第5話 復讐(2)
「遊、俺だ。入れてくれ」
おにぎりと麦茶の乗ったトレイを片手に、瑞樹は優しく遊の部屋のドアをノックした。
スタスタと中から足音が近づいてきて、やがてドアの前で止まると、ガチャリと鍵が開く音がした。
「おはよう、古河」
ゆっくりと開かれたドアの向こう、瑞樹の眼前には、目を疑うような『嘘みたいな光景』が広がっていた。
昨日、あれほどめちゃくちゃに暴れ回り、足の踏み場もないほどに荒らされ尽くしていたはずの遊の部屋が、まるで何事もなかったかのように綺麗に片付けられていたのだ。
倒れていた勉強机は元通りに直され、ぐちゃぐちゃに散乱していた服は畳まれ、ひっくり返っていたベッドも綺麗に整えられている。
そして何より、扉を開けた遊自身が、たっぷりと質の良い睡眠を取った後のように、憑き物が落ちた清々しい笑顔を顔に貼り付けていた。
(……昨日の狂乱は、夢だったのか?)
瑞樹が一瞬自分の記憶を疑ってしまうほどの、完璧なリセット。
「おはよう、遊。お腹空いたろ?」
瑞樹は内心の戸惑いを悟られないよう、トレイを軽く掲げて部屋の中に入れろと促した。
必要最低限の家具しかない、殺風景な遊の部屋。瑞樹は勉強机にトレイを置くと、待ってましたと言わんばかりに遊が鮭のおにぎりを一つ手に取った。
瑞樹も同様に一つ手に取り、一口運ぶ。
遊はおにぎりを咀嚼しながら、ベッドの上でだらしなく片手を後ろ手につき、ぼんやりと天井を見上げた。
「昨日はごめん。みっともないとこ見せた」
遊は視線を天井に向けたまま、淡々とした口調で謝った。
「いいや。遊の気持ちは、痛いほどわかるよ」
「——そうだよな!?」
勢い良く上体を起こした遊は、まるで同志を見つけた子どものように、キラキラと澄んだ瞳で瑞樹を見上げた。
「ゆ、遊……?」
「やっぱり、古河は僕と同じ考えだったんだ」
「……同じ考え?」
瑞樹が訝しみながらおにぎりをもう一口齧ると、遊は麦茶をゴクリと飲み干し、乱暴にコップを机に置いた。
「今夜、城ヶ崎の元カレを殺しに行こうと思うんだ」
「…………は?」
「やっぱり、それが一番手っ取り早いと思ったんだ。一晩中ずっと考えたんだけど、この問題を根本的に解決するには、城ヶ崎をあんなに悲しませたアイツに、この世から消えてもらうことが必須なんだよ」
一切の迷いがない、純真無垢な瞳。
それは狂気に当てられた衝動的な発言ではなく、まるで『一足す一の答えは二だ』と真理を語るかのように、悪びれる様子すらなく遊は言い切った。
「遊……お前」
天音遊の最初の苗字は、『斉藤』だった。
ごく平凡な女性と、酒と女にだらしない男性の間に生まれた一人息子。遊が生まれてもその父親のだらしなさは変わらず、母親は遊を守るために離婚を決意した。
そこで苗字が『山田』になった。
母親の旧姓だ。
程なくして母親は、自称投資家の男と再婚。しかし、これまでの鬱憤や我慢の反動からか、男のお金を湯水の如く使い込み、ごく平凡だったはずの母親は、派手な身なりでホストクラブに狂う性格へと豹変した。
当然離婚の流れになったが、実母ということもあり親権は母親に。山田が再婚で『田中』になり、そしてまた『山田』に戻った。
次の再婚も早かった。次の父親は平凡な会社員の『高橋』。母親は以前の優しくて平凡な人間に戻り、今度こそこれで落ち着くかと思った。
だが、不幸はすぐに訪れた。前夫の田中が投資家というのは真っ赤な偽りで、持っていた金はすべて裏社会から借りた汚い金だったのだ。母親はその借金の連帯保証人にさせられており、田中が蒸発したことで、その莫大な返済が母親に付き纏うことになった。
気づいた時には、母親の姿は消えていた。
そうして何度も何度も、大人の都合で母親と父親が入れ替わり、さながらわらしべ長者のように苗字を変えていった。
今の『天音』という苗字に落ち着くまでに、その回数は優に十回を超えていた。
この地獄のような経験を、遊はわずか『七歳』になるまでにすべて味わったのだ。
信じた親が次々と消え、何度も裏切られ、愛されることも、誰かを愛することも許されなかった七年間。
遊の心は完全に壊れ、他人に期待することを永遠に諦めた。
そんな遊が、完全に一人の冷たい世界で息を潜めて生きていたところへ、根気強く声をかけ、裏切らないことを身を以て証明し、強引に手を差し伸べて暗闇から引きずり出したのが瑞樹だ。
高校生になった今でも、遊が赤の他人を心から信用することは難しい。だが、少なくともこのシェアハウスの幼馴染たちには期待し、絶対の信用を置いている。友達のように大好き同士で、家族のように愛し合っているから。
その、彼にとって世界のすべてとも言える大切な存在が、外の人間によって無残に裏切られ、踏みにじられたのだ。
遊にとっては、幼き日の絶望的な記憶をそっくりそのまま繰り返されるような出来事だった。数々の両親たちへ抱いていた行き場のない怒りと恨みが一気に蘇り、その鋭い矛先が、すべて朱音の元彼へと向いてしまったのだ。
「遊。……殺しちゃだめだ」
「えっ、でも殺さないと、アイツはこの世からいなくならないよな……あ、そっか。自分から死にたくなるように、精神が壊れるまで拷問するとか?」
「殺しも拷問もしないよ、遊」
「えっ……?」
純粋に疑問符を浮かべる遊の肩を掴み、瑞樹は興奮気味の彼をベッドに座らせた。
「俺たちって、ちょっと変わってるだろ?」
瑞樹は自嘲気味に笑いをこぼして、語りかける。
「俺たちが今、本当にするべきことって、復讐なのかな?」
「そりゃ古河、復讐は絶対に必要……」
「復讐は、誰のためだ? ……俺たちのエゴを満たすためじゃんか」
瑞樹は、寂しそうな、しかし芯の強い瞳で遊を真っ直ぐに見つめた。
「朱音は、もう俺が落ち着かせた。嫌なことがあったと完全に割り切るのにはまだまだ時間が掛かるよ? でも、あいつはもう前を向こうとしてるんだ。その必死な足を止める権利は、俺たちにはない。だから、俺たちがするべきは復讐じゃなくて……」
「……支えること、なのか?」
「うん。俺はそう思う」
瑞樹は遊の華奢な肩に両手を添えて、自暴自棄で周りが見えなくなっている底なしの瞳に訴えかけるように、言葉を紡いだ。
「あのボロボロになった朱音を心から支えられるのは、世界中探しても俺たちだけだ。でもそれは、自分たちを傷つける周りの人間をすべて殺して排除しようって話じゃない。他人の悪意ともなんとか上手に折り合いをつけながら、あいつが困ったり悲しい思いをした時に、一番近くで寄り添い合える関係でいようってことだ」
「古河……」
瑞樹は肩から手を離すと、一歩引いて、また自嘲気味に笑った。
「俺たちは、世間から見ればちょっと異常で変わってる。だから、もし遊が朱音の元彼を殺したとしても、世間は『頭のおかしい奴が猟奇的な殺人をした』という部分しか見てくれない。複雑な家庭環境がそうさせたとか、法律でこういう子どもを守るべきだとか……そういうセンシティブで注目度の高い部分だけをマスコミに切り取られて、消費されるだけなんだ」
瑞樹の言葉が、遊の心に少しずつ浸透していく。
「そんなの、別にどうだっていいだろ。朱音がどれだけ辛い思いをしたかなんて、安全圏にいる世間の連中は絶対にわかっちゃくれない。……赤の他人の低俗な興味を満たすために、わざわざ俺たちが利用されてやるのは、癪だろ?」
「…………うん。古河の言う通りだ」
遊の濁っていた瞳に、ようやく本当の意味でのキラキラとした理性の光が戻った。
「すごいな、古河は。……僕は、ただ自分の過去の怒りに任せて、暴走してただけだ」
「それだけ、お前にとって朱音が大事だってことだろ? ……そんな不器用な遊を支えるのも、俺の役目だ」
「ありがとう。古河はいつも冷静で、物事の本質が見えてる。……僕たちを、いつも正しい場所へ導いてくれるんだな」
——そんなことは、ない。
一花や朱音にしたのと同じだ。
瑞樹はただ、上辺だけの薄っぺらい『それっぽい正論』を並べ立てて、遊の殺人衝動を逸らしただけだ。その実、朱音のトラウマへの根本的な解決など、何も進展してはいない。
ただただ、瑞樹は遊の破綻しきった精神状態を、日常のレベルまで引き戻して回復させたに過ぎないのだ。
瑞樹は遊がすっかり元通りの落ち着きを取り戻したのを確認すると、「おにぎり、まだあるからちゃんと食べろよ」と言い残して、部屋を後にしようと背を向けた。
その背中に、不意に遊が言葉を投げかけた。
「なあ、古河」
「ん?」
「古河はいつも冷静だけど……城ヶ崎が騙されてあんな目に遭って、悲しくないってわけじゃないんだよな?」
ピタリと、ドアノブに手をかけた瑞樹の足が止まった。
「いや、古河を疑ってるとかじゃなくてさ。あまりにも冷静で、感情を出さないだろ? いつも僕たちの親みたいに正論で諭してくれて本当に助かってるんだけど……たまに、古河の本当の心が見えなくて、すごく遠くに感じるんだ」
沈黙が落ちる。
瑞樹はノブから手を離し、ゆっくりと振り返った。
「……」
その瞬間、瑞樹の瞳から一切のハイライトが消え去った。
白眼さえも黒く泥濘んで見えるほどに、圧倒的で濃密な負のオーラが瑞樹の全身に纏わりつく。
「ひっ……!?」
先ほどまで優しかったはずの空気が一変し、まるで部屋の温度が数度下がったかのような錯覚。得体の知れない雰囲気を漂わせる瑞樹の姿に、遊は一瞬身体をビクッと跳ねさせ、反射的にベッドの端まで後ずさった。
瑞樹は、獲物を前にした獣のように、ねっとりと低く這うような声で口を開いた。
「俺の朱音が、あんなふうに傷付けられたんだぞ……?」
「ふ、古河……?」
「綺麗な顔もあんなに腫れさせて、心も身体もボロボロにされて……許せるわけがないじゃないか。あいつが何万回死んだって、許せるわけがない」
瑞樹の口角が、奇妙な形に歪んで吊り上がる。
「あの男の首を絞めて、内臓を引きずり出して、この手で無残に殺してやりたいと思ったのは……俺も同じだよ、遊」
その底なしの狂気に満ちた眼差しは、あの日の角路地で不良を追い詰めた時のものと、全く同じだった。
遊は息を呑み、瑞樹の抱える闇の深さに圧倒されて声も出せない。
——スッ、と。
瑞樹の瞳に、いつもの穏やかな光が戻った。
「ま、殺さないけどね」
何もなかったかのように、爽やかで完璧な笑顔を一つ見せて。
瑞樹はガチャリとドアを開け、遊の部屋を後にした。




