第6話 取材(5)
『あいシてるHOUSE』の狂気に満ちた第一話が見終わったのは、時計の針が午後十一時を過ぎた頃だった。
異例とも言える、三時間ぶっ通しのアニメ第一話。映画を一本、いや二本連続で見終えた後のような凄まじいカロリー消費と充足感があるはずだが、筋金入りのオタクである瑞樹と結衣の顔に疲労の色は見えない。むしろ、「さあ、ここからが本番だ」と目を輝かせて息巻いているくらいだ。
「いやー、瑞樹くん。最初におっかない死体から始まるからビビったけど、聞いてた通り、一話はこってこての甘いラブコメだったね」
結衣が「お疲れ様」と笑いながら、キッチンから冷えた麦茶を持ってきてくれた。瑞樹はそれを受け取ると、ゴクリと一口飲んで「ふぅ」と深く息を吐き出した。
「そうなんだよ。あの完璧なラブコメがあるからこそ、ここからがエグいんだよね。『ラブコメ? 何それ美味しいの?』って感じで、この後はずっと胃が痛くなるようなシリアス続きだから」
「ひゃー。私、一人だったら絶対観れないやつだー。……ん」
結衣が、麦茶と一緒に持ってきた一口サイズのチョコレートを瑞樹の口元に近づけた。
瑞樹は何の抵抗もなく、パクッとそれを受け入れて食べる。
「ただ怖いというか……いや、怖さはあるんだけど、純粋なホラーじゃなくて精神的にくるんだよ。すごい嫌な気持ちになると思う」
「そーゆー、心をえぐるような作品を好んで観る瑞樹くんって……ちょっと変だよね」
「自覚はしてる」
モグモグと甘いチョコレートを頬張りながら、瑞樹は手元のリモコンを操作する。
「じゃ、第二話。準備はいいか?」
「うん。かかってこい!」
結衣は可愛く両手でガッツポーズを作ると、ピトッと瑞樹にくっついた。くっつくというか、もはや瑞樹の左半身にがっちりと体重を預けて座っている。
そんな無防備な結衣の頭を横目で見下ろしながら、瑞樹は第二話の再生ボタンを押した。
***
約一時間半が経過して。現在放送済みの第四話までをイッキ見した二人は、そのまま深夜に放送される最新話の第五話をリアルタイムで鑑賞した。
「どうせなら映画館っぽくしよう」と、部屋の主照明は落としてある。テレビモニターの青白い灯りだけが、暗い部屋の中で二人の姿を淡く照らし出していた。
結衣は、本編の不穏な空気が加速し始めた第二話が始まって五分もしないうちに、「ひっ……!」と瑞樹の右腕にしがみついた。そして、約二時間弱もの間、そのままの体勢で画面を凝視し続けていた。
エアコンがしっかりと効いた涼しいはずの部屋なのに、瑞樹は結衣の柔らかな体温と密着感をダイレクトに感じ続け、じわりと額に汗を滲ませていた。
「はぁ……疲れたよ、瑞樹くん……」
「さっきまでの三時間の甘いラブコメが、嘘のようだろ?」
「うん。これは間違いなく問題作だよ……」
結衣はソファーの上で正座に近い体勢になり、瑞樹の右腕をまるで抱き枕のように、自分の両腕と豊かな胸、そして両太ももでギュッと挟み込んでホールドしていた。
普通の貞操観念を持つ女性なら絶対にありえない、赤面ものの恥ずかしい格好なはずだが、画面の狂気に当てられている結衣はそれどころではないらしかった。
瑞樹の右腕の皮膚越しに、結衣の胸の奥でドクドクと早く打つ心拍の振動が、ダイレクトに伝わってくる。
「ホラー要素とか、血が出るのは私でも大丈夫なんだよ。苦手ではあるけど、フィクションとして理解はできるから。……でもこれ、人怖が過ぎる。全くヒロインたちの感情が理解できない。愛情が、歪みすぎてる」
「だけど、やけにリアルさを感じるだろ」
「そうなのっ!」
ドクドクと、結衣の鼓動がさらに早くなる。
「私には全く理解できないし、共感もできないんだけど……でも、人間のドロドロした感情としては、すごくリアルな感じがするの。それが一番怖い。エグい」
「でも、そこに痺れるんだよな」
「憧れないからね!?」
瑞樹の腕にガッチリと抱きついたまま、結衣はCMが流れ始めたテレビの画面を虚ろな目で見つめた。
「……なんなんだろうね、この重い気持ち」
「『約束された喪失感』、だな」
ボソッと、瑞樹が低く呟いた。
結衣が腕を抱えたまま、くるっと瑞樹の顔を見上げる。その真っ直ぐな視線を受け止めながら、瑞樹は静かに語り始めた。
「第一話の冒頭で、主人公が死ぬことは『確定』してるじゃん? だからこそ、その裏で描かれる彼女たちの必死なラブコメや愛情表現が強ければ強いほど、最終的に主人公が死んで、彼女たちの恋が絶対に実らないっていう事実に対する『喪失感』が凄いんだよ。なんていうか、その決定的なバッドエンドを抱くことがわかった状態で、彼女たちの足掻きを神の視点で観ていくのが辛いんだと思う」
瑞樹は、画面の中で狂気を振りまくヒロインたちに、自分自身の抱える狂気を重ね合わせていた。
「そして、ヒロインたち。確かに彼女たちの愛情は歪んでる。イカれてる。でも、その根源にあるのは『ただ主人公に好きになってもらいたい』『自分だけを見てほしい』っていう、純粋な独占欲なんだ。その部分の感情だけは、俺たちにも理解できるだろ? だから、あの狂気がリアルに感じるんじゃないかな。良くも悪くも、ご都合主義な作り物っぽさがない」
瑞樹は、淡々と自己分析をするように言葉を紡ぐ。
「その『リアルな感情の生々しさ』と、『殺意にも似た異質な愛情』のアンリアル感が相まって、まるでドキュメンタリーやノンフィクション映画を観てるような錯覚に陥るんだ。……だから、悲しい。主人公が死ぬんだと思ったら、この後俺たちが感じるであろう圧倒的な喪失感を思って、胸が苦しくなる」
瑞樹はふと、結衣の方を向いた。
隣で体温を預けてくれる、この眩しい太陽のような女の子。
いつか高校を卒業すれば、こんな風に結衣と無邪気に過ごす時間も失われてしまうのだろうか。その「喪失」を想像すると、酷く寂しい。
瑞樹はそう口に出そうとして――なぜか、踏み止まった。
「……なるほど。瑞樹くんに綺麗に言語化してもらって、なんとなく正体がわかったかも」
結衣はふんふんと納得した様に頷いた。しかし、すぐに「でも」と続けた。
「でもやっぱり、あのヒロインたちの『歪んだ愛情』は、私には絶対に理解出来ないなー。そこに私は一番の怖さを感じてる。瑞樹くんの言う『喪失感』に、『理解できない他者の狂気への恐怖』も混じってる感じ」
「え、そうか? 『心の底から愛してるからこそ、自分の手で殺したい』とか、最高に良くない?」
「えー。絶対に良くないよ。愛してるなら、生きて、ずっと一緒にいたいよ、私は」
――ドクン。
結衣のそのあまりにも純粋で、真っ当な言葉に、瑞樹は心臓を素手で掴まれたようにドキッと胸を鳴らした。
痛いところを鋭利な刃物で突かれたような、逃げ場のない戸惑い。
瑞樹は、朱音に対して「この手で殺してやる」という歪んだ愛情と計画を抱いている。
結衣の放った「愛してるなら一緒に生きたい」という太陽のような眩しい正論は、暗闇に潜む瑞樹の狂気を残酷なまでに照らし出していた。
瑞樹は、一瞬脳裏を過った罪悪感と動揺を強引に振り解くように、わざとらしく明るいトーンで結衣へツッコミを入れた。
「この、お花畑ラブコメ脳め!」
「なんだと、この変態猟奇ホラー脳め!」
二人は至近距離で、ふざけて睨み合う。
「変態となんだ、変態とは!」
瑞樹は照れ隠しも兼ねて、結衣に抱き枕のようにホールドされている右腕を、抜け出そうとグイグイと上下に動かした。
「こんな密着して、いやらしいとこにまで自分の身体を擦り付けて抱きつきやがって! 無自覚な変態とはお前のことだ!」
「やっ! ちょっ、ちょっと動かさないでよっ!」
バッ! と大きな身振りと共に、結衣が瑞樹の腕から離れ、ソファーの端まで後ずさった。そして、またもや自分の全身を覆い隠すように、両手で胸と下半身を必死にガードした。
「み、瑞樹くん……! こういうふざけ合いの時、接触していい相場は『胸まで』って相場が決まってるんだよ! さっきから瑞樹くん、私のいたいけな下半身までまさぐりすぎ!」
顔を真っ赤にさせて、本気の非難の声を上げる結衣。
瑞樹はハッとして、自分の右手が先ほどまでどこに挟まれていたのかを思い出し、顔から火が出るほど赤面した。
「ち、ちょっと待て! それだと、まるで俺がさっきからずっと、いたいけな結衣の股の間を狙って意図的にまさぐってるみたいな言い方じゃないか!」
「事実、まったくその通りだよ瑞樹くんっ!」
どこかの逆転する弁護士のように、ビシッと瑞樹に指を突きつける結衣。
「もしかして瑞樹くん。よくある『ラッキースケベ』のさらにタチが悪い下位互換、『完全無自覚スケベ』の能力者?」
「無自覚でスケベって、それやっぱりただの変態じゃないか!」
「だから最初からずっと言ってるでしょ、変態っ」
グググ……と歯軋りさせ、瑞樹は完全に言い負かされてガックリと項垂れた。
ふと隣に温かい体温を感じて横を見ると、端に逃げていたはずの結衣が、いつの間にかまた元の位置に戻り、ぴったりと肩を寄せてきていた。
このバグった距離感は、結衣が結衣である限り、一生変わらないのだろう。そこに変な思惑も、打算も、特別な感情もない。ただ空気を吸うのと同じように、瑞樹の隣が結衣にとっての「一番落ち着く指定席」であるというだけだ。
「……ごめん。本当に、不可抗力とはいえ気付いてなかった」
瑞樹はソファーに座ったまま、深く頭を下げて素直に謝罪した。
「嫌な思いさせて……ごめん」
すると、瑞樹の頬が指先でツンツンと突かれた。
顔を上げると、結衣が先ほどの赤面をどこかに吹き飛ばし、底抜けに明るいニコニコとした笑顔を浮かべていた。
「瑞樹くんの、そーゆーとこ……好きだよ」
「え?」
「一緒にふざける時は、全力でふざける。オタク語りをする時は、真面目に語る」
結衣は、コトンと瑞樹の肩に自分の頭を乗せた。
「そして、自分が悪いと思ったら、言い訳せずにちゃんと謝る」
「……そんなの、普通のことだろ」
「大人になると、その『普通』が一番難しくて、出来なくなるんだなー、これが」
「……確かに、な」
「だから、瑞樹くんはずっとそのままでいてね」
「……うん」
瑞樹が短く頷くと、結衣がふふっと柔らかく笑った。
「私もごめんなさい。そもそも、私が無意識に距離近すぎるのがいけないんだから。気をつけなきゃね」
「いや、それはいいよ別に。結衣みたいに可愛い子にくっつかれて、本気で嫌な思いする男子なんて、この世に一人もいないから」
「……へぇ。瑞樹くんも?」
「本気で嫌だったら、とっくにソファーから蹴り飛ばしてる」
「ふーん。瑞樹くん、えっちだねー」
「脈絡!!」
「え、すご。『みゃく、りゃく』って噛まずにスラスラ言えた」
「俺の滑舌を舐めるな」
「『舐める』……? やっぱり、えっちじゃーん!」
「その卑猥な意味の舐めるじゃないからね!?」
テレビから流れるCMの音を掻き消すように、深夜のワンルームに二人の明るい笑い声が響き渡った。




