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第四部:2

 唐王大学第一食堂は朝の八時から営業している。八時四十五分開始の一コマ前に朝飯を済ませたい者へ配慮してのことなのだろうが、その一コマが始まってしまえば途端に人は少なくなる。

 午前九時頃。がらがらの学食にやってきた俺と御来屋の二人はテキトーに選んだ窓際の席に荷物を置いた後、トレイを持って粋なおばちゃんが構える丼ぶり・カレーコーナーへと足を向けた。

「すみません。カツカレー中辛を二つで」

「あいよ! 朝から食欲旺盛だねえ!」

 普段の俺ならここで御来屋にいたずらするため「一つは超激辛でお願いします」と注文するのだろうが、あいにく今はそんな気分でない。これは後ろめたさを解消するための不正。だからこそ、馬鹿馬鹿しく片づけていいものではない。

 おばちゃんが出してくれたカツカレーをそれぞれトレイに載せたまま、次はレジへと向かう。昼や夜の混雑時はレジスター四台とパート・学生バイト合わせて四人がフル稼働するのだが、今は客が少ない一コマ授業時間。レジスター一台の前に暇そうな男子学生バイトが突っ立ているだけであった。

「あっ、こいつの分も合わせて俺が払いますから」

 忘れないようにすぐ後ろに並ぶ御来屋を親指で指しながら前置きをする俺。バイトの男子学生はそれをチラッと認めた後、少し慣れない挙動でレジを打つ。

「八百三十八円です」

 俺はスッと無言で千円札を差し出す。必要性に駆られなければこれが通常スタイル。無愛想。愛を想うことはない。少なくとも男には。

 それから、セルフサービスのお茶を酌んで再び窓際の席へと戻る俺たち。道すがら学食全体を眺めると、片手の指で足りるほどの人しかおらず俺と御来屋を除けば皆一様にもくもくと勉強していた。

「ああ、あと一か月で期末試験でしたか。早くから準備なんて感心します。先輩は今年、単位は大丈夫なんですか?」

 座るために椅子を引きながら彼は鷹揚に尋ねる。

「さあな。少なくとも去年の二の舞にはならないはずだ」

 俺も同様にして答えて語尾を言い終わると同時に腰を下ろした。二の舞にならないのは妹が毎朝、俺を起こしてくれたから。でも、それがなくなってしまったら、どうすればいいのか分からない。如何せん御来屋では強制力に欠ける。今日は初回ということで大目に見てやったが、次回から俺がすんなり起きるかどうかは不明なのだ。それに一か月先を生きている保証はないのだから。とりあえず、谷を越えないことには。

「そうですか。とは言っても僕も英語で苦戦してますから勉強しなければなりません」

 やっぱり、苦手なのか。しかし、他の科目は得意なようで特に勉強しなくても大丈夫な様子。まあ、基本的には優秀なのだろう。

「ええと、御来屋くんだっけ? 五花ちゃんの彼氏の」

 そうやってカツカレーを前に成績について懸念していた俺たちに突如として声がかけられた。聞き覚えのある女子のものだ。

(なっ……!?)

 イギリスを舞台にした超魔法ファンタジー小説のヒロインみたいな髪色・髪形をした声の主を見て驚いたのではない。その隣りに立つ呪いをかけた張本人――湖山莉菜を目にして驚いたのだ。そして、彼女は何やら不安そうな顔をしていた。

「そうですけど……何ですか?」

「ちょっとこの子が訊きたいことがあるんだけど、隣りいいかな?」

「はあ……まあ、いいですけど」

 一方、御来屋は怪訝な顔をしていた。何だ……? もしかして湖山さんが好きな男というのは御来屋蔵之助のことなのか? そんな伏線はどこにもなかったはずだが……。

 了承を得た彼女たち二人は俺たちの隣りに座る。正確に言えば五花と湖山さんの共通の友達であると思われる女子は御来屋の横に。湖山さんが俺の横にという形でだ。おお、そんなドキドキしてしまう。二人の(物理的)距離の概算は三十センチ。人はパーソナルスペースというものを持っている。パーソナルエリアとも呼ばれるそれは他人に近づかれると不快に感じる空間のことを意味するものだ。確か三十センチはごく親しい人にのみ許される密接距離の範囲内だったか。つまり、俺が湖山さんと親しくなるのは容易ということではないのか? いや、待てよ。逆に女子は異性として意識している男の斜めとなる位置に座るのを選ぶと聞いたこともある。やはり、御来屋のことが好きなのだろうか。

「ほら、莉菜。これくらい自分で訊きなさい」

 頬を綺麗な桜色に染める湖山さんは女友達に背中を押される。それから逡巡しながらも愛らしい唇はおもむろに動きだした。

「あの……御来屋くん……私の周りに彼女がいる男子がいないから訊きたいんだけど、一週間後に大事なことが控えている好きな人に会いに行くのって迷惑なことかな……?」

 そして、残酷な真実は告げられた。いや、初めから分かっていたことだ。湖山さんには好きな男がいてそれが自分でないとは。けれども、俺は思ってしまったのだ。もしその男が御来屋だったらどんなに良かっただろうかと。だって、こいつは五花しか興味ないのだから。

「うーん、少なくとも僕は迷惑だと思いませんねえ。僕の場合、大事なことは大会ですが、一週間前にちょっと女子に会っただけで調子が狂ってしまうのなら真の力ではありません。対してその逆は別です。人に会って応援されることで発揮される力。それはその人が本来から持っているものですから」

 おそらく『大会』がカードゲームのものと分かればまた違ったのだろうが、彼の言葉は湖山さんの身に染みたらしく可愛い顔を不安から安心へとすぐさま変移させた。

「そっか……そうだよね。ありがと。瑠香(るか)ちゃん、私、決めたよ。(のぞむ)くんに明日少しだけ会う」

「うん、私もそれがいいと思う。ああ、こっちからもありがとね、御来屋くん。それとそこの理学部の先輩も。イブにうちの演劇を観にきてくれたでしょ?」

「ええっ? そうなんですか?」

 湖山さんはよっぼど驚いたようで目を丸くしながら俺を視界に収める。どうやら受付で覚えられてしまったらしい。「はい」としか答えない挙動な不審が原因だったのかもしれない。

「ええと……」

 これが彼女との初会話になってしまうのか。実はまだミステリーは十冊も読んでない。湖山さんが特に絶賛する三冊のうち『殺戮にいたる病』も未読である。

「ああ、観たよ。すごく良かった。『ハムレット』を男女逆転させる発想とか特にな」

 小学生の書く作文かよって感じだが、何とか言葉を紡ぎだすことに成功。俺は彼女にどんな男だと思われているだろうか? 変なやつと思われてしまってないか?

「あっ、はい、ありがとうございます。じゃあ、私からそれを提案した人にちゃんと言っておきますね」

 しまった。ここは彼女の演技を褒めるべきところだったはずだ。しかし、もう遅い。妹以外の女子との会話における切り返し力を俺が持ち合わせているわけがなかった。

「と言っても、あまり演劇を観ない素人の意見だけどな。真に受けない方がいいよ」

 ただ彼女が俺に向ける笑顔は至上だった。拙くとももう少し会話をしていたい。たとえ彼女に他に好きな男がいたとしても彼女を求めたい。

「ふふっ、そんなことないですよ。素人だからこその意見もありますから。それじゃあ、私たちはレポートを先生に提出しなければならないので失礼します」

「そうか……二人とも同じ学部なんだな」

 けれども、それは叶わない。

「いえ、瑠香ちゃんと私は違う学部ですよ。一般教養の授業で一緒ってだけです。じゃあ、改めて御来屋くん、先輩。本当にありがとうございました。春にも演劇をする予定なのでぜひ観にきてくださいね」

 ただし、今のところは。俺に邪気のない笑顔を向け続ける彼女を見て未来になら望みはあると確信する。好きな人に好きな異性がいるのを知ったときを一般的には失恋と称すのだろうが、俺にはそもそも失恋するタイミングが分からなかった。決して諦めない限りチャンスが訪れる可能性は永続する。

 俺たち二人は彼女たちが学食を去っていくのを見届る。完全に姿が見えなくなった後、御来屋は食い入るようにして俺を見つめてきた。

「先輩……もしかして、あの子が湖山さんだったんですか……?」

 まるで自分が失態を犯したのではないかと心配するような顔で。

「ああ。でも、お前が気にすることは何もないよ。お前はただ正直に五花への愛を捲し立てただけに過ぎないんだからな」

「ですが……」

「だから、いいって。たとえ湖山さんの質問に対して別の答えを返していたとしても、彼女はきっと明日、好きな男に会おうとしたはずだ」

 女子というのは得てしてそういうもの。相談するときにはすでに自分の中で答えが固まっているのだ。ただ後押ししてもらいたいだけ。

「それに……」

 少し冷めてしまったカツカレー。それに静かに目を落としながら俺は空回りな言葉を続けた。

「敵の存在が明確になって良かった」

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