」
「変な願望だねー」
結衣はふふっと優しく笑うと、少しテンション高く瑞樹に提案した。
「ねえねえ、せっかくだから、私の小説のための『取材』していい?」
「……いや、その前にちょっと待て」
瑞樹はそう言うと、ガバッと布団を押し上げて上体を起こした。
「寒いよ瑞樹くん。エアコン効いてるんだから、布団ちゃんと掛けて」
「『男が布団を捲り上げたら、隣の女が寒いと言った。どういうことか?』……みたいなウミガメのスープの出題になってるんだよ、今の状況!」
「仕方ないじゃん。そもそも家に来客があるなんて想定してない、一人用の装備なんだもん」
瑞樹は今、結衣と同じベッドで、一枚の布団を共有し、まさかのゼロ距離で隣り合って寝ているのだ。
「だから俺は、床かソファで寝るって言ったじゃないか!」
「別にいーじゃん。瑞樹くんは無自覚な変態だけど、寝込みを襲うような変なことはしなそうだし」
「理性で抑えてるだけで、変な気持ちにはなるよ!?」
「まあまあ」
「俺も健全な男子高校生だからね!?」
「どおどお」
「馬になった!?」
「馬とか、えっちだね」
「やっぱりお前の方が変態だ!」
「うるさいよ瑞樹くん。今何時だと思ってるの? 隣近所の迷惑になるから静かにして寝て」
くそっ、と恨み節を漏らしながら、瑞樹は再び横になり布団を被る。
すると、結衣特有の甘いフローラルの匂いがふわっと鼻腔を通り抜け、ピッタリとくっついた隣からは、彼女の柔らかい体温がダイレクトに伝わってくる。
真っ暗な視界の中、そこら中が結衣の存在で満たされている。なまじ視覚情報が無い分、より他の五感で強烈に感じてしまうのだ。
荒くなった呼吸を整えるように大きく息を吐いて、瑞樹は尋ねた。
「……で、小説の取材ってなんだ?」
「今のこのシチュエーション、ラブコメっぽくない?」
「え? ああ、そうだな」
「うん。友達同士の男女が、予期せぬハプニングで二人っきりでお泊まり。まさにラブコメのドキドキ展開」
「まあ、確かによくある王道の展開だな」
それにしても、一枚の布団で一緒に寝てしまっては、すでにラブコメの範疇を超えてしまっているのではと思う瑞樹。
「でしょ? この流れだと大抵は、ドキドキして二人とも寝られない。もしくは、ドキドキしてるのは片方だけで、もう片方は無神経に寝ちゃう。あるいは、ドキドキしてたと思ったら急に真面目でシリアスな話になって、正気に戻る」
「ざっくり言うと、そんな感じだな」
「そこで瑞樹くんに聞きたいの。この後どんな流れになるかは置いといて、今のこの状況で、『男の子の頭の中はどんなことを考えてるのか』。そのリアルな感情を教えて欲しい」
「それは……」
恥ずかしい。付き合っているカップルならまだしも、付き合ってもいない異性と、まさにその異性と同じ布団の中にいて、何を妄想しているか。それをありのまま言葉にして伝えるのは、公開処刑に近いハードルの高さだ。
瑞樹はゆっくりと顔を横に向ける。暗闇の中、結衣も体ごとこちらに向けて、瑞樹を見つめていた。
いつものおふざけの雰囲気では、なかった。真剣に「リアル」を求めている作家の目だ。
ありふれた展開に、瑞樹のリアルの感情を乗せた小説を書きたいという彼女の熱意に、協力してあげたかった。
「……わかった。心して聞けよ。恥ずかしいから、一回しか言わないからな」
「うん。お願い」
暗闇に慣れた目に、小さく頷いた結衣の輪郭が見えた。
「……すごい、ドキドキしてる。結衣の甘い匂いがめっちゃするし、隣から伝わってくる体温もあったかいし、まるで結衣に包まれてる感覚になって、頭がおかしくなりそう。……それに、こんな無防備な状況を結衣が許してくれてるわけだから、『もしかしたら、このまま押し倒してもいいのかな』とか、男の性として本能的に考えちゃう……あー、はずいっ!」
「終わり? それだけ?」
「うっ……結衣に、触りたい。強く抱き締めたい。エロいこと、考えちゃう。オタク友達とか、そういう今までの関係性が、全部どっかいっちゃいそうになるくらい」
「……うん」
瑞樹の生々しい告白に、結衣が少しだけ、怯えたように身を縮めた。
それに気付いた瞬間、瑞樹の頭の中の熱が、スーッと氷水を被ったように浄化されていくのを感じた。
「……暗いから、視覚以外の感覚に敏感でさ。今、ちょっと体を硬直させたでしょ?」
「あ、うん……そうかも」
「それが、『あ、結衣が怖がってるかも』って肌で感じる。ちょっとしたことなんだけどさ、そういう微細な動きとか、仕草とか、言葉のトーンとかで感情を勝手に読み取って、一気に理性が働いて冷静になる。『絶対に手を出したらダメだ』『この関係を壊しちゃダメだ』って、そんな意思が強くなるんだよ」
すべて、飾り気のない本音だった。
この上なく恥ずかしく、醜く、けれどそれが今の瑞樹の頭の中のありのまま。
「気持ち悪い」と引かれても仕方ないと思った。それだけの欲情を、本人に言ってしまったのだから。
「……こんなとこ、かな。気持ち悪いよな、ごめん」
視線を結衣に向けると、結衣の顔が真っ赤になっているのが暗闇でもはっきりとわかった。
結衣はガバッと仰向けになり、口元まで布団で覆い隠した。
「結衣?」
「大丈夫。気持ち悪くないよ……リアルな感情、教えてくれてありがと」
「そんな顔されたら、理性飛んで抱き締めたくなるんだけど」
「だ、だめっ!」
焦ったように、今度はクルリと瑞樹に完全に背を向けてしまう結衣。
瑞樹はふふっと笑って続けた。
「わかってる、しないよ。今言ったのは全部俺の男としての本音。心の声。だけど、実際は絶対に行動には移さない。恥ずかしいとか、結衣に嫌われたくないとか、そういう理性の感情がしっかりガードしてくれてるから」
ゆっくりと結衣が体を動かし、再び瑞樹の方へ向き直った。
「すごい……参考になった。私が想像してた男の子の思考より、何倍もいろんな葛藤とか理性を考えてた」
「男だって馬鹿だけど、完全な馬鹿じゃないからね。それなりに相手のこと考えてはいるんだよ」
「下半身が脳みそのくせに?」
ジト目でからかうように笑う結衣。
「そ。一丁前に理性で考えはするけど、最終的な決断は下半身がする!」
「サイテー」
ケタケタと笑いながら、結衣は仰向けに戻った。
「それにしても、私が男の子とこんな風に一緒に寝る日が来るなんてね」
「言葉だけ聞くととても甘美だな? 結衣は可愛いし、今までも散々モテて来たと思ってたけど」
結衣は、自嘲するように小さく苦笑した。
「可愛いのは認めるし、モテても来たよ?」
自己評価がちゃんと高いのは、彼女の良いところだ。
「……でもほら、私『ビッチ』だから。私の内面を見て、純粋に私のことを好きになってくれた人は、多分今まで一人もいなかった。ついでに、同性の友達もいないしね」
結衣はパーソナルスペースが極端に狭い。彼女は無意識下に他人にゼロ距離でくっついて会話をしてしまう。自分にとっては息をするのと同じくらい普通のことだが、人懐っこい明るい性格も相まって、相手が異性だと確実にドキッとしてしまい、それがイコールで「結衣からの好意だ」と勘違いさせてしまう。
そんな無自覚な身の振り方をしていたせいで、周りから心無い『ビッチ』『ヤリマン』というレッテルを貼られてしまったのだ。
可哀想な話ではある。結衣はわざとやっているわけではなく、無意識の習性なのだから。
だからきっと、今まで結衣はずっと孤独に生きていたんじゃないかと思う。明るい性格だから周りに人は多そうに見えるが、そこにいるのは彼女の身体目当ての邪な考えを持つ者か、陰で悪口を言う者ばかりだったのだろう。
それに、彼女はあのカフェの時のように、思ったことをオブラートに包むことなく真っ直ぐ相手に伝えてしまう部分もある。それが「生意気だ」と疎ましく思われることを、瑞樹は知っていた。瑞樹もまた、感情よりも正論をぶつけてしまう厄介な癖があるからだ。
だからこそ、心からの本音で「好き」を「好き」と言い合える真の友達は、彼女にはいなかったのかもしれない。
(もしこうしてオタクとして仲良くなっていなかったら、俺もその他大勢と同じような冷たい評価を下していたのかな……)
瑞樹はふと考え、すぐに頭を強く振った。今の瑞樹にとって、結衣はそんな軽い存在ではない。
「……俺がいるから、いいだろ」
「……え?」
瑞樹は体ごと結衣の方に向き直る。結衣も顔だけこちらに向けていた。
お互いの吐息がかかりあう距離で、じっと見つめ合う。
「俺が、結衣の最初で最後の友達だ。他にいなくていい」
「そ、そっちか……ビックリした。てか、これから先私に友達が出来ないって前提!?」
「出来なくていい。俺だけでいい」
「めっちゃ自分勝手じゃん……強引だし」
「俺は、結衣が他の男とくっついてたら、なんかイヤだ。だから、他に友達は作らなくていい。これが俺の本音」
「は、恥ずかしさの理性のガードを緩めたら、そんな独占欲みたいなことも、言えちゃうんだ……ふーん……」
「恥ずかしくない。どちらかと言えば、こんな重いこと言って嫌われないかなって不安の方がある」
結衣はハッと目を見開くと、ギュッと唇を震わせ、勢いよく瑞樹に背を向けた。
「結衣?」
(やばっ、流石に重すぎて嫌われたか……!)
瑞樹は焦ったが、その後の結衣の震える言葉で、すぐに杞憂だと気付く。
「……もう、嫌いになんてなれるわけないじゃん……バカ……」
「よ、良かった、です」
「ねえ、瑞樹くん」
小さく、掠れた囁くような声。
「ん?」
結衣は、震える背中を向けたまま、ポツリと呟いた。
「……後ろから抱き締めるくらいなら、許す。……他のとこ触ったら、ヤだから……」
ドクン、と。
瑞樹の心臓が、今日一番の大きな音を立てた。
瑞樹は、そっと、壊れ物に触れるように優しく腕を伸ばし、背を向ける結衣の小さな体を後ろから抱きしめた。
瑞樹の温かい腕の中で、結衣は小さく震えて、ポロポロと小さく嗚咽を漏らしていた。
ずっと一人で孤独に耐えてきた結衣から溢れるその涙ごと彼女を抱いてしまったことで、自分の中に芽生え始めた『狂気に似た黒い感情』に、瑞樹は今は気付かない振りをして。
そのまま優しく、二人の甘く静かな夜の時間が過ぎていった。




