第86話:番竜の試練
俺たちが壁画の意味を理解したその時、奥の彫像が静かに動き、ゴゴゴ……という重い音を立てて広間の最奥へと続く隠された通路が現れた。
「レン、道が……!」
「ああ。行ってみよう」
俺はフィーナの手を固く握り、新たに開かれた暗い通路へと足を踏み入れた。
この遺跡が俺たちをどこへ導こうとしているのか、まだ分からない。だが、フィーナが【龍】であるという衝撃的な事実を知った今、引き返すという選択肢はなかった。
通路の先は、ドーム状の天井を持つ、さらに広大な円形の空間へと繋がっていた。そして、その壁一面に、先ほどの石板の物語の続きが、より巨大で、より詳細な壁画として、色鮮やかに刻まれていた。
「すごい……! こっちの壁画は……!」
しかし、彼女は壁画から視線を外し、広間のさらに奥、何もないはずの壁をじっと見つめている。
「フィーナ? どうかしたのか?」
俺が声をかけると、彼女は不安そうな瞳で俺を見上げた。
「……レン。あのね、まだ聞こえるの」
「聞こえるって……まさか、あの『歌』か?」
フィーナはこくりと頷いた。そもそも、俺たちがこの天空の遺跡にたどり着いたのは、フィーナが聞いた声に導かれたからだったな。
「うん。この壁の、もっと奥から……フィーナを呼んでる……」
俺はフィーナが指し示す壁へと近づき、マッピングの精度を最大まで上げて内部構造を探ってみた。しかし、物理的な通路は見当たらない。だが、魔力感知の精度を上げると、確かにその壁の向こうに、巨大な空洞と、これまで感じたことのない清浄で強力なマナの流れが存在することを捉えられた。
「……何かある」
この遺跡に来た当初の目的、そしてフィーナを導いた声の正体を突き止めるため、俺たちはこの壁の先に進む方法を探し始めた。
◇◇◇
壁を二人で調査しても、進み方がわからなかったため、一旦外に出るとすでに夜になっていた。天空に浮かぶ古代遺跡は、夜の帳が下りると、昼間とは全く違う表情を見せた。
眼下に広がる雲海は月光を浴びて銀色に輝き、地上から切り離されたこの場所は、まるで星々の海に浮かぶ孤島のようだ。遺跡の石柱が落とす影は濃く、風が吹き抜ける音が、まるで古代の息遣いのように静寂の中に響いていた。
俺は、遺跡の一角、風を避けられる壁際に小さな焚き火を起こし、その揺らめく炎をぼんやりと見つめていた。昼間の緊張から解放された体は重く、しかし頭だけは妙に冴えている。隣では、フィーナが小さなあくびをしながらも、俺のそばを離れようとはしなかった。
「レン、まだ眠らないの?」
こてん、と首を傾げながら、フィーナが俺の顔を覗き込む。その純粋な青い瞳に、焚き火の光がキラキラと映っていた。
「ああ、もう少しだけ」
様々な想いが頭の中を駆け巡り、眠れずにいる。
公王という立場、日に日に増していく責任の重圧。そして、エルムヘイムで俺の帰りを待つ仲間たちの顔。考えなければならないことは山積みだった。
この旅は、俺とフィーナの二人きりだ。カイルの気兼ねない悪態も、アリシアの優しい気遣いも、ティアーナの知的な助言もない。それが、これほどまでに心細いものだとは、エルムヘイムにいる時には考えもしなかった。
「……なあ、フィーナ」
ぽつりと、自分でも意図しないうちに言葉が漏れた。
「王様でいるっていうのは、時々、すごく孤独に感じるんだ。皆の前では常に強く、正しくあろうとするのは、思ったより疲れるもんだな」
公王としてのほんの僅かな弱音。それを、フィーナはただ黙って聞いてくれる。その存在が、今は何よりもありがたかった。
フィーナは、俺の言葉の意味を完全には理解していないだろう。それでも、俺が何か重いものを背負っていることは感じ取ってくれたようだ。彼女は黙って俺の隣にちょこんと座り直すと、その小さな手を、俺の大きな手にそっと重ねてきた。
「レンは、いつも一人で頑張りすぎなの」
その声は、子供らしいあどけなさの中に、不思議な温かさを持っていた。
「でもね、フィーナはレンが王様じゃなくても、ただのレンでも、ずっと一緒にいるよ。レンが助けてくれた時から、フィーナは、ずっとレンのそばにいるって決めたんだから」
彼女もまた、自分の正体が【龍】であるという、あまりにも巨大な真実を突きつけられ、戸惑いの中にいたはずだ。
記憶は曖昧で、自分が何者なのかも分からない。時折、言いようのない孤独と不安に襲われていることを、俺は知っていた。夜中に、小さく丸まって震えていることがあったからだ。
「……ありがとう、フィーナ。フィーナがいると、心強いよ」
俺は、フィーナの小さな頭を、優しく撫でた。
焚き火の炎がパチパチと爆ぜる音だけが、静かな夜に響いていた。
◇◇◇
翌日、俺たちは、遺跡の探索を再開した。
改めて巨大な円形の広間に戻ってきた。
その壁一面に、石板の物語が、より巨大で、より詳細な壁画として、色鮮やかに刻まれている。
「この壁画をよく見てみるか……!」
そこに描かれていたのは、龍覚者と思われる人と、人の姿をした龍が、力を合わせる絵物語だった。
一枚目の壁画には……これは魔力か……二人の魔力を同調させるための瞑想の手順。
二枚目には、繋がれた手を通じて、互いの魔力の流れを同期させていくための具体的なイメージ。
そして最後の壁画には、荒々しい龍覚者の魔力(赤)と、【龍】の清らかなマナ(青)が、互いを尊重し合うことで一つの完全な光の渦(紫)へと昇華されていく様が描かれていた。
「フィーナ、わかるか?」
「うーん、たぶんだけど、この人がレンで、こっちが私かな?」
フィーナも壁画から、俺と同じことを読み取ったようだ。
「フィーナ、やってみよう。俺たちなら、できるかもしれない」
俺の提案に、フィーナもまた、期待に満ちた瞳で力強く頷いた。
「うん! レンと一緒なら、なんだってできる気がする!」
俺たちは壁画の前で向かい合い、描かれていた通りに、そっと互いの手を繋いだ。ひんやりとした、でも確かな温もりを持つフィーナの小さな手が、俺の心を落ち着かせてくれる。
「いいか、フィーナ。まずは呼吸を合わせるんだ。俺が吸って……吐いて……」
「うん、吸って……吐いて……」
繰り返すうちに、不思議と二人の呼吸のリズムがぴったりと合わさっていくのを感じた。
「次は、魔力だ。フィーナ、俺の魔力を感じるか?」
「うん、感じる! レンのはなんだか、すごく速いね! フィーナのはね、ゆっくりだよ!」
彼女の言う通りだった。俺の魔力は荒々しい奔流なのかもしれない。対して、彼女の魔力を感じると、清らかな泉。正反対の性質。これを、一つに……?
「フィーナ。少しずつ、合わせることはできるか?」
「うん!」
俺は自分の魔力を抑えるとともに、フィーナにその流れを感じてもらうことに集中した。フィーナもまた、真剣な表情で、俺の魔力の奔流に、自らの清らかなマナをそっと寄り添わせる。
激流のそばを流れる小川のようだった二つの流れ。だが、フィーナの導きによって、その境界が少しずつ曖昧になっていく。俺の荒々しい魔力が、彼女の清らかなマナに触れることで、その角が取れ、より穏やかな流れへと変わっていく。そして……。
一瞬だけ、二人の魔力が完全に共鳴した。
その瞬間、俺たちの体を眩い紫電の光が包み込み、まるで一つの存在になったかのような不思議な感覚が二人を駆け巡った。
「まずい、制御しきれない……!」
そのあまりの力に本能的な危険を感じた俺は、咄嗟にフィーナとの繋がりを解いた。
その瞬間、行き場を失った強大な紫電の魔力が、遺跡全体に張り巡らされた魔力回路を駆け巡る!
「レン! 遺跡が……!」
「フィーナ、危ない!」
壁画が、床の魔法陣が、天井の水晶までもが一斉に眩い光を放ち始めた。
だが、それは暴走の光ではなかった。俺たちが今いる円形の広間の壁画が、まるで命を宿したかのように、その表面で壁画の絵画が動き始めたのだ。
俺たちは息を呑んでその光景を見つめる。
壁画に描かれた古代の龍覚者と人の姿をした【龍】たちが、石の表面を滑るように動き、壮大な物語を、無言で語り始めた。
そこに映し出されたのは、ティアーナに聞いた神話の時代に繰り広げられたという『精龍戦役』の光景だと思われる。空飛ぶ城塞を操り、見たこともない光の兵器を振るう『星の民』と思われる敵と、龍覚者と【龍】たちが激しく戦う姿。
そして、壁画の物語はクライマックスを迎え、古代の龍覚者が『星の民』の王を封印する場面で、その動きを止めた。光が収まり、壁画は再びただの石の絵へと戻る。
「……これは……」
俺たちが呆然とその場に立ち尽くしていると、壁画から受け取った啓示への答えを求めるかのように、広間の中央に刻まれた魔法陣が、静かに、しかし力強く輝き始めた。
『――資格を問う』
どこからともなく、荘厳な声が響き渡る。魔法陣の光の中から、ゆっくりと姿を現したのは、10メートルを超える黒色の大きなドラゴンだった。
俺は剣を抜き放ち、フィーナを背中に庇いながら、静かに、しかし絶対的な存在感を放つ存在と対峙した。




