第69話:食卓と商人の家族
交易都市シルダの喧騒は、陽が落ちてもなお衰えることを知らなかった。
家々の窓から漏れる橙色の光、酒場から響く陽気な歌声、そして石畳の道を行き交う人々のざわめき。エルム公国の静かな夜とは全く違う、人間の欲望と活気が渦巻くこの熱気は、俺にとってまだ慣れないものだった。
クラウスさんとの密会を終え、彼が用意してくれた宿舎で仲間たちと今後の打ち合わせを済ませた後、俺たちは再びレンブラント商会の壮麗な建物――その最上階にある彼の私室へと、今度は全員で招かれていた。
「レン殿、そして皆様。どうかこちらへ。家内と娘が、ぜひとも恩人である皆様に一言お礼を申し上げたいと、聞かないものでしてな」
昼間のやり手の商人の顔とは違う、どこか照れくさそうな、一人の父親としての顔でクラウスさんは俺たちを招き入れた。
通されたのは、商談に使うような豪華な応接室ではなく、暖炉の火が温かく燃え、上質だが華美すぎない家具が置かれた、明らかにプライベートな空間だった。リビング、と呼ぶのがしっくりくるだろうか。そこには、俺たちが守り、築き上げようとしている「日常」の温かさが満ち溢れていた。
部屋の奥のテーブルには、すでに湯気の立つ料理が並べられており、二人の女性が緊張した面持ちで立ち上がって俺たちを迎えた。
「あなた、こちらの方々が……」
そう言って深々と淑やかな礼をしたのは、クラウスさんの妻だろう。歳の頃は俺の前世と同じくらいだろうか。落ち着いた雰囲気の美しい女性で、上質なシルクのドレスを身に纏っているが、その佇まいには苦労を知らない貴婦人とは違う、芯の強さが感じられた。
「はじめまして、皆様。主人のクラウスがお世話になりました。私はマリアンヌと申します。この度は……本当に、本当にありがとうございました」
マリアンヌと名乗った彼女の声は、感謝と安堵で微かに震えていた。彼女がどれほど夫の身を案じていたか、その声色だけで痛いほど伝わってくる。
「顔を上げてください、マリアンヌさん。俺たちは、やるべきことをしただけです」
俺が恐縮してそう言うと、彼女の後ろに隠れるように立っていた少女が、おずおずと一歩前に出た。アリシアやティアーナと同じくらいの、十代後半だろうか。栗色の髪をサイドで結い、大きな紫色の瞳には好奇心と、少しの緊張、そして何よりも強い憧れのような光が宿っている。クラウスさんによく似た、利発そうな顔立ちの美少女だった。
「……あ、あの! はじめまして! リリアナと申します! 父を……父を助けてくださって、本当に、ありがとうございました!」
リリアナは、まだ少女らしい高い声で、しかしはっきりとした口調で礼を言うと、スカートの裾をつまんで、これまた深々と頭を下げた。
「さあさあ、皆様! 固い挨拶は抜きにして、まずは食事にしましょう! 腕によりをかけて準備させたのです。さあ、奥の席へ」
クラウスさんに促され、俺たちは少し戸惑いながらもテーブルに着いた。
目の前に並べられたのは、エルム公国の食卓とはまた違う豪華な料理だった。香ばしく焼き上げられた鳥の丸焼き、色とりどりの温野菜、魚介の旨味が凝縮されたスープ、そして見たこともない種類の果物。その一つ一つが、この大陸の豊かさを物語っている。
「皆様、どうぞ、お口に合いますかどうか……」
マリアンヌさんが、緊張した面持ちでスープをよそってくれる。
「ありがとうございます。……美味いです。すごく」
一口すすると、複雑で豊かな風味が口の中に広がった。エルム塩のクリアな塩味とは違う、様々な香辛料が織りなす奥深い味わい。これが、この大陸の味なのか。
俺たちの仲間も、初めて見る豪華な料理に目を輝かせている。
「うわぁ……! すごく美味しい! このお魚のスープ、ハーブの香りがとってもいいわ!」
アリシアは、薬草師としての好奇心も刺激されたのか、目をキラキラさせながらスープを味わっている。
「ええ、本当ですね。この香りは……ロスマリンと、それから微かにサフランの気配も。素晴らしい調合ですわ」
ティアーナもまた、冷静な分析を加えながらも、その口元は満足げに綻んでいた。
「ははっ、俺は難しいことは分かんねえが、とにかく美味え! この肉、柔らかくて最高だぜ!」
カイルは、すでに鳥の丸焼きに豪快にかぶりついている。その食べっぷりに、マリアンヌさんとリリアナがくすくすと微笑んでいた。
オリヴィアとイリスも、王家の作法を崩さずに、しかしその目には確かな感嘆の色を浮かべて、静かに食事を進めていた。
俺たちが食事を味わっていると、クラウスさんが感慨深げに口を開いた。
「レン殿、そして皆様。昼間にもお礼は申しましたが、改めて言わせてください。あなた方は、ただ私の命を救ってくださっただけではない。この家族を……私たちの全てを救ってくださったのです」
彼は、妻と娘に温かい視線を送る。
「私は商人です。金や物、そして情報が、この世界を動かす力だと信じて生きてきました。ですが、山賊に捕らえられ、死を覚悟したあの暗い牢の中で……私が最後に思い浮かべたのは、金貨の山でも、商会の未来でもありませんでした。この二人の顔でしたよ」
彼の言葉に、マリアンヌさんとリリアナの瞳が潤むのが分かった。
「この二人の笑顔を守るためなら、私は全てを投げ出せる。そう、心の底から思いました。ですが、私自身の力ではどうすることもできなかった……。そんな絶望の淵に、あなた方という光が現れたのです」
「……大袈裟ですよ、クラウスさん」
「いいえ、大袈裟などではありません!」
マリアンヌさんが、強い口調で言葉を継いだ。
「主人が砦に連れ去られたと聞いた時……私の心臓は凍りつくようでした。近頃、帝国の支配が始まってからというもの、この辺りの治安は日に日に悪化していましたから。街道では山賊が闊歩し、昨日まで笑っていた商人が、次の日には荷物もろとも消えているなど、日常茶飯事でした。商会の者たちも必死に捜索してくれましたが、手がかりは掴めず……ただ、悪い噂ばかりが耳に入ってくるのです」
彼女は、当時の恐怖を思い出すかのように、ぎゅっと目を閉じた。
「毎晩、神に祈りました。どうか、あの人だけは、と……。リリアナも、気丈に振る舞ってはいましたが、部屋で一人、泣いているのを私は知っていました。もう、ダメかもしれない……そう諦めかけた時に、カイル殿が、主人が無事であるという報せを持ってきてくださったのです。あの時の喜びは、一生忘れることはないでしょう」
「レン様方が、たった数人で、あの山賊の砦を制圧し、主人を救い出してくださったと聞きました。……あなた様方は、私たち家族にとって、まさしく天から遣わされた守護神です。この御恩は、どのような言葉をもってしても、返しきれるものではありません」
マリアンヌさんは、涙を拭いもせず、俺たちに向かって再び深く頭を下げた。
「お母様の言う通りです!」
リリアナも、涙声で続けた。
「私……父様がいなくなっちゃうかと思って、本当に怖かったんです! 父様は、私の自慢の父様なんです! 商人として、たくさんの人を助けて、この街を豊かにしてくれた……そんな父様が、あんな悪い人たちに……!」
彼女の小さな拳が、怒りと悔しさで白くなっている。
「でも、レン様たちが来てくれた! お話を聞いた時、まるで物語の英雄様たちみたいだって思いました! 悪い奴らをやっつけて、お父様を助け出してくれた……! 本当に、本当に、ありがとうございます!」
その真っ直ぐで、純粋な感謝の言葉は、どんな高価な報酬よりも、俺たちの心に深く響いた。俺がしてきたことは、無意味ではなかった。こうして、目の前で涙を流して喜んでくれる家族がいる。その事実が、俺の胸を熱くした。
「……顔を上げてください」
俺は、なんとか言葉を絞り出した。
「俺たちだけの力じゃありません。ここにいる仲間たちがいてくれたから、できたことです。それに、俺たちは、俺たちの居場所を守るために戦っただけです。クラウスさんを見捨てることなんて、できるはずがなかった」
「レン様……」
「あなた方を見ていると……なんだか、胸が温かくなるんです。俺たちが守りたかったのは、きっと、こういう光景なんだろうなって」
俺の言葉に、クラウスさん一家は、ただ黙って俺の顔を見つめていた。やがて、クラウスさんが、重々しく口を開いた。
「……レン殿。あなたという方は、本当に……底が知れないお方だ。その若さで、その力と、そして……その優しさをお持ちとは」
その夜の食事は、温かく、そして美味しく感じられた。
俺たちは、セレスティーナのこと、帝国のこと、そしてエルム公国の未来について、夜が更けるのも忘れて語り合った。
クラウスさん一家の温かいもてなしと、彼らの揺るぎない支援の約束。それは、これから始まる大陸での過酷な戦いを前にした俺たちにとって、何物にも代えがたい力となるだろう。
商館を辞去し、宿舎への帰り道を歩きながら、俺はシルダの夜空を見上げた。エルム公国の星空とは違う、街の灯りで少しだけ霞んだ空。だが、その向こうには、確かに同じ星々が輝いている。
「レン、すごいことになったな」
隣を歩くカイルが、興奮気味に言う。
「ああ。心強い仲間ができた」
「うん! リリアナさん、すごく良い子だったね!」
アリシアも嬉しそうだ。
(守るべきものが、また一つ増えたな)
俺の胸には、クラウスさん一家の笑顔が焼き付いていた。俺は、もう一人ではない。俺の後ろには、エルム公国の民がいる。そして、この大陸にも、俺たちの戦いを信じ、支えてくれる仲間がいる。
その事実が、俺に新たな勇気と、公王としての揺るぎない覚悟を与えてくれた。
俺の足取りは硬い石畳を、力強く踏みしめていた




