第5話 復讐(3)
「狂ってるな……俺も」
誰もいない静かなリビングに戻って来た瑞樹は、糸の切れた操り人形のように、ドサッとソファに脱力した身体を投げ出した。
狂っている。どう考えても異常だ。
朱音は昨日、あんなに信じていた彼氏に騙され、裏切られ、顔を殴られ、衣服をボロボロに引き裂かれ、そしてその純粋な心と身体を無残に穢されたのだ。
それにもかかわらず、今の朱音は「彼氏と付き合って良かった」と歪んだ笑みを浮かべている。そして、それを聞いた一花と遊も「良かった良かった、これでめでたしめでたしだ」と、すっかりいつもの落ち着きを取り戻しているのだ。
そういう吐き気を催すようなグロテスクな結末に彼女たちの精神を誘導し、持っていったのは、紛れもなく瑞樹自身だ。自分の薄っぺらい言葉一つでこうなると最初から分かっていて、計算して組み上げた結果だった。
狂っている。壊れている。
朱音も、一花も、遊も。
そして何より、それを裏で操っている瑞樹自身も。
これが自分に対する幼馴染たちからの過剰な『心酔』からくるものなのか、はたまた病的な『依存』なのか、それとも瑞樹が施した『洗脳』なのか。どの呼び名も少し違うような気がするし、逆にそのすべてが当てはまっているようにも思えた。
まるで底なし沼のような、答えの見つからない問い。それを頭の中で何度かループさせ——やがて、瑞樹は考えるのをやめた。
疲れた。
今の瑞樹の心境は、その一言に尽きた。
泥のように重い疲労感が、細胞の隅々にまで染み渡っている。
(癒しが、欲しい……)
無意識のうちにそう願った時、瑞樹の脳裏に真っ先に浮かんだのは、唯一のオタク友達である結衣の、あの太陽のように明るい笑顔だった。
瑞樹は制服のポケットからスマホを取り出し、画面をタップして時刻を確認する。
時計の針は、午後一時を少し過ぎたところを指していた。今日は月曜日。隣町の高校に通う結衣は、当然まだ学校で授業を受けている時間だ。
今メッセージを送ったところで、すぐに返事なんて来るわけがない。そんなことは百も承知だったが、気がつけば瑞樹の指は無意識にチャットアプリを立ち上げ、結衣のトーク画面を開いていた。
そして、たった四文字だけを打ち込む。
『会いたい』
なんとも端的でわかりやすく、それでいて、自分で打っておきながら少しこそばゆくなるような単語だろうか。
まるで将来を約束し合った初々しいカップルが送るような、剥き出しの言葉。到底、ただのオタク友達同士で送り合うような文言ではないとわかってはいた。
だが、あの日のカフェで『言わなくても察してなんて傲慢だよ』と真っ直ぐに伝えてくれた結衣に対しては、変に見栄を張った長文や言い訳めいた誘い文句よりも、この四文字が一番正しく伝わるはずだと直感していた。
もちろん、すぐに返信が来るとは期待していなかった。
このままスマホを握りしめてソファでいつの間にか寝落ちしてしまい、夕暮れ時に目が覚めて、そこでようやく結衣からの返信を確認する。そして「時間も遅いから、また今度の休みにね」という結末になるだろうと、瑞樹はぼんやりと予測していた。
――しかし、そのささやかな期待は、良い意味で裏切られてしまった。
ブルッ、と。
送信してから数十秒も経たないうちに、瑞樹の手の中でスマホが短く震えたのだ。
画面に浮かび上がったポップアップ通知を見て、瑞樹は大きく目を見開いた。
『今からいく。いつものカフェね』
授業中のはずなのに。学校を抜け出してくるつもりなのだろうか。
そんな疑問を抱く暇も与えない、有無を言わさぬ絶対的な肯定のメッセージ。
「……っ!」
瑞樹は弾かれたようにソファから跳ね起きた。
蓄積していた泥のような疲労感が、一瞬でどこかへ吹き飛んでいく。
瑞樹は急いで自室へ駆け込み、制服を脱ぎ捨てて適当な私服へと着替えると、玄関のドアを開け、結衣の待つ駅前のカフェに向けて全速力で家を飛び出した。




