第67話:竜の子
エルム公国が建国を宣言してから、数週間が過ぎた。
昼間の喧騒が嘘のような静けさに包まれた公王執務室で、俺は一人、壁に広げられた巨大な大陸地図を睨みつけていた。
そこには、ヴェルガント帝国の支配領域が禍々しい赤色で塗りつぶされ、ドラグニアの民が潜伏している可能性のある都市が、頼りない青い点でいくつも記されている。
(……遠すぎる)
思わず、ため息が漏れた。エルム公国から最も近い候補地ですら、徒歩であれば数週間。大陸全土に散らばる全ての民を捜し出すには、一体何年かかるのか。数年という猶予は、決して長くはない。
大陸内部での広域な移動手段がなければ、俺たちの計画は初動で頓挫する。
「……どうしたものか」
机に置かれた冷めたハーブティーを一口すする。アリシアが「根を詰めすぎだよ」と心配して淹れてくれたものだ。彼女やティアーナの顔を思い浮かべると、胸が温かくなると同時に、公王としての重圧がずしりとのしかかる。
考えが煮詰まった俺は、気分転換も兼ねて執務室を出た。
月明かりが、新しく整備された石畳の道を白く照らし出している。家々の窓からは温かい光が漏れ、時折、住民たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。この光景を守るためなら、どんな困難も乗り越えてみせる。そう誓ったはずなのに、今はそのための具体的な道筋が見えずにいた。
ふらりと中央広場へ向かうと、新設された小さな噴水の縁に、小さな人影が座っているのが見えた。月光を浴びてキラキラと輝く白銀の髪。フィーナだ。
「フィーナ。こんな夜更けにどうしたんだ?」
俺が声をかけると、彼女はぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってきた。
「レン! あのね、お月様がとっても綺麗だったから、見てたの!」
その無邪気な笑顔に、俺のささくれ立っていた心が少しだけ和らぐ。俺は彼女の隣に腰を下ろし、二人で静かに夜空を見上げた。
「公国での生活には慣れたか?」
「うん! アリシアのご飯は美味しいし、カイルはお馬さんごっこしてくれるし、ティアーナはキラキラの石を見せてくれる! みんな、とっても優しい!」
フィーナは楽しそうに足をぶらぶらさせながら言う。その様子に安堵しながらも、俺はずっと気になっていたことを、できるだけ優しく尋ねてみることにした。
「フィーナ。少し、聞いてもいいか? 無理にとは言わないんだが……お前のこと、もう少し知りたいんだ」
「私のこと?」
フィーナは、こてんと首を傾げた。その純粋な青色の瞳が俺を映す。
「ああ。山賊の砦で、お前は竜の姿だった。でも、今はこうして人の姿でいる。お前は、本当はどっちなんだ?」
俺の問いに、フィーナは少しも悪びれる様子なく、当たり前のように答えた。
「どっちも私だよ! 普段はこっちの姿の方が楽ちんだけど、本気を出せばおっきくなれるの!」
「おっきく……?」
「うん! おっきくなって、空を飛べるんだよ!」
その言葉は、何気ない子供の自慢話のようだった。だが、俺の心臓は、ドクンと大きく跳ねた。空を、飛べる……?
「……本当か、フィーナ? 誰かを乗せて飛ぶこともできるのか?」
俺の声が、自分でも驚くほど上擦っているのが分かった。
「うん! レンくらい軽い人なら、一人だけなら乗せてあげられるよ!」
フィーナはにっこりと笑う。その笑顔が、俺の頭の中の霧を晴らす、一条の光に見えた。
「でもね」と、彼女は少し困ったように付け加えた。
「おっきい姿はすっごく疲れちゃうの。長い時間は飛べないし、すぐにお腹もぺこぺこになっちゃう。それに、まだ飛ぶのはちょっと下手っぴで、びっくりするとうまく飛べなくなっちゃう時もあるんだ」
「そうか……」
スタミナの問題、搭乗人数の制限、そして精神的な未熟さ。だが、それは絶望ではなかった。むしろ、俺の脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、一つの完璧な絵を形作り始めていた。
(フィーナが俺一人を乗せて飛べるのなら、途中で休息を挟めば長距離の移動も可能だ。もし俺が先行して大陸の目的地に到着し、安全な場所と正確な座標を確保できれば……俺の転移魔法で、カイルたち仲間を直接呼び寄せることができる!)
これだ! これしかない!
徒歩での移動という最大の問題点を解決する、画期的な「二人一組の先行偵察&転移」という作戦。それは、フィーナという竜の子と、俺という転移魔法の使い手、この二人だからこそ可能な、唯一無二の解決策だった。
「フィーナ!」
俺は、思わず彼女の小さな両肩を掴んでいた。
「お前は、すごい力を持っているんだぞ! お前のその力があれば、俺たちは、たくさんの人を助けることができるかもしれない!」
「ほんと!?」
「ああ、本当だ! ……よし、明日、少しだけその力を見せてくれないか? 皆には内緒で、こっそりとだ」
「うん、わかった!」
俺は、興奮を抑えきれないまま、彼女の頭を優しく撫でた。この小さな少女が、俺たちの、いや、この国の未来を拓く、翼となるのだ。
◇◇◇
翌日の早朝。夜が明けきらない薄明りの中、俺はフィーナ、そして事情を説明したカイルとアリシアを連れて、村の外れにある開けた訓練場に来ていた。公国の皆を驚かせないための、秘密の実験だ。
「それでレン、本当にフィーナちゃんが竜になって飛ぶのか……?」
カイルが、まだ半信半疑といった様子で尋ねる。
「ああ。俺もこの目で確かめたい」
俺が頷くと、フィーナは少し緊張した面持ちで、しかし嬉しそうに一歩前に出た。
「レン、見ててね! いくよー!」
フィーナがそう叫んだ瞬間、彼女の体が眩いばかりの光に包まれた。あまりの光量に、俺たちは思わず腕で目を覆う。光が収まった後、そこにいたのはもう愛らしい少女ではなかった。
「……すげえ……」
カイルが、呆然と呟いた。
目の前にいたのは、馬ほどの大きさをした、一頭の美しい竜だった 。その全身を覆う鱗は、朝の光を浴びて真珠のように淡く白く輝いている 。しなやかな首、力強い四肢、そして背中には雄大な翼。山賊の砦で見た痛々しい姿とは違う、生命力に満ち溢れた神々しい姿に、俺たちは言葉を失った。
竜――フィーナは、少し得意げに「ぐるる」と喉を鳴らすと、その大きな金色の瞳で俺を見つめ、そっと頭を下げてきた。
「……レン、乗って」
俺は頷き、恐る恐る彼女の背中へとよじ登った。鱗は滑らかで、その下からは確かな温もりが伝わってくる。俺がしっかりと首筋に掴まったのを確認すると、フィーナは翼を大きく広げた。
バサッ!と力強い羽ばたきの音と共に、俺たちの体はふわりと宙に浮いた。最初は少し不安定に揺れたが、すぐに安定し、ぐんぐんと高度を上げていく。
「うおおおおっ!」
眼下に、俺たちが築き上げたエルム公国の全景が広がっていく。レンガ造りの家々、緑豊かな畑、そしてそれらを守るように広がる始原の森。その壮大な光景に、俺は感動で胸が熱くなるのを感じた。風を切り、雲を掠めて飛ぶ感覚は、何物にも代えがたい解放感があった。
「どう、レン! すごいでしょ!」
「ああ、すごい! 最高だ、フィーナ!」
しばらくの間、公国の上空を旋回し、俺たちはゆっくりと地上へと降り立った。着地は少しだけ不格好だったが、それもご愛嬌だろう。フィーナは再び光に包まれ、元の少女の姿に戻る。その額には玉の汗が浮かび、少し息が上がっていた。
「ふう……。どうだった、レン?ちゃんと飛べた?」
「ああ、完璧だった。ありがとう、フィーナ」
俺は彼女の頭を撫でながら、心からの感謝を伝えた。
駆け寄ってきたカイルとアリシアも、興奮を隠せない様子だった。
「レン! フィーナちゃん! すごい……!」
アリシアが目を輝かせている。
「ああ、これなら行ける。この翼があれば、俺たちの道は大陸へと繋がる」
この確信を胸に、俺は仲間たちを公王執務室へと招集した。フィーナの能力を直接見届けたカイルとアリシアも、緊張と興奮が入り混じった表情で席に着いている。
◇◇◇
翌朝、公王執務室には、俺と、カイル、アリシア、ティアーナ、オリヴィア、イリス、そして少し誇らしげなフィーナが集まっていた。
俺は、壁に広げられた大陸地図を前に、昨夜思いついた計画を、熱を込めて語り始めた。フィーナが竜の姿で俺を乗せて先行偵察を行い、俺が目的地付近の座標を把握、皆を転移魔法で迎えに行くと。
「……というわけだ。この方法なら、数年かかると見ていた大陸各地の捜索と救出を、大幅に短縮できるはずだ」
俺の説明に、仲間たちは皆、その画期的な移動手段に目を見張っていた。
「すげえ! そりゃ名案だぜ、レン! 」
カイルが興奮して拳を握る。だが、すぐにオリヴィアが、冷静な、しかし厳しい表情で口を挟んだ。
「素晴らしい作戦です。ですが、レンさん。それは、あまりにも危険すぎます」
「レンの体にも、すごく負担がかかるよ! それにフィーナちゃんも、まだ小さいのに、そんな危険な役目を……」
アリシアも、俺とフィーナの身を案じて、不安げな表情を浮かべている。イリスもまた、主君の懸念に同意するように、厳しい顔で黙り込んでいた。
仲間たちの懸念は、もっともだった。成功すれば大きな成果を得られるが、失敗すれば俺とフィーナ、二人の命が失われる可能性があるだけでなく、公国そのものが大きな打撃を受けることになる。
俺は、皆の不安を真正面から受け止めた。そして、静かに、しかし揺るぎない決意を込めて言った。
「危険は、承知の上だ。だが、この方法しか、大陸に散らばるドラグニアの民を救い、迅速に帝国に対抗する術はないと思っている。」
俺は、隣で不安そうに俺の服の裾を握っているフィーナに向き直った。
「フィーナ。怖いか? 危険な旅になるかもしれない。それでも、俺と一緒に来てくれるか?」
俺の問いに、フィーナは一瞬だけ逡巡するような表情を見せたが、すぐに俺の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そして、満面の笑みを浮かべた。
「レンと一緒なら大丈夫! 私、頑張って飛ぶ! レンが、たくさんの人を助けたいって言うなら、私も手伝う!」
その小さな体から発せられた、あまりにも力強く、そして純粋な信頼の言葉。それは、この場にいる全員の心を、強く揺さぶった。
オリヴィアとイリスもまた、顔を見合わせ、深く頷いた。
こうして、エルム公国の命運と大陸の未来を懸けた、公王と幼き竜という二人だけの危険な先行偵察任務の準備が、静かに始まった。
それは、壮大な大陸横断の旅の、そして本当の意味での反帝国への狼煙の始まりを告げるものだった。俺たちの、新たな挑戦が、今、始まろうとしていた。




