第114話:王女の戸惑いと騎士の誓い
首都エルムヘイム、王宮として仮設された館の一室。
窓から差し込む月光が、簡素だが品のある部屋を青白く照らし出していた。
その光の中に、一人の少女が佇んでいる。
亡国ドラグニアの王女、オリヴィア・フォン・ドラグニア。
彼女は鏡台の前に座り、映し出された自分の顔を、どこか他人事のように見つめていた。
(……これが、結婚を控えた女の顔でしょうか)
鏡の中の自分は、酷く疲れ、そして怯えているように見えた。
肌は蒼白く、紫色の瞳は光を失い、深い憂いを帯びている。
明日は、公王レンとの婚儀の発表が予定されている。
国のため、民のため、そして大陸の未来のための、極めて重要な政略結婚。
頭では分かっている。
王族として生まれた以上、自らの身を国の礎とすることは当然の責務だと。
だが、心は悲鳴を上げ続けていた。
コンコン、と控えめなノックの音が、静寂を破る。
「……姫様。イリスでございます。入ってもよろしいでしょうか」
「……ええ、入りなさい」
扉が静かに開き、近衛騎士イリスが入室してきた。
彼女は手にした盆に、温かいハーブティーを載せている。
その香りは、あのアリシアが調合してくれた、心を安らげるためのものだ。
イリスは、鏡の前で動かない主君の背中を見て、痛ましげに眉を寄せた。
彼女は盆をテーブルに置くと、オリヴィアの傍らに歩み寄り、膝をついてその顔を覗き込んだ。
「姫様……。お顔の色が優れません。やはり、眠れませんか」
オリヴィアは、力なく首を振った。
「……イリス。わたくしは……怖いの」
「怖い、でございますか? 帝国のことでしょうか」
「いいえ……自分自身が、です」
オリヴィアは、震える手で自らの顔を覆った。
これまで、誰にも言えず、一人で抱え込んできた暗い感情。
それが、最も信頼する騎士を前にして、堰を切ったように溢れ出した。
「イリス……。国のため、民のため、わたくしが公王陛下と結ばれることが最善であることは、頭では理解しています。それが、アルバート卿やジュリアス殿が示した、この国を守るための最適解なのですから」
オリヴィアの声が、涙で湿る。
「ですが……アリシアさんやティアーナさんの、あの笑顔を思い出すと……胸が張り裂けそうになるのです」
脳裏に浮かぶのは、いつもレンの傍らで、彼を支え、慈しむ二人の姿。
彼女たちは、レンの妻であり、かけがえのないパートナーだ。
そして、オリヴィアにとっても、命を救ってくれた恩人であり、初めてできた大切な友人たちだった。
「あの方々は、わたくしを家族のように受け入れてくださいました。それなのに……わたくしは、友の幸せを奪う形で、その場所に割り込もうとしている」
「姫様……」
「……それだけではありません。わたくしは、自分の浅ましさが怖いのです」
オリヴィアは、顔を覆っていた手を下ろし、濡れた瞳でイリスを見つめた。
その瞳には、深い罪悪感と、そして隠しきれない熱が宿っていた。
「同盟者としてだけではなく……わたくしは、一人の男性として、レン様をお慕いしてしまっている」
「……っ」
イリスが、息を呑む気配がした。
「政略だと、義務だと言い聞かせながら……心のどこかで、この結婚を喜んでしまっている自分がいるのです。友を裏切り、その場所を奪うことを、喜んでいる醜い自分が……!」
オリヴィアの頬を、大粒の涙が伝い落ちる。
王女としての矜持と、一人の少女としての恋心。
そして、友人への裏切りという罪悪感。
それらが彼女の心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、自己嫌悪となって彼女を苛んでいた。
「わたくしは……なんと卑しい女なのでしょう……」
イリスは、主君の涙に動揺しながらも、懸命に言葉を探した。
「姫様、そのようなことはございません! 誰が姫様を責められましょうか! あなた様ほど、清らかで、民を想うお心を持った方はおりません!」
イリスは、ハンカチを取り出し、オリヴィアの涙を不器用な手つきで拭った。
「レン公王も、アリシア殿も、ティアーナ殿も……皆、姫様のお心を理解してくださっています。だからこそ、この話を受け入れてくださったのではありませんか」
「……ええ、分かっています。あの方々は、優しすぎるのです」
オリヴィアは涙を拭い、深呼吸をした。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
一番近くにいるイリスにだけは、この醜い本音をさらけ出すことができたからかもしれない。
ふと、オリヴィアは目の前で心配そうに自分を見つめる騎士の顔を見た。
真面目で、実直で、剣のことしか知らないような、不器用な騎士。
だが、最近の彼女は、どこか以前とは違う雰囲気を纏っているように見えた。
オリヴィアは、ふと浮かんだ疑問を、そのまま口にした。
「……ところでイリス。貴女はどうなのですか?」
「は? 私、でございますか?」
イリスがきょとんとした顔をする。
オリヴィアは、真っ直ぐに彼女の群青色の瞳を見つめ返した。
「先日、セレスティーナ総長から、カイル殿との……その、『戦術的パートナー』の話があったと聞き及んでいますが」
その瞬間。
ボンッ! という音が聞こえそうなほど、イリスの顔が一気に真っ赤に染まった。
「なっ……!?」
イリスは慌てふためき、目が泳ぎ、手足の置き場に困ったように挙動不審になる。
「ひ、ひひひ、姫様!? な、なぜそのことを……!?」
「ふふ、噂は早いのですよ。それで、どうなのです? お受けしたのでしょう?」
「あ、あれはあくまで! 『戦場での生存率向上』のための、軍事的な措置でありまして……!」
イリスは、直立不動の姿勢になり、早口でまくし立てた。
「前衛における連携精度を極限まで高めるため! 精神的な支柱を安定させるため! 総長からの推奨事項として、か、カイル殿も、仕方なく了承しただけで……!」
必死に「任務」であることを強調するイリス。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない動揺と、そして甘やかな光が揺らめいていた。
(ああ……この子も)
オリヴィアは、直感した。
イリスの脳裏には、あの日の出来事が鮮明に蘇っていた。あの日、総長室を出た後の、あの気まずくも、心臓が破裂しそうだった時間。
『……俺は、別に、お前となら……その、悪くはねえと、思ってるからよ』
カイルは、そっぽを向きながら、照れくさそうにそう言った。
あの、ぶっきらぼうで、乱暴で、でも誰よりも頼りになる男。
彼が、自分を選んでくれた。
「仕方なく」なんかじゃなかった。
あの瞬間、イリスの胸の奥で爆発したのは、紛れもない「歓喜」だった。
(……任務だ。これは任務なのだ)
自分にそう言い聞かせようとしても、カイルの顔を思い出すだけで、胸が熱くなるのを止められない。
剣を交わし、背中を預け合うたびに深まっていった、信頼以上の感情。
「……イリス?」
オリヴィアの優しい声に、イリスはハッと我に返った。
彼女は、真っ赤な顔のまま、俯いた。
そして、ポツリと、消え入りそうな声で本音を漏らした。
「……ですが……嫌では、ありませんでした」
「……」
「わたくしのような……剣しか知らぬ、武骨な女でも……」
イリスは、自分の剣だこごつごつとした手を見つめた。
「誰かの……特別になれるのだと、そう思えたことは……その……」
言葉は続かなかった。
だが、その表情が全てを語っていた。
恥じらいと、戸惑いと、そして溢れんばかりの幸福感。
それは、いつもの厳しい騎士の顔ではなく、恋を知った一人の少女の顔だった。
オリヴィアは、そんなイリスの姿を見て、ふわりと柔らかく微笑んだ。
それは、王女としての作った笑顔ではなく、心からの共感に満ちた、温かい微笑みだった。
「……ふふ。私たち、似た者同士ですわね」
「え……?」
「立場や理屈をつけて、自分の心に素直になれない。国のため、任務のためと言い訳をして……本当はただ、その人に愛されたいと願っている」
オリヴィアは、窓の外に浮かぶ月を見上げた。
「わたくしたちは、不器用な主従ですわね」
イリスは、ハッとしてオリヴィアを見た。
主君の顔から、先ほどまでの悲壮な影が消え、どこか吹っ切れたような、清々しい表情が浮かんでいた。
イリスは、静かに膝をつき直し、オリヴィアの手を両手で包み込んだ。
その手は震えていたが、今はもう、悲しみによる震えではない。
「姫様……」
イリスは、騎士として、そして同じ悩みを持つ一人の女性として、誓いの言葉を口にした。
「人を愛することは、罪ではありません。それがたとえ、どのような形であっても」
彼女は、オリヴィアの手を、自らの額に当てた。
「カイル殿が私を受け入れてくれたように……レン公王も、きっと姫様のお心を、すべて受け止めてくださいます。あの方は、そういうお方です」
「……ええ。そうね」
「どのような道を選ばれようとも、このイリス……最期まであなたの盾となりましょう」
「ありがとう、イリス。……貴女がいてくれて、本当によかった」
オリヴィアは、イリスの手を握り返した。
月明かりの下、二人の女性は互いの想いを肯定し合い、静かに微笑み合った。
不安が完全に消えたわけではない。
罪悪感も、まだ心の底に残っている。
だが、一人ではない。
同じ痛みを、同じ喜びを分かち合える友がいる。
その事実は、嵐の前夜に立つ彼女たちにとって、何よりも強い支えとなった。
「……明日、レン様にお会いしたら、きちんと気持ちを伝えます」
オリヴィアは、決意を込めて言った。
「王女としてではなく、オリヴィア・フォン・ドラグニアという一人の女として。……わたくしの、全ての想いを」
「はい。……私も、カイル殿に……その……あ、あまりご迷惑をおかけしないように、精進いたします……!」
イリスの顔が、また少し赤くなる。
その愛らしい様子に、オリヴィアは声を上げて笑った。
暗かった部屋に、ようやく明るい光が灯ったようだった。
来るべき決戦。そして、その先に待つ未来。
二人の女性は、愛する人々と共に歩む覚悟を、この夜、新たにしたのだった。
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