第70話:帝国の圧政と希望の足跡
クラウスさんが用意してくれた、交易都市シルダの喧騒から隔絶された隠れ家。
その分厚い石壁に守られた一室で、俺たちは大陸の地図を囲んでいた。ランプの灯りが、これから進むべき広大な南部の領域と、仲間たちの真剣な横顔を照らし出している。
「――『銀髪の戦乙女』。間違いない、セレスティーナのことです」
オリヴィアが、確信に満ちた声で言った。彼女の紫色の瞳には、離れ離れになっていた最も信頼する騎士への、強い想いが揺らめいている。
「彼女は、我がドラグニア王国騎士団の総長。その剣技は王国随一と謳われ、銀色の髪を戦場に靡かせる姿は、兵士たちの士気を何よりも奮い立たせました。民衆が彼女をそう呼ぶのも、当然のことです」
隣に立つイリスもまた、厳しい表情の中に深い敬意を滲ませて頷いた。
「セレスティーナ様は、ただ強いだけではありません。誰よりも民を想い、正義を重んじる方。帝国に国を奪われた今、彼女が潜伏してただ生き永らえるなど、ありえないことです。クラウス殿の情報にあった、数千人規模の兵と民を率いて南部に潜伏しているという抵抗組織は、間違いなくセレスティーナ様が率いているものでしょう」
その言葉が、俺たちの次なる目的地を決定づけた。
「よし、決まりだな。俺たちの次の目標は、大陸南部。セレスティーナと接触し、彼女たちをエルム公国へ迎え入れる」
俺がそう宣言すると、カイルが拳を鳴らした。
「おう! やっと本格的なおっぱじめってわけだな! で、どうやって行くんだ? またフィーナに乗って、ひとっ飛びか?」
「いや、それは危険すぎる」
俺は首を振り、地図上の広大な南部の領域を指でなぞった。
「クラウスさんの話では、帝国は今、セレスティーナさんを捕らえるために南部に兵力を集中させている。上空の警戒網も厳しくなっているはずだ。フィーナで飛べば、俺たちの行動が表に出てしまう恐れがある。」
「レンの言う通りですわ」
ティアーナが冷静に付け加える。
「敵の本拠地が近い以上、空からの移動は我々の存在を帝国に知らせることに繋がりかねません。ここは、慎重に進むべきです」
「じゃあ、どうするんだよ?」
カイルの問いに、俺は皆の顔を見回し、覚悟を込めて告げた。
「南部までは、フィーナで飛ぶ。だが、そこから先は……徒歩だ。商人になりすまし、街道を歩いて進む。セレスティーナの足跡を辿りながら、この大陸の現状を、俺たち自身の目で確かめるんだ」
これまでの魔物との戦いとは全く異なる、人間社会に潜伏しながらの危険な情報収集の旅。その提案に、部屋には緊張した空気が流れた。
「……よし! やってやろうじゃねえか!」
その沈黙を破ったのは、やはりカイルだった。
「帝国の連中が、どれだけ偉そうにしてるのか、この目で見てやろうぜ!」
オリヴィアもまた、地図の上に広がる故国の版図を、悲しみを堪えるように見つめながら、静かに、しかし誰よりも強い決意を込めて言った。
「ええ、行くべきです。……いえ、行かなければなりません」
彼女は顔を上げ、俺たちの顔を一人ひとり見回す。
「机上の情報だけでは分かりません。この目で直接、帝国がどれほど民を苦しめ、我が国を蝕んでいるのかを確かめなければ、我々がこれから何を成すべきか、その真の道筋は見えてこないでしょう。辛い旅になることは覚悟の上です。ですが、それもまた、国を取り戻そうとする者の務めですから」
王女としての、そしてこの国の未来を担う者としての一言。その重みが、俺たち全員の覚悟を確かなものにした。
仲間たちの覚悟は、決まった。
クラウスさんの全面的な協力の下、俺たちは「エルム商会」という偽の武装商隊を組織した。頑丈な荷馬車と、交易品に見せかけたエルム公国の特産品(薬草や魔物の素材など)。そして、俺が若き当主、オリヴィアがその妹、アリシアとティアーナが侍女兼薬師、カイルとイリスが屈強な用心棒。偽装はうまくできている。
その後、俺たちはフィーナの翼で大陸南部の辺境地帯まで一気に飛んだ。そこから先は、俺たちの足だけが頼りだ。帝国の街道を南下する、長く、そして過酷な旅が、今、始まった。
◇◇◇
街道を歩き始めて数日。俺たちは、帝国の支配が如何に過酷なものであるかを、身をもって知ることになった。
最初の関所を訪れた時のことだ。巨大な木の柵で道を塞ぎ、十数人の帝国兵が鋭いハルバードを構えて旅人たちを検問している。その態度は、横暴そのものだった。
「止まれ! 荷を改める! 怪しいものは全て没収だ!」
隊長らしき男が、腹の底から響くような声で怒鳴る。俺たちの前に並んでいた、痩せた行商人風の男が、必死に何かを訴えている。
「お、お待ちください! これは病気の妻のために、なけなしの金で買った薬でして……!」
「うるさい! 帝国法では、許可なき薬品の持ち運びは禁じられている! これは没収だ!」
「そ、そんな……! お慈悲を……!」
「黙れ、汚い手を離せ!」
兵士は行商人を突き飛ばし、薬の入った小袋を乱暴に奪い取ると、自分の懐へと入れた。周囲の旅人たちは、恐怖に顔を青ざめさせ、見て見ぬふりをしている。
「……っ!」
隣に立つカイルの拳が、ぎしりと握りしめられる。今にも飛び出していきそうな彼の肩を、俺は無言で押さえた。ここで騒ぎを起こせば、俺たちの計画が全て台無しになる。
「……カイル殿、今は耐えるのです」
イリスもまた、氷のような表情でカイルを諌めるが、その瞳の奥には静かな怒りの炎が燃えているのが分かった。
やがて、俺たちの番が来た。
「ん? なかなか上等な馬車じゃねえか。どこのどいつだ?」
隊長が、値踏みするような目で俺たちを見る。
俺は、クラウスさんから渡された通行証を差し出した。
「レンブラント商会の御用達、『エルム商会』と申します。南の都市へ、薬草を納品に」
「レンブラント……? あのクラウスの……?」
隊長の顔色が変わる。クラウスさんの名は、帝国兵にとっても無視できないもののようだ。彼は通行証を胡散臭そうに眺めたが、やがて忌々しげに吐き捨てた。
「……チッ。行け。だが、せいぜい道中の山賊にでも身ぐるみ剥がされねえよう、気をつけるんだな」
俺たちは無言で関所を通過した。背後で、再び兵士たちの怒声と、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
「……これが……今のドラグニア……」
馬車の中で、オリヴィアが、か細い声で呟いた。その顔からは血の気が失せ、唇を強く噛み締めている。
「……申し訳ありません、オリヴィア様。私が不甲斐ないばかりに……」
「あなたのせいではありません、イリス。……いいえ、これはもはや、わたくしの知るドラグニアではない。帝国の……欲望に食い荒らされた、抜け殻です」
その夜、俺たちが立ち寄った小さな村の光景は、さらに俺たちの心を抉った。
畑は荒れ、家々は活気を失い、道行く人々の目は虚ろだった。酒場に入っても、聞こえてくるのは陽気な歌声ではなく、重税や徴兵に対する、押し殺したような嘆き節ばかり。
「ようこそ、旅の方。こんな寂れた村へ……」
宿屋の主人が、疲弊しきった顔で俺たちを迎えた。
「何か、あったのですか?」
俺が尋ねると、主人は諦めたように首を振った。
「あったもなにも……いつものことですよ。昨日も、帝国の税金取りが来て、冬のために蓄えていた食料の半分を持っていきやがった。逆らえば、反逆者として連れていかれる。我々にできることなど、何も……」
俺は、宿の食事として出された、水っぽいスープと硬い黒パンを黙って口に運んだ。味など、ほとんどしなかった。
アリシアは、自分のスープをほとんど手つかずのまま、物乞いに来た痩せた子供にそっと分け与えていた。その瞳には、深い悲しみと、何もできない自分への無力感が浮かんでいる。
俺は、そんなアリシアの姿を黙って見つめていた。彼女の優しさは美徳だ。だが、これから続く長い旅を考えれば、彼女自身が倒れてしまっては元も子もない。
仲間たちも、この粗末な食事だけでは、気力も体力も削られていくだろう。かといって、この誰もが飢えている村で、俺たちだけが豊かな食料を持っていると知られるのは危険すぎる。
俺は、宿屋の主人の注意が別の客に向いた一瞬の隙に、アリシアの膝の上に、そっと燻製肉の包みを置いた。
彼女が驚いて顔を上げると、俺は人差し指を口元に当てて黙っているよう合図し、続けてカイルやティアーナたちの足元にも、見えないように包みを滑り込ませる。物乞いの子供には、一番小さな木の実を一つ、そっと握らせてやった。子供は目を丸くして、何度も頭を下げて駆け去っていった。
仲間たちは、俺の意図を即座に理解し、テーブルの下で静かに包みを開いた。燻製肉を一口噛み締めると、エルム公国の豊かな森の香りと、確かな旨味が口の中に広がった。この村の絶望的な食事の後では、その味は暴力的なまでに豊潤に感じられた。仲間たちの顔にも、わずかに生気が戻る。
「……ああ、やっぱこれだよな」
カイルが、誰にも聞こえないような低い声で、しみじみと呟いた。
「村で食ってるのと同じはずなのに、なんでこんなに美味く感じるんだか……」
俺たちは、この豊かさを取り戻すために戦うのだ。その決意を胸に刻みながら、俺は改めてこの旅の厳しさを噛み締めた。
この旅は、俺たちに大陸の現実を、容赦なく突きつけていた。
◇◇◇
そんな絶望的な旅の中で、俺たちは、一条の光を見出すことになる。
最初にその噂を聞いたのは、街道沿いの小さな宿場町でのことだった。帝国の圧政について愚痴をこぼしていた男が、声を潜めてこう言ったのだ。
「だがな、最近、少しだけ風向きが変わってきたんだぜ。『銀の風』の話、知ってるかい?」
「銀の風?」
「ああ。どこからともなく現れて、悪さをする帝国兵や役人を懲らしめ、姿を消すっていう、謎の一団さ。リーダーは、銀色の髪を靡かせた、そりゃあ美しい女騎士だっていうぜ。俺たちの代わりに、帝国に一泡吹かせてくれる……まさに、希望の風だよ」
その話を聞いた時、オリヴィアとイリスの目が、ハッと輝いたのを俺は見逃さなかった。
それからというもの、俺たちはその「銀の風」の噂を追って、南へ、南へと進んでいった。
彼女は常に、俺たちの数歩先を行っていた。
「数週間前、この村の娘を無理やり連れて行こうとした帝国兵の一隊を、銀髪の女騎士がたった一人で叩きのめしてくれたんだ。あの剣技、まるで舞のようだった……」
「食料を不当に徴収された隣村に、夜中、どこからか大量の麦袋が届けられたそうだ。誰も姿は見ていないが、きっと『銀の風』の仕業に違いねえ」
「この先の峠で、抵抗組織の仲間が帝国軍に捕まりそうになった時、銀色の閃光と共に現れた騎士たちが、見事に彼らを救い出したらしい」
行く先々で、俺たちは彼女が残した希望の足跡に触れた。それは、帝国の圧政に覆われた暗闇の中で、確かに輝く小さな灯火だった。彼女は、ただ戦うだけではない。民を救い、励まし、未来への希望を繋いでいるのだ。
「……さすがです、セレスティーナ様」
イリスが、誇らしげに呟く。
「ええ。彼女こそ、ドラグニアの騎士の鑑。民の剣ですわ」
オリヴィアの瞳にも、再び力が戻っていた。
◇◇◇
そして、数週間に及ぶ追跡の末、俺たちはついに、交易都市シルダよりも大きな南部の中心都市「リオン」で、決定的な情報を掴んだ。
接触した、裏社会の情報屋がこう告げたのだ。
「『銀の風』なら……間違いねえ。奴ら、とんでもねえことを企んでやがる。近々、帝国の重要な補給部隊が通過する『古鷲の砦跡』で、大規模な奇襲作戦を計画してるって話だ。命知らずにもほどがある……」
「古鷲の砦跡……!?」
オリヴィアが地図を広げる。それは、かつてドラグニアの国境を守っていた、険しい山中にある天然の要害。
「いつだ!?」
「……おそらく、三日後の満月の夜。だが、やめとけ。帝国も馬鹿じゃねえ。今、砦の周辺には、見たこともねえ数の兵士が集結し始めてる。あれは、罠だ……!」
情報屋の忠告が、俺たちの背中を押した。
「……決まりだな」
俺は立ち上がり、仲間たちの顔を見回した。
「行くぞ。俺たちの、仲間を迎えに」
俺たちの、長く、そして過酷だった追跡の旅は、終わりを告げようとしていた。だがそれは、本当の戦いの始まりを意味していた。
俺たちは、セレスティーナとの接触と合流を果たすべく、「古鷲の砦跡」へと、急ぎ馬車を走らせた。




