第85話:天空の遺跡
大陸全土に散らばるドラグニアの民を救出する――その壮大な国家目標を掲げた翌朝、公王執務室にはいつになく張り詰めた空気が満ちていた。
壁に広げられた巨大な大陸地図を前に、俺、カイル、アリシア、ティアーナ、そしてオリヴィアとイリスが集まっている。
「……以上が、俺が考えた次の作戦段階だ」
俺は地図上のいくつかのポイントを指し示しながら、仲間たちに説明を終えた。
セレスティーナ総長が派遣した斥候部隊が、現地で詳細な潜伏民の情報を集める。それは従来通りの計画だ。しかし、広大な大陸では、彼らが掴んだ情報を元に俺がその都度エルム公国から転移していては、あまりにも効率が悪い。
「斥候部隊が本格的な活動を開始する前に、俺とフィーナが先行して大陸の主要な地域――アルトリア王国近辺とレヴァーリア連合王国近辺――に飛ぶ。そして、そこに俺の転移魔法で移動可能な『基点』をいくつか確保しようと思う。そうすれば、斥候隊からの報告を受け次第、俺はいち早くその基点を使って、救出対象の近くへ転移・移動できる。時間も大幅に削減できるはずだ」
俺の提案に、仲間たちの間に緊張が走った。
「レン、それは……お前とフィーナちゃんだけで行くってことか!? 危険すぎないか!?」
カイルが真っ先に声を上げた。その顔には心配の色が隠せない。
「そうだよ、レン! 大陸には帝国兵がどれだけいるか分からないのに、二人だけなんて……!」
アリシアも、不安そうに俺の服の袖を掴んだ。
オリヴィアもまた、為政者としての冷静な視点で口を開く。
「戦略的な有効性は理解できます。ですが、レン公王、あなたとフィーナ殿は、この公国にとって替えの効かない存在。そのお二人が揃って危険に身を晒すのは、あまりにもリスクが高い判断です」
仲間たちの懸念はもっともだった。だが、俺の決意は固い。
「皆の心配は分かる。だが、この作戦は速度が命だ。フィーナの飛行能力と俺の転移能力を組み合わせた、この二人だからこそ可能な最速の手段なんだ。それに、大勢で動けばそれだけ帝国の目に留まる可能性も高くなる。隠密に行動するには、これが最善だと判断した」
俺は皆の顔を一人ひとり見回し、力強く言った。
「大丈夫だ。危険な橋を渡るつもりはない。基点を確保したら、すぐに帰還する。俺を、そしてフィーナを信じてほしい」
俺の揺るぎない瞳を見て、仲間たちはそれ以上何も言わなかった。
ただ、カイルは「……無茶だけはすんじゃねえぞ」と釘を刺し、アリシアは「……絶対、絶対に無事に帰ってきてね」と涙ぐみながら頷いた。
ティアーナとイリスもまた、それぞれのやり方で俺たちの無事を祈ってくれているのが分かった。
こうして、エルム公国の未来を懸けた、危険な先行偵察任務が始まった。
◇◇◇
フィーナの背に乗り、俺たちは広大な大陸の空へと舞い上がった。
眼下に広がるのは、始原の森とは全く違う、乾いた大地と、人間の営みの痕跡が刻まれた風景。時折見える街道や小さな村々は、どこか活気がなく、帝国の圧政の影が落ちているのを感じさせた。
「すごいね、レン! こうして飛ぶたびに思うけど、世界って本当に広いんだね!」
風を切りながら、フィーナの無邪気な声が響く。彼女の純粋な好奇心が、俺の心の緊張を少しだけ和らげてくれた。
「ああ、広いな。そして、この広い世界のどこかで、助けを待っている人たちがいるんだ」
数時間、適宜休憩を挟み、地図とマッピングで現在地を確認、転移可能な座標を更新しながら飛行を続けていた時だった。
「……レン?」
フィーナの声に、どこか不思議な響きが混じった。
「どうした、フィーナ? 疲れたか?」
「ううん、そうじゃないの。なんだか……あっちの方から、声が聞こえる気がするの」
彼女が視線を向けたのは、俺たちの進行方向から大きく外れた、雲海に覆われた山脈地帯だった。
「声? 魔物の気配か?」
俺は魔力感知を展開するが、特に異常は感じられない。
「ううん、違う……。もっと、こう……キラキラしてて、でも、なんだかちょっぴり悲しい、歌みたいな……」
フィーナの竜としての本能が、俺には感知できない何かを捉えている。予定ルートから外れるのは危険だ。だが、彼女の青い瞳は、その「声」に強く惹きつけられているようだった。
(この感覚……山賊の砦で、竜の姿のフィーナを見つけた時の、あの眠っている太陽のような魔力の気配に少し似ている……)
俺は一瞬迷ったが、決断した。
「……分かった。フィーナ、その声がする方へ行ってみよう。だが、少しでも危険を感じたら、すぐに引き返すぞ」
「うん!」
フィーナの導きに従い、俺たちは雄大な雲の海へと突入した。視界が真っ白になり、冷たく清浄な湿気が肌を刺す。幻想的な静寂の中をしばらく進むと、突如として前方の雲が、内側から発光するかのように明るくなった。そして、雲がゆっくりと晴れていった先に、俺たちは言葉を失った。
天空に浮かぶ、巨大な島。
いや、島ではない。白亜の石で築かれた壮麗な古代の遺跡群が、いくつもの浮遊石と、虹色に輝く光の橋で繋がり、一つの巨大な空中庭園を形成しているのだ。巨大な浮島の縁からは、重力を無視したかのように滝が別の浮島へと流れ落ち、見たこともない発光する植物が色とりどりの花を咲かせている。人の手によるものでありながら、自然と完璧に調和した、神々しささえ感じさせる光景だった。
「……なんだ、ここは……」
マッピングにも映らない、完全に未知の領域。
俺たちは遺跡の最も大きな区画にある、広場のようになっている場所へと静かに着地した。フィーナは人の姿に戻り、興味深そうに周囲を見回している。
「すごい……! キラキラがいっぱい!」
空気は信じられないほど澄み渡り、濃密で清浄なマナが満ちている。だが、同時に、この場所全体が強力な結界のようなものに覆われているのを、俺の肌は感じ取っていた。
「……仲間を呼んで、合流した方がいいかもしれないな」
俺はそう呟き、意識を砦に残してきた仲間たちへと向け、転移魔法を発動させようとした。 その瞬間。 「ぐっ……!?」 俺の魔力が、目に見えない壁に叩きつけられたかのように激しく反発した! 空間が不安定に歪み、バチバチと紫電のような火花が散る。
「レン、大丈夫!?」
フィーナが心配そうに駆け寄ってくる。
「ああ……だが、ダメだ。この遺跡全体が、外部からの空間干渉を完全に拒絶しているのか?転移魔法が使えない……!」
(いや、待てよ。転移がダメでも、フィーナに乗って飛べば……)
そう思い、俺は安堵しかけたが、隣に立つフィーナの様子がおかしいことに気づいた。
「どうした、フィーナ?」
俺が声をかけると、彼女は俺を見上げた後、神殿の奥を真っ直ぐに見つめた。その青い瞳には、強い好奇心と、何かを確かめずにはいられないという強い意志が宿っている。
「私を呼んでた『歌』、この中から聞こえる。行かなきゃ。行かなきゃいけない気がするの」
フィーナの本能が、この遺跡の奥に、彼女自身の、そしておそらくは俺自身の運命に関わる何かがあることを告げていた。逃げるという選択肢は、もう俺たちにはなかった。これは、俺たちが挑むべき試練なのだ。
「……そうか。分かった。」
俺はフィーナの瞳を見つめ返し、力強く頷いた。
「逃げるのはやめだ。行こう、フィーナ。俺たちを呼ぶ声の正体を、確かめに」
◇◇◇
俺は覚悟を決め、隣で不安そうに俺を見上げるフィーナの手を固く握った。防衛結界。それは、仲間との合流手段を断ち切られてしまった。だが、不思議と心は冷静だった。ここでパニックに陥っても状況は好転しない。それに、俺は一人じゃない。
「大丈夫だ、フィーナ」
「うん、レン。私、レンと一緒なら怖くない!」
少し進んだ後、俺たちはこの遺跡の中心と思われる、ひときわ大きな神殿のような建物へと、二人だけで足を踏み入れた。
神殿の内部は、外観以上に荘厳だった。
人の手によるものとは思えないほど巨大な石柱が、ドーム状の高い天井を支え、壁には俺の知らない星座や神話の生き物たちが精緻なレリーフとして刻まれている。
空気はひんやりと澄み渡り、風の音と、どこからか聞こえる水の音だけが、まるで古代の息遣いのように静寂の中に響いていた。
「すごい……。エルムヘイムのお家よりも、もっともっとおっきい……」
フィーナが、感嘆の声を漏らしながら天井を見上げる。その小さな横顔は、神殿の神秘的な雰囲気に照らされて、いつもより少しだけ大人びて見えた。
◇◇◇
俺たちは警戒を怠らず、慎重に奥へと進んでいく。長い回廊を抜けた先、俺たちの目の前に、神殿の最奥と思われる広大な空間が広がった。
そこは、一種の祭壇のような空間だった。
広間の最も奥、一段高くなった壇上に、一体の巨大な彫像が鎮座していた。それは、炎や嵐といった自然現象そのものが形を成したかのような、定まった輪郭を持たないエネルギーの塊として表現されている。その素材は黒曜石のようでありながら、内部にはマグマのような赤い光が脈打っている。荒々しく、根源的で、触れれば魂ごと焼き尽くされそうなほどの圧倒的な力の奔流。その台座には、古いが故の威厳を放つ【龍】の一文字が、深く刻まれていた。
そして、その壇の下、まるで傅くかのように、もう一体の彫像が控えていた。それは【龍】の彫像とは対照的だった。
人々が「ドラゴン」と聞いて思い浮かべるような、気高さと生命力に満ち溢れた美しい生物としての姿。白亜の石を削り出して作られたその彫像は、しなやかな四肢、雄大な翼を持ち、一つの完成された生命としての力強さと優美さを湛えている。こちらの台座には、どこか流麗で優美な書体で【竜】の一文字が刻まれていた。
「……レン、見て。文字が違うよ」
フィーナが、不思議そうに二つの台座を指さす。
「ああ、本当だな。……こっちが【龍】で、こっちが【竜】……。何か意味があるはずだ」
俺は、二つの文字が意図的に使い分けられていることに気づいた。これは単なる装飾の違いではない。この二つの存在には、何か決定的な違いがあるはずだ。
その答えを探すように、俺は彫像の足元に置かれていた、物語を描いた石板へと視線を移した。そこに描かれていたのは、文字ではない。象形文字のように、しかしそれ以上に写実的で、力強いタッチで描かれた絵物語だった。
俺は、その絵が語りかける意味を、読み解こうと意識を集中させた。
石板を順に見ていく。
最初の石板には、【龍】の力を授かった人間が「龍覚者」になった場面か?その荒ぶる力に苦しむ人間と、その力を使って人々を助ける姿が描かれていた。
次の石板では、俺は息を呑んだ。
そこには、【龍】と【竜】の決定的な違いが、明確に描かれていたのだ。
片方の絵には、【龍】が、ある時は天を覆うほどの巨躯となり、またある時は、優美な人間の姿をとっている。男のようでもあり、女のようでもあった。定まった形を持たない力そのものだからこそ、人の形にすらなれるのだと、絵は語っていた。
だが、その隣に描かれていたのは、ワイバーンのような下位種から、この彫像のような気高き種まで、様々な【竜】が描かれているが、どれも人の姿にはなっていない。
「人の姿になれるのが【龍】で、なれないのが【竜】……。じゃあ、フィーナ、お前は……」
俺は、隣に立つ少女の顔を、改めて見つめた。山賊の砦で初めて人の姿になったフィーナ。彼女は、【龍】の子なのか?
俺がその真理にたどり着いたその時、奥の彫像が静かに動き、ゴゴゴ……という重い音を立てて広間の最奥へと続く隠された通路が現れた。
「レン、道が……!」
「ああ。行ってみよう。この先に、本当の答えがあるはずだ」
◇◇◇
通路の先は、ドーム状の天井を持つ、さらに広大な円形の空間へと繋がっていた。そして、その壁一面に、先ほどの石板の物語の続きが、より巨大で、より詳細な壁画として、色鮮やかに刻まれていた。
壁画には、力を暴走させる龍覚者の前に、人の姿をした【龍】が舞い降りる様子が描かれていた。その【龍】は、どこかフィーナに面影が似た、白銀の髪を持つ少女の姿をしていた。
次の連続した壁画の絵は、俺の心を鷲掴みにした。そこには、人の姿をした【龍】が、苦しむ龍覚者にそっと手を差し伸べる姿が描かれていた。
最後の壁画は、二つの手が触れ合った瞬間、絵の中の情景は劇的に変化していた。それまで龍覚者から放たれていた、まるで制御不能な炎のように描かれていた荒々しい魔力の線が、【龍】から流れる穏やかなマナの奔流に触れた途端、その猛々しさを失っている。二つの異なる色の流れ――赤と青――は、互いを打ち消し合うことなく、美しい螺旋を描きながら混ざり合い、一つの穏やかで力強い光の渦へと昇華されていた。その光の渦の周りでは、枯れた大地に花が咲き、ひび割れた岩が修復されていく様子まで描かれている。
絵は、その光景を雄弁に語っていた。
「……フィーナ」
俺は、隣で同じように壁画を見上げていた少女の顔を、もう一度見つめた。
「お前は、ドラゴンじゃない。人の姿になれる……【龍】だったんだな」
俺が真理を告げたその時、フィーナの青い瞳が驚きと、そして何かを思い出すかのように、大きく見開かれた。彼女自身も気づいていなかった、自らの血脈の秘密。俺たちの間に流れる空気が、決定的に変わった瞬間だった。




