第112話:嵐の前夜、二つの進言
首都エルムヘイム、公王執務室。
重苦しい沈黙が、部屋の空気を鉛のように重くしていた。
窓の外からは、何も知らない子供たちの笑い声や、市場の賑わいが微かに聞こえてくる。
だが、この部屋の中だけは、まるで冬の湖底のように冷え切っていた。
「……以上が、現在把握できている情報の全てです」
俺は、テーブルに広げられた地図から顔を上げ、仲間たちを見回した。
目の前には、オリヴィア、アルバート卿、そしてジュリアス殿。
この国の頭脳と心臓とも言える面々が、かつてないほど険しい表情で沈み込んでいる。
無理もない。
カジミール卿の裏切り。
その事実は、単なる情報漏洩以上の衝撃を、俺たちに与えていた。
オリヴィアは、扇子を持つ手が白くなるほど強く握りしめている。
彼女にとってカジミールは、亡国の際も付き従い、苦難を共にした「忠臣」だったはずだ。
その信頼が、根底から覆されたのだ。
「防衛結界の暗号術式は、ティアーナが全て書き換えた。転移門のアクセス権限も再設定済みだ」
俺は、努めて冷静な声を出し、事実を確認していく。
感情に流されてはいけない。
今は、公王として、為すべきことをなさなければならない。
「重要拠点の配置も、カジミールが把握していたシフトとは完全に別のものに変更した。……だが、奴がどこまで知っていたか、正確なところは分からない」
「最悪を想定すべきですな」
ジュリアス殿が、長い髭を撫でながら重々しく口を開いた。
「奴は、公国の中枢にいた。兵站、食料庫の位置、緊急時の避難経路……。それら全てが、帝国に筒抜けであると」
「……ええ。その通りです」
俺は頷き、地図上の防衛ラインに赤いインクで修正を加えていく。
ここも、あそこも、危険だ。
築き上げてきた防衛プランの多くが、白紙に戻ったに等しい。
「ゼロベースで練り直すしかない。……骨が折れる作業だが、やるぞ」
俺の言葉に、皆が小さく頷く。
そこには、疲労の色が濃く滲んでいた。
肉体的な疲れではない。
「誰を信じればいいのか」という、疑心暗鬼の毒が、静かに俺たちの心を蝕んでいるのだ。
しばらくの間、具体的な軍事配置や情報伝達ルートの再構築について、淡々とした議論が続いた。
感情を排し、論理だけで最適解を導き出していく作業。
それは、今の俺たちにとって、心の傷から目を逸らすための逃避行動でもあったのかもしれない。
議論が一通り落ち着き、時計の針が深夜を回ろうとしていた頃だった。
「……軍事的な備えについては、これで当面は凌げるでしょう」
それまで、実務的な発言に徹していたアルバート卿が、ふと書類を置き、一歩前に進み出た。
その表情には、何か意を決したような、悲壮な色が浮かんでいた。
「ですが、レン公王陛下。オリヴィア姫殿下。……軍事的な対応だけでは、防ぎきれないものがございます」
「防げないもの? ……それは、なんだ?」
俺が問うと、アルバート卿はオリヴィアを、そして俺を真っ直ぐに見据えた。
「民の心、でございます」
「民の……心……」
「はい。カジミールの裏切りは、いずれ公になるでしょう。その時、民はどう思うか。……『ドラグニアの人間は信用できないのではないか』と」
その言葉に、オリヴィアがびくりと肩を震わせた。
「この公国は、多様な種族と、そしてドラグニアからの避難民が手を取り合って築き上げた奇跡の国です。しかし、その結束はまだ日が浅い。カジミールという『ドラグニアの重鎮』の裏切りは、エルム村の初期住民と、ドラグニアの民との間に、拭い難い不信の種を撒くことになります」
アルバート卿の指摘は、あまりにも鋭く、そして残酷な真実だった。
外からの敵よりも、内側から崩れる信頼関係こそが、国を滅ぼす一番の毒だ。
「……では、どうすればいいと言うのだ、アルバート」
ジュリアス殿が、助け舟を出すように低い声で尋ねる。
だが、その目を見る限り、彼もまた、アルバート卿が何を言おうとしているのか、察しているようだった。
アルバート卿は、深く息を吸い込み、そして告げた。
「今必要なのは、エルム公国とドラグニアの民が『真に一つである』という、何者にも揺るがせぬ証……。強固な楔です」
彼は、その場に膝をつき、頭を垂れた。
「レン公王陛下、オリヴィア姫殿下。……僭越ながら進言いたします」
重苦しい静寂が、部屋を支配する。
「お二人のご成婚を……正式に発表すべきです」
「――っ!?」
俺は、息を呑んだ。
隣で、オリヴィアが小さく悲鳴のような息を漏らすのが聞こえた。
「な、何を……言っているんだ、アルバート卿!?」
俺は思わず立ち上がりかけた。
だが、アルバート卿は顔を上げず、言葉を続ける。
「それこそが、両民の絆を鋼鉄に変える、最強の『政略』となります。公王と、ドラグニアの王女が結ばれる。これ以上に、両国の融和を示すメッセージはありません」
「ま、待て! 俺には……俺にはすでに、アリシアとティアーナという妻がいる! それは君たちも知っているはずだ!」
「承知しております」
答えたのは、ジュリアス殿だった。
彼は静かに頷き、俺を諭すように見つめた。
「ですが、陛下。この世界の王族において、複数の妃を持つことは珍しいことではございません。ましてや、国難の時。王の婚姻は、個人の感情ではなく、国の行く末を左右する政治的判断として行われるものです」
「ジュリアス殿まで……!」
「左様。カジミールの裏切りにより、民の間に走るであろう亀裂を修復するには、これ以上の手はございません。……非情な進言であることは重々承知の上。ですが、この国を守るためには……」
老魔術師の苦渋に満ちた表情が、これが彼らにとっても苦しい決断であることを物語っていた。
俺は、言葉を失った。
理屈は、痛いほど分かる。
政治的な判断としては、これ以上ない正解なのだろう。
ドラグニアの民にとって、オリヴィアは希望の象徴だ。彼女がこの国の王妃となれば、彼らの忠誠は盤石なものとなる。
エルムの民にとっても、王家との結びつきは安心材料になるだろう。
だが。
俺の心臓が、早鐘を打つ。
脳裏に浮かぶのは、アリシアの太陽のような笑顔と、ティアーナの月光のような静かな微笑み。
(二人への……誓いはどうなる?)
湖畔で交わした、あの約束。
指輪を贈った時の、二人の幸せそうな顔。
それを、俺は「政略」という言葉で踏みにじるのか?
「……オリヴィア」
俺は、隣に座る彼女を見た。
オリヴィアは、扇子で口元を隠していたが、その手は小刻みに震えていた。
紫色の瞳が、激しく揺れている。
「……オリヴィアは、どう思う?」
彼女はゆっくりと扇子を下ろした。
その唇は白く、血の気が引いている。
「わたくしは……」
彼女の声は、震えていた。
「王族として……民を守る義務があります。わたくしの身一つで、民の不安が消え、この国が一つになれるのであれば……それは、王女としての本望……」
言葉とは裏腹に、彼女の瞳からは、悲痛な色が滲み出ていた。
彼女にとって、アリシアとティアーナは、命の恩人であり、かけがえのない友人だ。
その友人たちの場所を奪うような真似を、彼女の心が許せるはずがない。
「ですが……わたくしは……友を……」
言葉は、そこで途切れた。
王族としての義務と、友人への罪悪感。
そして、もしかしたら……
それらが胸の中で激突し、彼女を引き裂いているようだった。
「……少し、時間をくれ」
俺は、絞り出すように言った。
「重要なことだ。今すぐには決められない。……少しだけ、頭を冷やさせてくれ」
アルバート卿とジュリアス殿は、無言で深々と頭を下げた。
俺は逃げるように、執務室の窓辺へと歩み寄った。
夜空には月が輝いている。
だが今の俺には、その光さえも、冷たく突き刺さる刃のように感じられた。
◇◇◇
同時刻。
首都エルムヘイムから遠く離れた、軍事都市『アイギス・フォート』。
その中央に位置する総長執務室にも、張り詰めた空気が流れていた。
「……呼び出したのは他でもありません」
セレスティーナ総長が、机の上に積み上げられた書類から顔を上げ、目の前に立つ二人を見据えた。
カイルと、イリス。
エルム公国が誇る最強の前衛コンビだ。
「帝国の総力戦に対抗するには、前衛の連携精度を極限まで高める必要があります。個々の武力は申し分ない。ですが、これからの戦いでは、阿吽の呼吸を超えた、魂の同調とも言える連携が求められます」
セレスティーナは、氷の仮面と呼ばれる通りの無表情で、淡々と語る。
カイルは腕を組み、少し退屈そうに、しかし真剣に話を聞いていた。
イリスは直立不動の姿勢で、上官の言葉を一言も聞き漏らさないよう緊張している。
「……そこで、戦術的な観点から一つ提案があります」
セレスティーナは真顔で、机の上に一枚の書類を置いた。
そこには、公国の紋章が入った、何やら公的な申請書のようなものが書かれている。
「最強の矛と盾である貴殿らの関係を、公的にも盤石なものにすべきです」
彼女は、書類を指先でトントンと叩いた。
「……公式なパートナーシップ、すなわち『結婚』を推奨します」
「…………は?」
カイルの口が、ぽかんと開いた。
思考が停止する音が聞こえてきそうだった。
「精神的な支柱の安定は、戦場での生存率を上げます。貴殿らは既に互いを深く信頼し合っている。ならば、それを法的な形にすることで、迷いを断ち切り、守るべき対象を明確化することは、戦術的に極めて理にかなっています」
セレスティーナは、あくまで真面目だった。
彼女にとって、これはロマンスの話ではない。
純粋な、軍事的強化プランの一環なのだ。
「ちょ、ちょっと待て! 総長!?」
カイルが、慌てて身を乗り出す。
「はあ!? 戦術の話からなんでそうなる!? いや、嫌じゃねえけど……いや、嫌とかじゃなくて!」
カイルの顔が、みるみるうちに赤くなっていく。
彼はちらりと隣を見た。
「……!」
そこには、眼鏡の奥の目を限界まで見開き、彫像のように硬直したイリスがいた。
彼女の白い肌が、首筋から耳、そして顔全体へと、まるで熟したトマトのように真っ赤に染まっていく。
「け……けっ……」
イリスの口から、ひゅー、という空気が漏れる音がした。
あまりの衝撃に、言葉が出てこないらしい。
「な、なんですかいきなり! そんな、作戦命令みたいに言われることかよ!?」
カイルが抗議するが、セレスティーナは眉一つ動かさない。
「命令ではありません。推奨です。ですが、データによれば、パートナーを持つ兵士の生存率は、独身者よりも有意に高い。特に貴殿らのような、互いをカバーし合う関係性においては、その効果は絶大です」
「データって……あんたな……」
カイルは頭を抱えた。
この総長、有能すぎて時々常識がぶっ飛んでいる。
「……わ、わたくしは……」
ようやく、イリスが口を開いた。
その声は、小動物のように震えている。
「き、騎士として……姫様をお守りすることが……全てで……そのような……個人的な……幸せなど……あわわ……」
彼女の目は泳ぎまくり、もはや焦点が定まっていない。
カイル殿と……結婚……?
その言葉の破壊力は、帝国軍の魔導砲よりも遥かに強力だったらしい。
「即答は求めません。ですが、次の作戦までに考えておくように」
セレスティーナはそう言って、書類を二人の前に押しやった。
執務室を出た二人の間には、これまでにない、どうしようもなく気まずい、しかしどこかむず痒いような沈黙が流れていた。
「……おい、イリス」
「は、はいっ!!」
カイルが声をかけると、イリスが過剰に反応して飛び上がる。
「あー……なんだ。総長の言うことは、まあ、極端だけどよ」
カイルは、照れくさそうに頬をかきながら、そっぽを向いて言った。
「……俺は、別に、お前となら……その、悪くはねえと、思ってるからよ」
「~~~~っ!!!」
イリスの頭から、プシューという音が聞こえた気がした。
彼女は顔を両手で覆い、その場にうずくまってしまった。
◇◇◇
首都エルムヘイム。
俺は、執務室の窓から夜の街を見下ろしていた。
街灯の明かりが、平和な日常を照らし出している。
何も知らない民たちが、家族と笑い合い、明日への希望を語り合っている。
その平穏を守るために、俺たちは戦わなければならない。
(公人としての責務か……)
アルバート卿とジュリアス殿の進言。
セレスティーナ総長の提案。
国家存亡の危機という巨大な嵐を前に、俺たちは「個人の感情」と「公的な責任」という、もう一つの戦場に立たされていた。
守るべきもののために、俺は何を捨て、何を選ぶべきなのか。
夜風が、俺の熱くなった頬を冷やしていく。
だが、胸の中の迷いは、まだ晴れそうになかった。
嵐は、もうそこまで来ている。
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