第四部:3
二コマから五コマまでみっちり授業を受けた俺は途中で晩飯を買うためにコンビニに寄ったものの、まっすぐとアパートへ帰った。
(五花がアパートに戻ってきた形跡はないな)
実は今朝、彼女の部屋のドアの目立たない位置にレシートを挟んでおいた。彼女がドアを開けたことが分かる単純な仕組み。ミステリーにおいては致命的な欠点がある密室保持方法だが、現実においては効果覿面だ。よくストーカーが使う手口なので御来屋は渋い顔をしていたが、やはり彼も五花のことが心配なのだろう。最終的には黙認してくれた。
(回収しとくか)
今日はもう外に出る予定はない。自分の部屋にさえいれば彼女が戻ってきたことは分かるだろう。こんな勝手に探るような真似がバレれば怒られる。いや、怒られない方が問題かもしれない。
俺は五花の部屋の前に行き、挟んでいた白い紙をサッと引き抜いた。
(ん? ああ……このレシートだったのか……)
テキトーに財布から取り出したそれの表にはコンビニでタバコを買ったことが記されていた。そして、裏には名和の携帯番号が。
(何か捨てにくいよなあ)
今朝、学食に行ったときにあんなことがあっても俺は樹にならなかった。樹になる最終条件は決定的な失恋。しかし、俺に関してそれはありえない。だから、病異について名和に相談することはないはずなのだが、報告と連絡をする可能性は微かにある。所謂、微レ存。これから先、俺と同じ病異にかかる者がいるかもしれない。もうかかっている者がいるかもしれない。そんな彼らの力になれるようにと思ってのこと。まあ、最初の〇九〇を除けばたった八桁の番号なので暗記しているが。伊達に数学科所属でない。酒に酔っても四則演算くらいならできるほどだ。
(それにしても「のぞむ」ねえ……)
湖山さんが明日会う予定の男の名。下の名前なのか。どんな漢字を当てるのか。そんなのはどうだっていい。名前なんて記号。問題なのはそいつが今、湖山さんに好意を向けられている事実のみだ。
(どんなやつか見定めてやりたい)
彼にある何が彼女を惹きつけたのか。俺より何が勝ってるのか。それを知りたかった。知っても彼を認めはしないが。
(問題はどうやって逢引きしてる現場を目撃するかだよなあ)
幸いなことに火曜日は三コマ目しか授業は入っておらず、さらに明日は休講ときたものだ。つまりは全休。自由に動くことが可能。五花がにいてんごで湖山さんがねんぷちなら、俺はfigmaだった。グッドでスマイルなアクションフィギュアである。
(そういえば、一般教養の授業で冬休みに課題出すなんて珍しい)
そして、ほとんどの課題は授業開始時か授業前日に提出を求められる。今朝、湖山さんたちは一コマの授業が行われている間にレポートを提出しようとしていた。すなわち、明日、何かしらの一般教養の授業を受けるということではないだろうか。彼女が受けそうで課題が出る授業。それさえ分かれば教室から出てくるところを待ち伏せできる。
(さあ、今こそ彼女のツイッターを追いかけてきた本領発揮だ)
五花の部屋の前から立ち去って自分の部屋に入った俺は、押入れから講義の学習計画が書かれたシラバスを引っ張り出す。それと湖山さんの過去のツイート群。これだけあれば何でもやってのけれる気がした。
(分かった。火曜日二コマにある西洋演劇史入門だ)
僅か五分足らずで導きだす。小さな教室で開講されている少人数制の授業。俺が難しそうという理由で見向きもしなかったものだ。
(そうと決まれば明日も早めに起きないと)
二コマの終了時刻は正午ジャスト。当然、そのときは教室近くで待機している。しかし、読みが外れる場合だって十分ありえる。五花はあの日、俺に推察力があると言ったが自分ではとてもそうとは思えない。なので、保険のために早い時間から大学に行って構内を巡回しようと思っていた。「なんて無駄なことを」と失笑する者もいるかもしれないが、馬鹿は馬鹿なりにそれを自覚して行動しているのだ。
(一応、御来屋に明日の朝起こしてほしいと頼んでおこう)
おそらく今日早めに起こしてしまったことの反省を踏まえて、あいつは明日は何時に俺を起こせばいいか五花に訊いたおそれがある。そうなると、普段の火曜日は三コマしか出席しない予定なので、昼前にやってくることになる。それでは駄目だ。最低でも一コマ終了時刻の十時十五分までには大学にいたい。こんなずうずうしいお願いはメールでなく電話ですべきであろう。しっかり誠意というものを見せなければ。俺はスマホのアドレス帳から御来屋蔵之助の番号を呼び出した。
「あっ、もしもし」
『何ですか? 先輩。新年に入ってから名前を間違えないんですね。さすがに飽きましたか?』
「んーいや、飽きたというかようやくネタ切れって感じかな」
実際はふざけるゆとりがないだけなのだが。けれど、それを悟られたくはないのでお茶を濁す。五花のことや今朝の学食のことでただでさえ心配をかけているというのに。
『うーん、そうなると寂しいというか物足りないですね……まあ、いいです。で、何の用ですか?』
御来屋の精神状態を判断する材料が声だけにシャットダウンされているので気を遣っているのがありありと分かる。分かってしまう。彼は表面上だけで気丈に振る舞っているのだ。やはり、今朝の段階からすでに俺を不審に思っていたのだろう。
「ええと、明日の朝のことなんだけど……」
だからこそ、俺も声色に細心の注意を払わなければならない。払わざるを得なかった。
『ああ、はい。いっちゃんから聞いてますよ。明日は先輩、授業がないから起こさなくてもいいんですよね?』
「ん? 何だ。もう五花と連絡してたか」
と、ここで違和感を覚える。歯と歯の間に細い筋のようなものが挟まっている感覚。それの正体は舌先で探れば分かりそうなものなのに、このときの俺はなぜか分かろうとしなかった。
「でも、あいにく明日は早めに起きないといけない用ができたんだ。そうだなあ、九時くらいに頼めるか? もちろん、お前の都合が悪ければ自力で起きるよう努力するけど」
元より湖山さんのためなので何とかなる。御来屋に頼んでいるのは保険の意味合いが強い。保険に保険をかける多重保険。
『「九時」ですか……大丈夫ですよ。ただし、すぐに起きてくださいよ。先輩の寝顔なんて長い間見たくないですし、それは本来ならいっちゃんの役目なんですからね』
しなやかでありながら堅牢な声遣いが電話口から俺の耳にダイレクトに届いてくる。決して面倒だと思っているのでなく、俺たち兄妹が元通りの関係になるのを願うような雰囲気だった。
「その通りだな。分かった。もし明日、大学で五花に会ったら話してみるよ。俺が言えたことじゃないが彼氏をこき使うなってな」
『ははっ、お願いします。では、先輩。要件はこれで終わりですね? だったら、失礼します。またいつか三人で楽しく騒ぎましょう』
「ああ」
そうして、俺と御来屋の会話は終わった。いつもの無駄話も一切なしに。最後、彼が少し強引に電話を切ったのは演技を貫くのがつらかったからだろう。俺も同じだった。
(『三人』か……それは叶わないんだろうな……)
あるとしたら湖山さんを含めた四人。もしくは俺が欠けた二人だから。人を好きになった結果が樹なんて馬鹿けている。死にたくなんてない。
(じゃあ……そろそろ『殺戮にいたる病』を読むか)
タイトルから禍々しいオーラが放たれている。殺戮にいたる異常なる病。病異。今の自分に誂えたようなそれに俺は魅せられてしまった。
その文庫本を手に取り、ベージを捲る指が震えだす。今さら気づいたが本は紙――つまり、樹でできている。俺は読書をすることで好きな子に近づこうとすると同時に樹に近づいていたのだ。だからと言って、電子書籍を読んでいれば病異に侵されずに済んだというわけではない。ただこの不思議なまでの整合性に美しさを見出しただけであった。
それから今までの人生の中で最も濃縮された二時間が過ぎ去った――。
(な、何なんだ……? これは……?)
所謂、これも最後で大どんでん返しをする叙述トリックものだ。倒述形式で犯人が最初から判明しているものの、実は意外な仕掛けが施されているサイコミステリー。しかし、俺はそれに驚いたのではない。
(これに描かれている愛はなんだ……?)
この小説の主人公は何かに憑き動かされるように惨殺と凌辱――すなわち、屍姦を自分の眼鏡にかなった女性に繰り返していく。永遠の愛を掴みたいと願って。屍姦――たった一度きりの独りよがりなセックス。しかし、彼はそれをあろうことか本物のセックスと称した。彼が軽蔑する他者がするものは本物のセックスの真似事、愛の名の許に行われる相互マスターベーションに過ぎない。セックスとは殺人の寓意に過ぎないのだと――。
「はあ……はあ……はあ……」
俺の息遣いは今にも悶え死ぬんじゃないかというくらい荒くなる。そして、下腹部の一点――股間部はなんとはちきれんばかりに勃起していた。ジーンズを穿いているので非常に窮屈。なので、俺はゆっくりと屹立したそれを外に出してやった。脱いで放りだしたジーンズとパンツの温もりは愛が生み出す副産物である。主産物は言うまでもない。
「湖山……さん……いや、莉菜……」
スマホで開いた彼女のツイッターアカウント――莉菜自身。俺はそれに己の尿道球腺液が滴る陰茎を押し当てて下へとスライドさせた。
俺のする失恋は異常でも俺のする恋は異常ではない。
それをしっかり確認するための更衣で好意で行為であった。健全なる青少年が好きな女子に告白することは決して綺麗なものではない。なぜなら、それは「あなたを毎晩想ってオナニーをしています」と告げる不気味な白状でしかないのだから。
不気味――気味がなくて気味が悪い。君がいなくて君が悪い。
(ああ、莉菜。早く目を覚ますんだ。なぜ他の男を好きでいるんだ)
膨らみを増していく陰茎は再度、彼女を撫でにかかる。
こうして、この部屋で過ごす最後の夜は更けていった――。




