014 シルベルト・フォン・アグニノス
「ここは…」
石畳を軽やかに馬が馬車を牽いて進んで行く。貴族街を抜けたさらに奥、アグニノス伯爵の屋敷はそこにあった。手入れの行き届いた庭園を眺めながらノエルは自分が場違いなところへ連れられてきたことだけは理解した。
シルベルトが喚いて宿屋を飛び出していってから数時間後、知らない人がやって来て母と二人で馬車に乗せられた。シルベルトの使いの者と名乗ったその人は、身なりがきちんとしていて一生関わるはずがない人種の類いであることが分かった。馬車も商人が乗るような粗末な物ではなく、装飾が細部にまで施された、いわゆる貴族が乗るような物に見えた。
おかしなことになった。これまで経験したことのない種類の緊張に包まれ、変な汗をかきながらノエルは帰れないのではないかと外をとにかく眺めた。隣には母親が眠るようにもたれ掛かっている。
「どうぞ、到着いたしました」
見たこともないような大きな屋敷の前で馬車が停まると、扉が開いた。促されるまま馬車を降りると、目の前の屋敷の大きさを改めて実感する。
「無事着いたみたいだな」
知った声に振り返ると、シルベルトが普段着ないような清潔感のある服装をして立っていた。理解が追い付かず目を白黒させていると、シルベルトが爽やかな笑みを零した。
「ようこそ、ここが僕の実家だ」
◇
屋敷の中は全ての廊下に絨毯が敷き詰められている。価値は分からないが、とにかく高いことだけは分かる壺や絵画が飾られている。上を見れば天井は高く、綺麗なシャンデリアが証明としていくつも配置されていた。
言われるままシルベルトの後を付いていく。さらにノエルの後ろを車いすに乗せられた母とそれを押すネコの獣人メイド。
そして廊下の角を曲がった先の一室に入る。部屋の中も広く、シンプルに着飾られてはいるが触れることも躊躇するような調度品が置かれている。そこにベッドが一つと白衣を着た初老の男性が待っていた。
「病院は嫌だって言ってたからな、ここなら文句ないだろ。医者もこの家専用の医者だから安心しろ」
「どうも、この屋敷で医師を勤めさせて頂いていますマルティネスです。さあ、お母さまをベッドへ。さっそく診てみましょう」
「そういうわけだ。安心して任せるといい。お前は僕と隣の部屋へ行くぞ。説明が必要だろ?」
普段の雰囲気と違うシルベルトの言うままに隣の部屋へ移動する。部屋の造りは一緒だがイスとテーブルが用意されている。そこに二人で座ると、ネコのメイドが紅茶を用意する。
「あの、シルベルト…さんは、もしかして貴族なのですか…?」
「ふふ、抑えてるつもりだが僕の隠しきれない気品が滲み出てしまってるかな?そう、何を隠そう僕は貴族だ。シルベルト・フォン・アグニノス、アグノニス伯爵の至宝とは僕の事だ」
「貴族…」
最後は何を言っているのか分からないが、状況が目の前のブタが貴族であることを物語っていた。それも伯爵だ。貴族にも階級があり、伯爵は上の部類に入る。気に入らないことがあれば指一つ動かすだけで自分の都合の良い方へ捻じ曲げることも可能な人種。
ノエルの主観が入ってはいるが、貴族とは概ねそういったものである。少なくとも普段接する機会のない平民であるノエルにとってはそうだった。
「どうして、助けてくれるのですか?」
「ふん、いつもの威勢はどうした。僕が貴族と分かった途端に敬語か?別に普通に話して構わないぞ、なんせ僕らは仲間だったんだからな」
仲間だった。そう言ってシルベルトはため息をつく。さすがにノエルでも貴族に無礼な態度を取ればどうなってしまうのかは想像できた。今までは知らなかったからブタだの無能だのと罵ってこれたが、これからは白いモノでもシルベルトが黒と言えば黒と答えなければならない気がした。
「貴族の中には、正体を隠して平民に紛れていろんなことをしている奴らがいる。簡単に言えば人生経験ってやつだ。僕は家を継ぐまでの短い期間、憧れだった冒険者をやることにした。カッコイイよな冒険者って。剣や魔法で危険も顧みず、魔物と戦って、いつか英雄とか呼ばれたりしてな…」
ノエルは黙ってシルベルトの話を聞いた。ノエルも貴族がお忍びで冒険者をやっているという噂は聞いたことがあった。それがまさかシルベルトのことで、自分の所属するパーティーにいるとは思いもしなかった。
「…まあ、お前たちが僕を追放したことで僕の冒険者ライフは幕を閉じたわけさ。ノエル、僕はどう思ってると思う?」
「どうって…」
冒険者に対する憧れから始まり、これまでの思い出を語った後、追放したことを持ち出してくる。追放されたのはシルベルトの自業自得ではあるが、性格からして自分たちを恨んでいるのだと思う。しかしそれを口にするのが怖い。目の前のシルベルトは冒険者ではなく貴族なのだ。
「もちろん復讐してやるよ。パーティーメンバー全員不幸にしてやろうと思ってる。後悔させてやるんだ、今まで僕を散々バカにしてきた、その報いを受けさせてやる」
口元をいびつに歪めるシルベルト。貴族に恨みを買うなどと、この世にこんなに恐ろしいことがあるだろうか。
「今までのことは謝ります。どうか、許して下さい」
「おいおい、そんな軽い謝罪なんて求めてないんだよ。僕はお前たちを苦しめてやりたいんだよ。僕の味わった苦痛と同等、いやそれ以上のものをな」
「じゃあどうして、私たちを助けてくれるんですか?」
矛盾していると思う。不幸にしてやりたい相手に治療費を渡したり、母の病気を治すために動いてくれるだろうか?今こそ私に復讐する絶好の機会だと思う。
「助ける、か。僕にもポリシーがある。人の褌で相撲を取るようなマネはこの高貴なプライドが許さないんだ。本題に入ろう。ノエル、僕がお前に望むのは人間の尊厳を捨てる事だ」
「人間の尊厳…?」
「僕の奴隷になれってことだよ。冒険者を辞めて一生僕に奉仕して生きていくんだ。楽しそうだろ?」
「ひぃっ」
シルベルトがブタのような笑みを浮かべている。ノエルはその意味を想像して身震いした。
シルベルトの、貴族の奴隷になるということはあれだ。暗くてジメジメした地下室で鎖に繋がれて、ボロ布を着せられて満足に食事も与えられず、死ぬまで閉じ込められるということだ。
そして欲望のままに、男を知らないこの身体を弄ばれて性のはけ口にされるんだ。シルベルトがいやらしい目で見てる。やはり貴族が年端もいかない少女に劣情を抱くという話は本当だったのだ。
「もちろん拒否することは許されない。分かってるよな、お前の母親はお前を繋ぎ止める『鎖』だ。お前の返答次第で母親がどうなってしまうのか想像できるだろ、ん?」
「そんな…」
「よく考えろ。僕が助けなきゃ母親は死ぬ。今までの治療費も払えず、新しく入院する金も無い。このままでは犯罪者として牢屋にぶち込まれる。そこでは治療もクソもないだろう、冷たい牢屋の中で独り死んでいく。そんなふうにさせたいか?お前が僕の奴隷になるのなら母親を助けよう。これまでの治療費も貴族である僕からすれば大した額じゃない。さあ、どうする?」
こいつは私たちを助けたわけじゃない。私の身体目当てに優しい振りをしていただけだったんだ。でも言ってることは正しい。私が我慢すればお母さんを助けることができる。貴族という生き物に目を付けられた時点で、もう逃げ道はどこにもなかったのかもしれない。
私はイスから立ち上がると床に伏した。いつだったかシルベルトが要求してきた土下座の恰好だ。
「…お願いします。私を、奴隷にしてください……」
「ぶひひっ、よく言えました」
ああ、きっと今から犯されるんだ。隣の部屋にはお母さんがいるのに…。
知らず涙が流れた。でも大丈夫だ、私はもう人間じゃない、人以下の奴隷なんだから…。




