第5話 復讐
一度壊れてしまった人間というのは、ひどく脆くて再度壊れやすい一方で、驚くほど『修復しやすい』という性質を持っている。
例えそれが、土台の腐敗を無視した表面的な補修工事であったとしても、本人たちが望むパテを埋め込んでさえやれば、ある程度は『治った』と判断できてしまうのだ。
ボロボロの姿で帰って来た朱音の心は、瑞樹が思ったよりもずっと早く、あっけなく回復した。
帰って来た当初こそ、信じていた人に裏切られ、身も心も踏みにじられた絶望で過呼吸を起こして泣き崩れていた。
しかし震える身体をきつく抱き締め、頭を撫で、優しい言葉を掛け、ひたすらに彼女の存在を肯定し続けた。
そうやって徹夜で慰め続けた甲斐もあり、なんと次の日の朝には、朱音は笑顔を作って振る舞えるほどには表面上の回復を見せていた。
元気になったのは、本来なら良いことのはずだ。
しかし、あの凄惨な出来事から一晩で笑顔を作れるというあまりにも異常な回復スピードは、逆に周囲の不安を強く煽るものだった。
彼女が無理をして『いつもの明るい城ヶ崎朱音』の仮面を被っているのは誰の目にも明らかだったが、当人がそれを徹底している以上、瑞樹はこれ以上彼女の不安を冗長させるような野暮な真似はしなかった。
いつも通りに、接する。それが今の彼女にとって最善の防波堤になるからだ。
しかし、一花と遊はそうはいかなかった。
ある意味で、彼ら二人は直接の被害者である朱音以上に激しく壊れてしまったといえる。
一花は一晩経ってもなお、自分のことのように泣き崩れ、一睡もしていないのか目の下に真っ黒な隈を作り、今日は学校を休んで一日中朱音にべったりとくっついている。同じく学校を休んだ朱音が、逆に泣いている一花の背中を撫でて慰めるという、ひどく歪んだ構図を作り出していた。
遊の崩壊は、さらに凄まじかった。
あの晩、朱音の無残な姿を見るなり遊は怒りを露わにし、獣のように泣き叫び、「殺す殺す殺す」と連呼して完全に我を見失っていた。今にも家を飛び出して本当に包丁でも持って殺しに行きかねない異常な興奮状態だったため、瑞樹が力づくで遊を自室に押し込んで落ち着かせようとした。
しかし、程なくして遊は自身の体に傷がつくのも厭わず、部屋中の物を壁に叩きつけ、めちゃくちゃに荒らして暴れ狂った。最後は四人で泣きながら抱き合い、しばらくして疲れ果てた遊は、瑞樹の部屋のベッドで泥のように眠りに落ちた。
一晩経った今朝、遊も無表情で学校を休むと言い出し、荒れ果てた自分の部屋に内側から鍵を掛けて引き篭もってしまったのだ。
月曜日の昼下がり。
集団で風邪を引いてしまったと学校に嘘の連絡を入れた瑞樹は、幼馴染たちのお腹を少しでも満たすためにキッチンに立っていた。
部屋でも食べやすいように、塩と鮭のおにぎりをいくつか握る。
まずは、一花と朱音がいる一花の部屋へ。
「入るぞ」
ノックをして扉を開くと、カーテンが閉め切られた薄暗い部屋のベッドの上で、一花がヒックヒックと泣きながら朱音の身体に縋り付くように抱きついていた。
瑞樹はおにぎりと麦茶の乗ったトレイを机に置くと、無言でカーテンを開ける。外の眩しい初夏の光が差し込み、部屋が一気に明るくなった。
「昼ごはん持って来たから、食べよう」
ローテーブルを挟んで一花たちの向かいに瑞樹が座り、握って来たおにぎりを乗せた皿を差し出す。
「ほら一花。泣くのやめて、あたしたちも食べよう?」
朱音が、まるでお姉さんのように優しく問いかける。
しかし、目を真っ赤に腫らした一花は、恨めしそうに瑞樹をキッと睨みつけた。
「みーくんは……悲しくないの?」
「一花……」
「朱音ちゃん……汚されたんだよ? あんなに信じてた彼氏に、無理やり裏切られたんだよ!?」
ポロッと、一花の頬を大粒の涙が伝う。一晩中泣き崩れても、彼女の涙はまだ枯れないらしい。
「やっぱり、ゆーくんの言うこと聞くべきだったんだ……。私が背中を押したのがいけないんだ……付き合ったのは間違いだった……ごめんね朱音ちゃん……本当にごめんね……っ」
「だ、大丈夫だよ一花ぁ……あたしは気にしてないから……それに酷いこともされてないよあたし」
助けて、と言わんばかりに、困ったように瑞樹を見つめる朱音。
本当に、気味が悪いほど歪んだ構図だ。
深い傷を負った被害者は朱音であるはずなのに。
瑞樹には、一花がここまで異常に泣き叫ぶ理由が痛いほどわかっていた。
彼女が悲しみ泣いているのは、決して「朱音が可哀想だから」という純粋な同情だけではない。
『他人と肌身を重ねることが、愛されるということ』
幼い頃からそう身体に教え込まれてきた一花にとって、本来、朱音が彼氏とそういう行為に及んだのであれば、それは「愛された」という喜ばしい結果に繋がるはずだった。それだけが愛の形ではないと瑞樹が根気よく教えてきたが、やはり彼女の根底にある歪みはまだ消し去ることはできていない。
だからこそ、他人と肌を重ねた朱音が『幸せを感じていない』という現実は、一花を形作っている世界の根本的なルールを根底から破壊することと同義になるのだ。
一花は、朱音の姿を通して『自分自身を否定された気分』になり、パニックを起こして泣いているのだ。
「一花。こっちを見ろ」
瑞樹は立ち上がり、一花の隣に移動して腰を下ろした。
「一花は、俺のこと好きか?」
瑞樹が静かに問うと、一花は手の甲で涙を乱暴に拭いながら頷いた。
「……大好きだよ」
「朱音も、遊も?」
「うん……大好きに決まってる」
「そうだよな。俺たちは幼馴染だ。小さい頃から、心が繋がって、いろんなことをみんなで一緒に乗り越えてきた。楽しいことも、辛いことも、みんなで共有してきた」
瑞樹は、一花の頭に大きな手のひらを乗せ、一定のリズムで優しく撫で始めた。
「俺たちに、身体の関係はない。あるのは心の繋がりだけだ。……わかるな?」
「うん……そうだね」
「身体の関係がなくても、俺たちはこうしてお互いに大好きになれる。俺が昔からずっと言ってきただろ? そんなことをしなくても、俺は一花を愛してるし、みんなも一花を愛してるんだよ」
「うん……っ」
「みんな、一花が大好きだ。だから、何も否定されてない。誰もが一花を認めてる。安心しろ」
「……うんっ」
瑞樹がゆっくりと呪文のように肯定の言葉を流し込むと、一花の焦点の合っていなかった瞳に、少しずつ安堵の光が戻り始めた。
一花が落ち着いたのを見計らい、瑞樹はさらに言葉を紡ぐ。
「それに……朱音は確かに傷付いた。あの彼氏がやったことだって、到底許されることじゃない。でも、これまでの一カ月の最後は偽りだったとしても、朱音が彼と付き合って『幸せだった瞬間』があったことだけは、本当なんだ。朱音が彼を信じて、外の世界へ一歩踏み出したその心も、本物なんだよ。俺たちが、その努力や思い出まで全部否定しちゃいけないと思うんだ」
一花は瑞樹の言葉を反芻するようにコクリと頷くと、隣に座る朱音にギュッと抱きついた。
「泣きすぎてごめんね、朱音ちゃん。……朱音ちゃんなら、次また、もっと良い人に出会えるよ」
――自分でも、反吐が出る。
瑞樹の言っていることは、実のところ何の解決にもなっていない。
ただ、精神がおかしくなった一花の「愛の価値観」を肯定して安心させ、それとなくその肯定感を朱音の凄惨な事件と重ね合わせて、耳障りの良い『それっぽいこと』を言っただけだ。
でも、響いてしまう。
パニック状態でまともな思考ができない彼女たちには、瑞樹のこの薄っぺらい言葉遊びのペテンが、どうしようもなく深く響いてしまうのだ。
「うんっ! ありがとう一花。瑞樹くんも、ありがとう。……あたし、彼と付き合って良かった!」
朱音に至っては、自分を穢し、尊厳を汚した相手に対して「付き合って良かった」とまで笑ってこぼしてしまう始末だ。
壊れている。
彼女たちは、どうしようもなく壊れているのだ。
これでいいとは、もちろん思っていない。
だが、今の彼女たちに対してまず第一に優先するべきは、不安定な脳内に安らぎを与えて、精神を平穏な状態に持っていくことなのだ。話はそこからだ。そうじゃないと、彼女たちは何を言っても理解できず、納得もされない。
正しい舵の修正は、これからまた時間を掛けて、少しずつ行なっていくしかない。
「おにぎり、ちゃんと食べるんだぞ」
胸の奥底で渦巻く一縷の罪悪感と、彼女たちを守るという目一杯の正義感を抱えたまま、瑞樹は立ち上がり、その場を後にした。
次は、遊だ。




