第113話:公王の苦悩と二人の妻
深夜の公王執務室。
重苦しい静寂が、部屋の隅々まで支配していた。
窓の外には、冷たい月が浮かんでいる。
俺は一人、その蒼白い光を見上げながら、執務机の椅子に深く体を沈めていた。
(……政略結婚、か)
アルバート卿の悲痛な進言が、頭の中で何度も反響する。
『お二人のご成婚を、正式に発表すべきです』
『それこそが、両民の絆を鋼鉄に変える、最強の政略となります』
頭では分かっている。
理屈としては、これ以上ない正解だ。
カジミール卿というドラグニア側の重鎮が裏切った今、エルムの民とドラグニアの民の間に亀裂が入るのは避けられない。
それを塞ぐには、トップ同士の結合――俺とオリヴィアの婚姻こそが、最も効果的で、即効性のある劇薬だ。
だが。
俺の視線は、机の上に置かれた一枚の羊皮紙に落ちた。
そこには、かつてゴードンに描いてもらった、二つの指輪のデザイン画があった。
太陽の輝きを模した『陽光石』の指輪。
月の静寂を宿した『月影石』の指輪。
あの日、湖畔で誓った言葉が蘇る。
『君たちは二人とも、かけがえのない存在だ』
『これからの人生を、この国の未来を、俺と共に歩んでほしい』
あのアリシアの涙。
ティアーナの笑顔。
俺は、あの瞬間の誓いに嘘をつきたくない。
二人は、俺のわがままを受け入れ、三人で歩む道を選んでくれた。
それなのに、俺はさらに別の女性を娶るというのか?
国の安定という「大義」のために、彼女たちの愛を踏みにじるのか?
(……クソッ)
俺は、ガシガシと頭を掻きむしった。
公王として、国を守るためにはオリヴィアとの結婚は正しい選択だ。
否定のしようがない。
だが、俺は一人の男として、アリシアとティアーナに誓った愛を裏切るのか?
二人を悲しませてまで、俺は王座に座り続けるのか?
「……俺は、どうすればいい」
誰もいない部屋に、弱音が漏れる。
王としての仮面を脱ぎ捨てれば、そこにはただの迷える一人の男がいるだけだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
月が中天にかかる頃、俺はふと顔を上げた。
迷っていても、答えは出ない。
そして何より、俺がここで一人で悩み続けること自体が、二人に対する不誠実ではないか。
俺たちは、家族になると誓ったはずだ。
喜びも、悲しみも、そして苦しみも分かち合うと。
「……二人を裏切るわけにはいかない。嘘をついてごまかすこともできない」
俺の瞳に、小さな決意の光が宿る。
「……話そう。俺の苦しみも、迷いも、全て」
俺は立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、静寂を破る。
スケッチを机の引き出しにしまい、俺は執務室を後にした。
◇◇◇
廊下を歩く足取りは、鉛のように重かった。
一歩進むごとに、心臓が早鐘を打つ。
これから俺が話すことは、彼女たちを傷つけるかもしれない。
彼女たちの笑顔を、曇らせてしまうかもしれない。
その恐怖が、俺の足を止めさせようとする。
だが、俺は止まらなかった。
逃げてはいけない。
俺はエルム公国の公王であり、何より、彼女たちの夫なのだから。
寝室の前に着く。
扉の隙間からは、温かなランプの光が漏れていた。
中からは、微かに二人の話し声が聞こえる。
穏やかで、優しい声。
その日常の音が、今は胸に痛い。
「……ふぅ」
俺は一度深呼吸をして、肺の中の空気を全て入れ替えた。
震える手を握りしめ、拳を作る。
そして、コンコン、と扉をノックした。
「……レン?」
アリシアの声がした。
「ああ。……入るぞ」
俺は扉を開けた。
◇◇◇
寝室に入ると、アリシアとティアーナは、小さなテーブルを囲んでハーブティーを飲んでいたところだった。
俺の姿を見た瞬間、二人の表情が変わった。
「レン……?」
アリシアが心配そうに立ち上がる。
俺の顔色が、よほど酷かったのだろう。
ティアーナも、静かにカップを置き、俺を真っ直ぐに見つめた。
「……何か、あったのですね?」
彼女の洞察力は、いつも鋭い。
俺が夜遅くまで執務室に籠もり、そして今、重い足取りでここに来た理由を、既に察しているようだった。
「……ああ」
俺は扉を閉め、二人の前に歩み寄った。
喉が渇く。
言葉が、喉につかえて出てこない。
だが、言わなければならない。
「……重要な、話がある」
俺は、二人を見据えた。
その瞳には、俺への信頼と愛情が満ちている。
その光が、俺に勇気をくれた。
「……先ほど、アルバート卿から進言があった」
俺は、一つ一つ、言葉を紡ぎ出した。
カジミール卿の裏切りがもたらした影響。
民の間に広がりつつある不安と不信。
それを払拭するための、唯一にして最強の手段。
「……オリヴィアとの、政略結婚を進言された」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じた。
「国をまとめるためだそうだ。彼女を妃に迎えることで、エルムとドラグニアは真に一つになれる、と」
俺は、二人の反応を見るのが怖かった。
だが、目を逸らさずに続けた。
「だが、俺は……俺は、お前たちを愛している。お前たちを傷つけたくない」
これは、王としての言葉ではない。
一人の男の本音だ。
「公王として、この国を守らなければならない責任があることは分かっている。だが……俺の心には、お前たちがいる。お前たちとの誓いを、踏みにじるような真似はしたくないんだ」
俺の声は、情けなく震えていたかもしれない。
苦悩と自己嫌悪が、言葉の端々に滲み出ていた。
アリシアの瞳が、一瞬、悲しげに揺れた。
その緑色の瞳の奥に、痛みが走るのを俺は見た。
当然だ。
夫から、別の女性との結婚の話を聞かされて、平気なはずがない。
だが、次の瞬間。
彼女は、俺の手をそっと両手で包み込んだ。
「……レン」
その手は、驚くほど温かかった。
「謝らないで」
彼女は、俺を見上げて微笑んだ。
その笑顔は、悲しみを乗り越えた、慈愛に満ちたものだった。
「レンがどれだけ私たちを大切に想ってくれているか、痛いほど伝わってるよ。だって、レンはこんなに苦しそうな顔をしてるんだもん」
「アリシア……」
「私たちは、レンの妻だよ。でも同時に……この国の妃でもあるの」
彼女の言葉は、優しく、そして強かった。
俺が忘れていた視点。
彼女たちもまた、この国を背負う覚悟を持っていたのだ。
「レン」
ティアーナが、静かに口を開いた。
彼女は立ち上がり、俺のもう片方の手を取った。
その青い瞳には、月光のような理知と、深い愛情が宿っていた。
「レンさんの苦しみ……。あなたにここまで悩ませてしまうことこそが、私たちの不徳です」
「不徳だなんて……そんなことはない!」
「いいえ。私たちは知っています。あなたがどれほど誠実で、どれほど深く私たちを愛してくださっているか」
ティアーナは、俺の手を強く握り返した。
「オリヴィア様もまた、この国になくてはならない方です。彼女が王妃となることで、多くの民が救われるのであれば……私たちは、それを拒む理由はありません」
「ティアーナ……お前も、それでいいのか?」
「はい。それに……」
彼女は、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「オリヴィア様なら、私たちの家族として、共にあなたを支えていける。そう確信していますわ」
「そうだよ、レン」
アリシアが、俺の胸に顔を埋めるようにして言った。
「オリヴィア様も含め、皆で家族としてあなたを支える。それが、私たちが選んだ道です」
二人の言葉が、凍てついていた俺の心を溶かしていく。
陽だまりのようなアリシアの温もり。
月影のように静かに照らすティアーナの導き。
二人の包容力が、俺の迷いを、苦しみを、優しく包み込んで消し去ってくれた。
「……ありがとう」
俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
王として、人前で涙を見せるべきではないかもしれない。
だが、今だけは許してほしい。
「ありがとう……。俺は、世界一の幸せ者だ」
俺は、二人を強く抱きしめた。
華奢な二つの体が、俺を支えてくれている。
その温もりが、俺に再び立ち上がる力を与えてくれた。
「……分かった。俺も、覚悟を決める」
俺は顔を上げ、涙を拭った。
「オリヴィアにも、誠心誠意、俺の想いを伝える。そして、この国を……俺たち全員の居場所を、必ず守り抜いてみせる」
窓の外では、夜明け前の空が白み始めていた。
嵐はすぐそこまで来ている。
だが、今の俺には、もう迷いはなかった。
愛する妻たちが、俺の背中を支えてくれているのだから。
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