第117話:公王の影、任命
翌日。
首都エルムヘイムの公王執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
俺のデスクの上には、カイルとイリスから提出された極秘の調査報告書が置かれている。
「……全員、『クロ』だったか」
俺は溜息交じりに呟いた。
「ああ。シエナの言った通りだ」
報告書を前に、カイルが険しい顔で頷く。
「昨夜、リストにあった13名を極秘裏に拘束し、ジュリアス殿に精神鑑定を依頼した。……全員の深層心理に、特定の魔力波長に反応して破壊活動を行う『思考誘導の楔』が打ち込まれていたよ」
「厄介な術式です。……普段の人格は正常そのもので、本人たちにすら自覚がないのですから」
イリスもまた、痛ましげに目を伏せた。
「尋問しようと『帝国の命令』について問いただすと、途端に目が虚ろになり、意識が混濁してしまうのです。恐らく、情報漏洩を防ぐための防衛機制でしょう」
入国時の身元調査や面談をすり抜けたのも、これなら納得がいく。
彼らは演技をしていたわけではない。
「自分は善良な市民だ」と心から信じ込まされていたのだから。
もしシエナの警告がなければ、今頃、公国の食料庫や工房で爆発が起き、大混乱に陥っていただろう。
(……恐ろしい能力だ)
俺は背もたれに体を預け、天井を仰いだ。
視力を失い、死の淵を彷徨っていた代償として得た、異常発達した聴覚と知覚能力。
そして、闇の中に潜む悪意を嗅ぎ分ける嗅覚。
彼女の力は、今のエルム公国に欠けている「穴」を埋めるピースそのものだ。
俺たちはこれまで、国作りにおいて「光」の部分――インフラ整備、技術開発、軍備増強――には全力を注いできた。
だが、「影」への備えが甘かった。
カジミール卿のような内通者や、今回のような無自覚なスパイ。
これらを未然に防ぎ、排除する「裏の組織」が、どうしても必要なのだ。
「……光だけでは、国は守れない」
俺は独り言のように呟いた。
「影が必要だ。汚れ仕事を担い、泥を被ってでも国を支える……そんな組織が」
そして、そのトップに適任なのは、シエナしかいない。
だが。
(……まだ少女だぞ?)
俺の心の中で、倫理観がブレーキをかける。
彼女は被害者だ。
帝国の実験で体を弄られ、地獄を見てきた。
本来なら、静かな場所で療養し、普通の女の子としての幸せを取り戻させるべきじゃないのか?
そんな子に、「スパイ狩り」や「暗殺」のような血生臭い任務を背負わせていいのか?
「レン」
迷う俺に、カイルが声をかけた。
「お前の言いたいことは分かる。……だが、あの子はもう、普通の生き方じゃ満足できない目をしてたぜ」
「……ああ」
カイルも気づいていたか。
昨夜、俺に向けられたあの狂信的な瞳。
彼女にとって、俺への奉仕こそが生きる意味であり、それを否定することは、彼女の存在意義を奪うことに等しいのかもしれない。
「……覚悟を決めるしかない、か」
俺はデスクの上の呼び鈴を鳴らした。
「シエナを呼んでくれ」
◇◇◇
数分後。
シエナが執務室に現れた。
昨夜と同じ簡素な服だが、その背筋はピンと伸び、纏う空気は鋭いナイフのように研ぎ澄まされている。
「お呼びでしょうか、陛下」
彼女は流れるような動作で跪いた。
俺はカイルとイリスを下がらせ、彼女と二人きりで対峙した。
「シエナ。昨夜の件、感謝する。君のおかげで国が救われた」
「勿体なきお言葉。わたくしは当然のことをしたまでです」
「……単刀直入に言おう」
俺は彼女の黒い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「君の力が必要だ。だが、これから頼む仕事は……決して表には出せない、汚れた任務になる」
公国の治安を維持するための、防諜、諜報、そして場合によっては……排除。
それは、英雄譚には語られない、血と闇の道だ。
「それでも……俺の『影』になってくれるか?」
俺の問いかけに、シエナは一瞬の迷いも見せなかった。
「はい、陛下」
即答だった。
まるで、その言葉を待っていたかのように。
「陛下の光を曇らせる全てのものを、この闇で葬り去ります。それが、わたくしの生きる喜びなのです」
その瞳に宿る光は、やはり危ういほどに純粋だった。
俺は小さく息を吐き、頷いた。
「分かった。……本日付で、君を公王直属の『情報統括官』に任命する」
「御意に」
「最初の任務だ。昨夜の13人以外にも、まだ『ネズミ』が潜んでいる可能性がある。……公国全土を対象に、内部スパイの特定と証拠の確保を行え」
「承知いたしました」
シエナが妖艶に微笑む。
その笑顔は美しく、そしてゾッとするほど冷酷だった。
「根こそぎ、掃除してご覧に入れます。……公国に巣食う害虫どもを、一匹残らず」
彼女の右手に、どす黒い魔力が揺らめく。
やる気だ。
「待て、シエナ」
俺は、彼女の言葉を遮るように、強く制止した。
「昨夜も言ったはずだ。『殺すな』と」
「……陛下?」
シエナが不思議そうに小首を傾げる。
「ですが、彼らは陛下の国を蝕む毒です。生かしておけば、また牙を剥くかもしれません」
「いいや、解毒できる」
俺はきっぱりと断言した。
「俺たちの国には、アリシアの光魔法と、エラーラさんの錬金術がある。……場所さえ特定できれば、どんなに深い呪いだろうと、必ず解いてみせる」
彼らもまた、帝国の呪いに縛られた被害者だ。
洗脳さえ解ければ、この国の良き隣人に戻れるかもしれない。
「君の仕事は『発見』と『確保』だ。『処刑』ではない。……君の刃は、俺が許可した時以外、決して抜いてはならない。守れるか?」
シエナは少しの間、沈黙した。
不服そうにも見えたが、やがてその瞳から殺気を消し、深く頭を垂れた。
「……御意に。陛下の御心のままに」
(……やはり、このままでは危険だ)
彼女は優秀だが、ブレーキが壊れている。
一歩間違えれば、彼女自身が暴走する殺戮マシーンになりかねない。
監視役と、指導役が必要だ。
俺は再び呼び鈴を鳴らした。
「入れ」
俺の合図と共に、隣室に控えていた二人の人物が入室してくる。
ジュリアス殿と、イリスだ。
シエナが怪訝そうに二人を見る。
「陛下? こちらの方々は……」
「君の指導役だ」
俺は告げた。
「君の能力は素晴らしいが、実戦経験や組織的な動き方は素人だ。それに、精神面でのケアも必要だと判断した」
俺はまず、ジュリアス殿を示した。
「ジュリアス殿には、魔術師としての戦術指南を頼んである。特に、君の闇魔法の特性を活かした『遠隔精密魔術』の制御……これを極めてもらいたい」
「ふむ。興味深い素材じゃ」
ジュリアス殿が、長い髭を撫でながらシエナを観察する。
「闇属性の先祖返りか……。儂の知識と、そなたの才能を組み合わせれば、千里先から針の穴を通すような芸当も可能になるかもしれんのう」
「……ご指導、感謝いたします」
シエナが頭を下げる。
そして、俺はイリスに向き直った。
「そして、イリス。……君には、シエナの精神的な支柱になってもらいたい」
「……はい」
イリスが一歩前に出る。
彼女は、どこか悲しげな、しかし慈愛に満ちた目でシエナを見つめていた。
「シエナ。君の心には、帝国への深い憎しみがある。それは当然のことだ」
俺は言葉を選びながら続けた。
「だが、憎しみだけで剣を振るえば、いつか自分を切り裂くことになる。……イリスから、騎士としての精神と、『人としての心』を学んでほしい」
イリスは、かつて故郷を失い、復讐心に囚われかけた過去を持つ。
だからこそ、今のシエナの危うさが誰よりも分かるはずだ。
「シエナ殿」
イリスが、シエナの手をそっと取った。
「わたくしもまた、多くを失いました。……ですが、今は守るべきものがあります。あなたにも、復讐の虚しさではなく、誰かを守る喜びを知ってほしいのです」
「守る……喜び……」
シエナは、戸惑うように瞬きをした。
彼女にとって「力」とは、敵を殺すための手段でしかなかったからだ。
「お二人の指導、しっかりと受けるように」
「……はい。陛下の望みとあらば」
シエナは承諾した。
まだ納得しきれていない様子だが、イリスの手の温もりに、少しだけ表情が和らいだように見えた。
◇◇◇
任務の説明と、指導役の紹介を終え、三人が退出する時だった。
「シエナ」
俺は呼び止めた。
「はい、陛下」
彼女が振り返る。
俺は席を立ち、彼女の前に歩み寄った。
14歳程度の少女。
近くで見ると、やはり華奢で、守ってやりたくなる背中をしている。
俺は無意識に手を伸ばし、彼女の頭にポン、と手を置いた。
「頼りにしているよ」
俺は、王としてではなく、一人の年長者として、その頭を撫でた。
「無理はするなよ。……何かあったら、すぐに俺かイリスに相談すること。いいな?」
その瞬間だった。
ボンッ!!
という爆発音が聞こえそうな勢いで、シエナの顔が真っ赤に染まった。
「あ……あう……」
さっきまでの「冷徹な影」の雰囲気はどこへやら。
彼女は目を白黒させ、口をパクパクとさせている。
「へ、へへへ、陛下ぁっ!?」
「ん? 嫌だったか?」
「い、いいえ! 滅相もございません! 光栄すぎて、魂が蒸発しそうで……!」
彼女は自分の頭を押さえ、涙目になって俺を見上げた。
「あ、洗いません! この頭、一生洗いませんっ!!」
「いや、それは洗えよ」
「失礼いたしますっ!!」
シエナは叫ぶと、脱兎のごとく部屋を飛び出していった。
パタン、と扉が閉まる。
あとに残されたのは、呆気にとられたジュリアス殿とイリス、そして苦笑する俺だった。
「……ふっ」
俺は思わず吹き出した。
「やれやれ。……前途多難だな」
だが、少しだけ救われた気分だった。
彼女の中に、あんな年相応の少女の反応が残っていたことが。
冷酷な「影」として生きようとする彼女。
だが、その根っこには、まだ純粋な心が残っている。
(あそこを大事に育ててやれば……あるいは)
俺は窓の外を見た。
公国の空は、今日も澄み渡っている。
光と影。
その両方を背負って、俺はこの国を前に進めていくのだ。
新たな「影」の誕生を、俺は静かに受け入れた。
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