第4話 離合(4)
一カ月という空白の時間を埋めるように、瑞樹と結衣はそれから数時間、カフェの同じボックス席に並んで座り、ひたすらアニメと漫画とゲームの話で語り明かした。
「あのシーンの作画、絶対神がかってたよね!」「わかる、あそこの原画担当絶対あの人だろ」といった、同志にしか通じない熱量の高い会話。
気がつけば窓の外はすっかり茜色に染まり、街灯がぽつぽつと点き始める時間になっていた。心地よい疲労感と確かな繋がりを取り戻した満足感を胸に、二人は駅前で笑顔で解散した。
すっかり日の落ちた住宅街を歩き、シェアハウスの扉をくぐると、家の中から空腹を容赦なく刺激する芳醇なスパイスの香りが漂ってきた。
「ん……?」
靴を脱いでリビングへ向かうと、キッチンに立つ朱音の姿があった。
匂いから察するに、今夜のメニューはカレーライスだろう。
「あ、おかえり瑞樹くん」
可愛らしいフリルのついたエプロンを身につけ、金糸のような髪をポニーテールに結んだ朱音が、ニコニコとひまわりのような笑顔で瑞樹を出迎えた。
「ただいま。お腹空いたー。今日はカレーか?」
「うん。スープのね」
「スープカレー?」
「今日ね、デートの帰りにスーパーに寄ったら、大きめのチキンレッグがすごく安くなってて。それで、スープカレーにしてみようかなって思って作ってみたの。……普通のカレーのほうが、よかった? 嫌だった?」
途端に、自分の選択が間違っていなかったかと不安そうに眉を顰め、上目遣いになる朱音。
「嫌なわけないだろ。むしろ、スーパーでチキンレッグを見て『スープカレーにしよう』って思える発想がオシャレすぎて驚いただけだよ」
シェアハウスの幼馴染たちの中で、朱音が飛び抜けて料理が上手いというわけではない。純粋な料理の腕や手際の良さだけでいえば、一花が一番上手だ。
しかし、朱音は出来栄えや見た目の工夫に一切の妥協をしない。誰もが面倒がって敬遠するような細かい下ごしらえや、手の込んだ作業を好んで行うのだ。他者に『すごい』と認められたいという承認欲求の現れなのかもしれないが、その努力のベクトルは確実に食卓を豊かにしてくれていた。
「よかったぁ! ルゥを使わずに、スパイスから自分で調合して作ってみたんだ。もうすぐ出来るけど、すぐ食べる? それとも、先にお風呂でも入る?」
まるで新婚夫婦のようなやり取りだなと瑞樹は内心で口元を緩ませながら、「お風呂を先にもらうよ」と選択した。
結衣の一件で感情が大きく揺れ動いたせいか、今日は少し、疲れていた。
「おっけー。お湯沸いてるから、ごゆっくりー!」
瑞樹が熱いシャワーで汗を流し、ドライヤーで髪を乾かして食卓のテーブルにつく。
絶妙なタイミングを見計らっていたかのように、朱音がキッチンから湯気を立てるお盆を運んできた。
目の前に置かれたのは、深皿に盛られた本格的なスープカレーと、鮮やかな黄色に染められたターメリックのバターライス。おまけに、氷が浮かぶ自家製のラッシーまで付いている。
「すごいな、これ……完全にオシャレなカフェか専門店のお店みたいだ」
瑞樹は思わず目を丸くし、素直に感心した。
盛り付けのバランス、野菜の配色と彩り、どれをとっても素人の料理とは思えないほどのクオリティだった。
オーブンでじっくりと皮目をパリパリに焼かれたチキンレッグに、一度素揚げして色鮮やかになったナスやカボチャ、ピーマンの数々。普通の白米のままでも十分に美味しいはずなのに、わざわざターメリックとバターで風味付けをしたライスにしてくれている。
かけられた手間と努力、そして何より、瑞樹に対する確かな愛情を五感で感じるテーブルとなっていた。
「食器棚の奥にあったこの青色の平皿とか、どう使えばいいかずっとわからなかったけど……なるほど、こうやってライスを盛るのか。それにしても、本当に美味しそうだな」
「今日から遊くんも一花もいなくて、二人っきりじゃん? だから、ちょっと気合い入れて頑張ってみたの」
コトン、と自分の分のラッシーが入ったグラスをテーブルに置きながら、朱音も向かいの椅子に腰を掛けた。
「二人だから?」
二人だけだからこそ、手を抜いて簡単なもので済ませよう、とはならないのか。
瑞樹が不思議そうに尋ねると、朱音はニコニコと花がほころぶように頷いた。
「うん。瑞樹くんには、特別に喜んで欲しいから」
純粋で、真っ直ぐな言葉。
そこには、他者の顔色を窺うような澱みも、見返りを求めるような裏の感情も一切感じられない。ただ純粋に、大切な人に美味しいものを食べてもらいたいという真心だけがあった。
「……朱音の旦那さんになった人は、本当に幸せだろうな」
瑞樹は本心から、そう口にした。
人のために、自分の労力を惜しまず苦もなくここまで出来るのは、素直に彼女の持つ素晴らしい才能だと思う。
「えー。じゃあ、瑞樹くんが旦那さんだといーなー」
「こらこら、俺たちはそういう関係じゃないだろ。ほら、冷める前に食べよう」
「ちぇー」
不満そうに可愛らしく口を尖らせる朱音を置いて、瑞樹は手を合わせて「いただきます」とスプーンでスープをすくい、口に運んだ。
「……うま! なんだこれ、これが手作り!? マジでお店出せるよ、朱音」
「えへへ、ありがとっ。喜んでもらえて良かった。あたしもいただきます……んっ! うまぁ! あたしすごっ!」
自画自賛しながら目を輝かせる朱音。
二人きりの静かなダイニングに、スパイスの香りと和やかな笑い声が満ちていった。
「ねえ、瑞樹くん。ちょっと相談なんだけど……」
ひとしきり絶品のカレーを満喫し、食後のラッシーをストローでゆっくりと飲んでいた時。朱音が、少しだけ声のトーンを落として重くなった口を開いた。
「相談? どうした?」
「うん……あの……彼氏のことなんだけどね」
「彼氏? なんかあったのか? 喧嘩でもした?」
瑞樹はグラスを置く手を止め、テーブルの向こうで少し俯き掛けた朱音の顔を真剣に覗き込んだ。
「ううん。多分、みんなが心配してるような悪いことは、何も起きてないよ。……ただ、その……。明日、家に来ないかって、また誘われたんだ」
あの一件から約一カ月。
朱音が外でのデートを重ねて知った彼氏の情報によれば、彼は見た目のチャラチャラした雰囲気に反して、非常に真面目で誠実で、優しい人だという。
朱音が嫌がるような無理強いは決してしないし、精神的に脆い彼女の顔色をちゃんと窺って、言葉も慎重に選んでくれるらしい。真摯に朱音と向き合い、思いやりを持って大切に付き合っているのだと、瑞樹も日々の報告を聞いて感じていた。
それに、男の部屋に行ったからと言って、必ずしもすぐにそういう行為が起こるとは限らない。もしそういう雰囲気になったとしても、今の朱音と彼氏の関係性なら、朱音が「嫌だ」と拒絶すれば無理矢理に及ぶような輩ではないだろう。
朱音は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「実は、あれからも何度か『うちに来ない?』って誘われててさ。その度に、瑞樹くんとの約束があるからって断って来たんだけど……彼、断るたびに毎回すごく寂しそうな顔してて……。さすがに毎回断るのも申し訳ないというか、可哀想だなって思って来て……」
朱音は、優しすぎるのだ。
幼い頃から、両親によって考え方も存在そのものも否定され続けてきた彼女は、人が傷つく痛みや、拒絶される恐怖のすべてを経験してきたようなものだ。
だからこそ、今は人一倍、他人の抱えるマイナスの感情がわかってしまう。わかりすぎてしまうのだ。
きっと、彼が断られた時のほんの一瞬の表情の変化から、普通の人が感じる以上の「寂しさ」や「落胆」を過敏に受け取ってしまったのだろう。
瑞樹の意見を値踏みするかのように、ジッとこちらの目を見つめてくる朱音の視線を受け止めて、瑞樹は優しく、安心させるように笑いかけた。
「……いいんじゃないか」
「ほ、ほんと?」
「うん。すごく優しい人なんだろ、彼氏」
「うん、優しい! 絶対に、変なこともしないと思う! 一カ月も一緒にいろんなところに行ったから、あたしが保証する!」
瑞樹から許可――いや、背中を押す肯定の言葉をもらい、朱音はパッと花が咲いたように明るい笑顔を浮かべた。
「だったら、行ってきなよ。楽しんでこい、おうちデート」
「うんっ! ありがとう、瑞樹くん!」
朱音は弾かれたように椅子から立ち上がると、テーブルを回り込んで瑞樹の首元にギュッと抱きつき、全身で喜びを表現した。
瑞樹は「おいおい、ラッシーこぼれるって」とやれやれといった具合に苦笑いしながらも、保護者としての温かい目で口元を綻ばせた。
――すべてが、順調に進んでいるように思えた。
彼女は自分の足で外の世界へ踏み出し、信頼できる他者を見つけ、この歪な箱庭から少しずつ自立しようとしている。
瑞樹は、自分の判断が間違っていなかったと、心の底から安堵していた。
***
それから、二日後。
連休最終日となる、日曜日。
玄関のドアが、重々しい音を立てて開いた。
帰ってきた城ヶ崎朱音の姿を見て、リビングにいた瑞樹の思考は、真っ白にフリーズした。
美しかった金色の髪はボサボサに乱れ、お気に入りだったはずの私服のブラウスは泥や汚れで汚れ、ボタンがいくつか引き千切られている。
殴られたのか、綺麗な顔の半分は赤黒く腫れ上がり、虚ろな両目からはとめどなく涙が溢れ続けていた。
そして何より――破れたスカートの裾から覗く、彼女の白い太ももの内側には、生々しく乾いた一筋の血の跡が、どす黒くこびりついていた。
「あ、か、ね……?」
世界の一切に絶望し、魂を抜かれたような虚無の表情をした朱音が、糸の切れた操り人形のように、その場にぐらりと崩れ落ちた。




