第68話:交易都市の商人
エルム公国の未来を懸けた大陸への第一歩。その朝は、澄み渡るような青空と共に訪れた。
公王執務室から見える村の風景は、いつもと変わらぬ活気に満ちている。だが、俺たちの間には、これから始まる未知への挑戦に対する、心地よい緊張感が漂っていた。
「準備はいいか、皆。まずは、大陸側への前線基地となる、山賊の砦まで」
ティアーナとアリシアが制御台座に手を置き、魔力を流し込む。星脈鋼のフレームが蒼い光を放ち、門の内側の空間が水面のように揺らめき始めた。俺たちは、その光の中へと、迷いなく足を踏み入れた。
空間が歪む独特の浮遊感の後、俺たちの足元は、山賊の砦の中庭の、固い石畳の上にあった。
「よし、転移成功だ。ティアーナ、門の状態は?」
「問題ありません、レン。安定しています」
「なら、転移門を回収するか」
俺は頷くと、転移門に向き直り、ストレージを発動させた。
「――空間収納」
俺の意識に呼応し、目の前の巨大な門が、まるで幻だったかのように光の粒子となって俺の右手に吸い込まれていく。
「……さて、それじゃあ、次の段階だ」
俺は、少し緊張した面持ちで隣に立つフィーナに向き直った。
「フィーナ、頼めるか?」
「うん、任せて!」
フィーナは満面の笑みで頷くと、一歩前に出た。次の瞬間、彼女の体が眩いばかりの光に包まれる。光が収まった時、そこにいたのは馬ほどの大きさを持つ、白銀の竜だった。
「何度見ても、すげえ光景だな……」
カイルが呆然と呟く。他の仲間たちも、神々しささえ感じさせるその姿に、息を呑んでいた。
俺は、皆に手を振ると、フィーナの背中へと慣れた様子で飛び乗った。
「それじゃあ、少しの間、留守を頼む。カイル、任せたぞ」
「おう! 気をつけて行けよ、レン!」
フィーナが翼を力強く羽ばたかせると、俺たちの体はふわりと宙に浮き、ぐんぐんと高度を上げていく。眼下で小さくなっていく仲間たちの姿に少しの間の別れを告げながら、俺は必ず戻ると心の中で誓った。
始原の森の上空とは全く違う、乾いた風が頬を打つ。眼下に広がるのは、俺たちがまだ見ぬ広大な大地。赤茶けた丘陵、蛇行する川、そして遥か地平線の先まで続く、人の営みの痕跡。その一つ一つが、俺の冒険心を強く刺激した。
「すごいな、フィーナ。ここが、俺たちの新しい舞台だ」
「うん! レン、どこまで飛ぶの?」
フィーナの無邪気な声に、俺はオリヴィアから渡された地図を広げた。
「目指すは、この交易都市シルダだ。だが、街の近くまで行くと目立ちすぎる。この手前にある森まで頼む」
数時間の飛行の後、俺たちは目的の森の上空に到達した。幸い、帝国軍の偵察部隊らしき姿は見当たらない。俺たちは人目につかないよう、森の最も深い場所を選んで静かに着地した。フィーナはすぐに人の姿に戻ったが、やはり少し息が上がっている。
「お疲れ、フィーナ。よく頑張ったな」
「へへー。レンと一緒だから、平気だよ!」
彼女の頭を撫でてやると、俺はすぐに意識を集中させた。
「フィーナ、ここで少し待っていてくれ。すぐに仲間を連れてくる」
「うん、わかった!」
俺は頷くと、意識を砦に残してきた仲間たちへと向けた。マッピングで描き出した、砦の中庭の正確な座標。そこにいる仲間たちの気配。イメージは完璧だ。
「――転移」
視界が白く染まり、体がぐにゃりと歪むような強烈な浮遊感に襲われる。一人での転移はもう慣れたものだが、この感覚だけは何度やっても好きになれない。 次の瞬間、俺の足は森の柔らかな土から、砦の固い石畳の上へと着地していた。
「うおっ!? レン!?」
目の前には、俺の突然の出現に目を丸くしているカイルやアリシアたちの姿があった。
「驚いたぜ……いきなり現れるなよな」
カイルが心臓を押さえながら言う。
「すまんすまん。だが、無事に着いたぞ。クラウスさんの街はもう目と鼻の先だ。さあ、皆行くぞ」
俺は仲間たちを集め、全員に互いに手を繋ぐよう指示する。
「しっかりと捕まってくれ。今度は全員で飛ぶ。少し揺れるかもしれんが、絶対に手を離すなよ」
「おうよ!」
「うん!」
「はい!」
仲間たちの状態を確認し、俺は再び意識を集中させる。目標は、先ほどまでいたシルダ近郊の森の中――フィーナが待っている場所。
「――転移!!」
今度は、一人での転移とは比較にならないほどの魔力がごっそりと持っていかれる感覚。だが、まだ魔力量的にはまだ余裕があると自分でもわかる。
視界が激しく歪み、まるで嵐の中の小舟のように、空間そのものが揺れているように感じられた。
光が収まった時、俺たちの目の前には、心配そうにこちらを見上げるフィーナと、先ほどまでいた森の風景が広がっていた。
「うっぷ……相変わらず、レンの転移は心臓に悪いぜ……」
カイルが少し顔をしかめながらも、周囲を見回す。
その隣で、オリヴィアもまた気品を保とうとしながらも、僅かに口元を押さえ、蒼白な顔で呟いた。
「……これが、空間転移魔法……。我が国の魔術師たちが、理論の上でしか語れなかった伝説の魔法……。信じられませんわ」
彼女の瞳には、恐怖よりも、常識を覆されたことへの知的な驚愕の色が濃く浮かんでいた。
イリスは、ぐらりとよろめくオリヴィアの体を即座に支えながら、自らも厳しい表情で周囲を警戒した。
「……とんでもない術ですね。一瞬でこれだけの距離を……。」
騎士としての彼女は、この魔法の戦術的な価値を瞬時に分析していた。
カイルが、そんな二人の様子を見て、ニヤリと笑う。
「まあ、慣れりゃ大したことねえよ。それより、ここがシルダの近郊か。いよいよだな」
「ああ。だが、このまま街に入るわけにはいかない」
俺はそう言うと、オリヴィアに向き直った。
「オリヴィア、事前に打ち合わせた通り、俺たちの役割分担と、服装について最終確認を頼む」
「はい、お任せください」
オリヴィアは、テキパキと指示を出し始めた。
「まず、私たちは『エルム商会』と名乗ります。レンさんは、若き当主。わたくしはその妹ということにしましょう。アリシアさんとティアーナさんは侍女兼薬師。そして、カイル殿とイリスは、我々を護衛する腕利きの用心棒です。服装も、クラウスさんから事前に融通してもらった、この大陸で一般的な旅商人のものに着替えます」
ストレージから取り出した服装に着替えると、俺たちは見慣れない自分たちの姿に、少し照れくさいような、それでいて新鮮な気持ちになった。特に、簡素だが上品な侍女服に身を包んだアリシアとティアーナは、普段とは違う魅力が引き立っている。
「どうかな、レン……似合う?」
アリシアが、少し恥ずかしそうにスカートの裾を揺らす。
「ああ、すごく似合ってるよ。ティアーナもな」
「あ、ありがとうございます、レン……」
ティアーナも、頬を染めて俯いた。
準備を終えた俺たちは、森を抜け、交易都市シルダへと続く街道へと出た。そして、俺たちは初めて、大陸の都市の息吹に触れることになる。
◇◇◇
シルダの城門が見えてきた時、俺は思わず足を止めていた。
エルム公国とは比較にならない、巨大な石壁。その上を、帝国の紋章が刻まれた旗が風にはためき、鎧を纏った兵士たちが鋭い目つきで往来を監視している。門の前には長い行列ができており、様々な荷を積んだ荷馬車や、旅人たちが検問を受けていた。
「……すごい人の数だ。それに、色々な種族がいるな」
カイルが、物珍しそうに呟く。彼の言う通り、人間だけでなく、獣人や、少数だがドワーフの姿も見える。だが、エルム公国のように、彼らが対等に笑い合っている様子はない。そこには、支配する者とされる者の間の、明確な壁が存在しているようだった。
「気を引き締めてください。帝国兵は、些細なことでも難癖をつけてきますわ」
オリヴィアが、低い声で警告する。
俺たちは緊張しながら列に並び、やがて俺たちの番が来た。
「止まれ! どこから来た! 目的は何だ!」
鎧を鳴らし、尊大な態度で尋ねてくる帝国兵。その腰には、長い剣が揺れている。
俺は、オリヴィアに教わった通り、若き商人らしい、少しだけ自信過剰な笑みを浮かべて答えた。
「我々はエルム商会と申します。東の森で採れた希少な薬草や魔物の素材を、このシルダで最も信頼できるという、レンブラント商会に卸しに来たのですよ」
俺がクラウスの名前を出すと、兵士の態度が僅かに変わった。
「レンブラント商会だと……? あのクラウスの……?」
「ええ。長年のお付き合いでしてね。これは、その証です」
俺は、クラウスから預かっていた紋章入りの木札を見せる。兵士はそれを胡散臭そうに眺めたが、やがて面倒くさそうに手を振った。
「……よし、通れ。だが、街で騒ぎを起こすなよ」
「ご忠告、痛み入ります」
無事に検問を通過し、城門をくぐった瞬間、俺たちは圧倒的な喧騒と熱気に包まれた。
石畳の道には、人々がひしめき合い、道の両脇には無数の露店が軒を連ねている。香辛料の香り、焼いた肉の匂い、そして人々の汗の匂い。鍛冶場から聞こえる槌音、酒場から漏れ聞こえる陽気な歌声、そして、子供たちのけたたましい笑い声。
「わぁ……! すごい……!」
アリシアが、目をキラキラと輝かせて周囲を見回している。
「エルム公国とは、全然違う活気だね! 見て、レン! あのお店、綺麗な布をたくさん売ってるよ!」
「皆さん、注意はしてください。スリも居るかもしれません。」
イリスが、注意を促す。
ティアーナもまた、好奇心に満ちた目で、露店に並ぶ見慣れない道具や魔道具を観察していた。
「……興味深いですわ。こちらの魔道具は、私たちのものとは全く異なる理論体系で組まれているようです。効率は悪そうですが、発想は面白い……」
オリヴィアとイリスだけが、その賑わいの裏にあるものを、厳しい目で見つめていた。
「……活気があるように見えて、どこか殺伐としている。皆、生きるのに必死なのですね。帝国の支配下で、日々の糧を得るためには……」
オリヴィアの呟きに、俺も頷いた。この活気は、自由な繁栄ではなく、厳しい競争と搾取の上になりたつ、歪なものなのかもしれない。道の辻々には、物乞いをする老人や、親を失ったらしい子供たちの姿もあった。
俺たちは、そんな現実を肌で感じながら、街でも目立つほど大きい建物――レンブラント商会の巨大な看板が掲げられた商館――を目指して、人混みをかき分けるように進んでいった。
◇◇◇
「おおおおっ! レン殿! よくぞ、ご無事で!」
レンブラント商会の応接室に通された俺たちを、クラウスは満面の笑みで出迎えてくれた。山賊に囚われていた時とは打って変わって、上質な衣服に身を包み、その顔にはやり手の商人としての自信が満ち溢れている。
「クラウスさん、あなたもご無事で何よりです。早速ですが、例の件、何か情報はありましたか?」
俺がそう切り出すと、クラウスは笑顔を消し、真剣な表情で頷いた。
「ええ、我が商会の情報網を総動員して探りました。……見つかりましたぞ、希望の光が。」
彼は、一枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。
「帝国の圧政下で、民衆の間で囁かれる一人の英雄がいます。『銀髪の戦乙女』…ドラグニア王国騎士団総長、セレスティーティーナ殿の噂です」
その名を聞いた瞬間、オリヴィアとイリスの顔色が変わった。
「セレスティーナが……生きているのですか!?」
「はい。彼女は残存兵力を率い、大陸南部で散発的な抵抗を続けているとのこと。その武勇は民衆を勇気づけ、帝国も彼女の存在を相当厄介に思っているようです。最近、帝国が南部への部隊移動を活発化させているのは、間違いなく彼女の捕縛が目的でしょう」
俺たちは、セレスティーティーナという確かな希望の糸口と、帝国という巨大な脅威の輪郭を、同時に手に入れた。
「クラウスさん。もう一つ、お願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「なんなりと」
「俺たちが大陸を移動するための、身分を証明するものがほしいのですが、調達可能でしょうか。正式な通行証のようなものを」
「お安い御用です!」
クラウスは、胸を叩いた。
「エルム商会の名で、最高の通行証を用意させましょう。これさえあれば、帝国の主要な関所は顔パスですぜ。それと、大陸各地にある我が商会の拠点を、いつでも隠れ家としてお使いください。資金も、物資も、情報も、このクラウス・レンブラント、全力で支援させていただきます!」
頼もしい言葉に、俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クラウスさん。あなたという協力者を得られたことは、何よりも心強い」
こうして、俺たちは大陸での活動における最初の、そして最も強力な足がかりを、確かに掴んだのだ。
執務室を出ると、窓の外はすでに夕暮れに染まっていた。




