第四部:1
一月七日。月曜日。
冬休みは昨日で終わり、今日から後期の授業が再開する。当然のように出席するために起きなければならないのだが、あんなことがあって五花が起こしにくるはずがなかった。というか、彼女は唐王に戻ってきているのだろうか? 昨日の夜、ベランダから隣の窓を確認しても在室している様子はなかったが。
「起きて……」
ん? 何だ。ちゃんと起こしにきてるじゃないか。しかし、俺の妹はこんな声だっただろうか? 若干、低いような……。
「早く起きてください!」
「って、お前かよ!」
バッと俺の被っていた布団を勢い良く引っ剥がした男。それは御来屋蔵之助その人であった。
「はい、僕です。明けましておめでとうございます、先輩。こたつの上に置いてあるのはあなたが頼んでいた東京バナナですから、腐らないうちにどうぞ」
えっ? 何これ? 誰が得する展開なの? バナナと腐らないうちというメタファーがもう嫌だ。拒否反応を示してしまう。
「ああ、ありがと……起こしてくれたことも含めて」
でも、それを無下にできるほど礼儀がないわけでない。だいたいにして俺が指定して頼んだものだ。東京と聞いて東京バナナしか土産として浮かばない貧層な頭をしているのだった。
「いえいえ。僕は二コマまでの時間を図書館で潰しますから」
「ん? 二コマ? いやまあ、俺もそうなんだけど……」
充電ケーブルに繋がれたスマホを手に取って時刻を確認してみると、午前八時。二コマの開始は十時半からなので大分余裕がある。言ってしまえば、もう少し眠ることができた。
「あっ、すみません。どうやら早く来すぎたようですね。昨日、東京から帰ってすぐに駅でいっちゃんと会ったとき、ただ合鍵を渡されて先輩を起こすようにしか言われませんでしたから」
「五花が……」
三日前に勃発した川原での騒動。あれ以来、俺はあいつの姿を見ていない。一応、荷物持ちの役目を放棄したことについて詫びのメールを送ったのだが一向に返信は返ってこない。そして、彼女は授業がある日に俺を起こす役目を放棄して代わりに御来屋を寄こしてきた。これが答えだとでも言うのか。
「……先輩。いっちゃんと何かあったんですか? しばらくは実家から大学に通うらしいですが」
御来屋は俺たち兄妹に不穏な空気が流れているのを察してか神妙に尋ねる。その質問に答えるには後ろめたさが伴う。だって、俺はお前に頼まれたことをまっとうできなかったのだから。
「さあな、分からない。もしかしたら、お袋の作る料理が美味いから戻ってこれないだけかもしれない。親父だって五花が帰ってると喜ぶし」
なので、はぐらかすのに留めた。五花が隣りの部屋に戻ってくる――すなわち、俺の隣りで眠ることはもうないのだろうか。
「まあ……先輩と違っていっちゃんはご両親に愛されて育った感がありますからね……無理ないかもしれません」
かなり苦しくも形だけ納得させることに成功。いつもの生意気な軽口も今回は気にならない。気にする余裕はなかった。
「お前、朝飯食ったか?」
「いえ、まだですが。それがどうかしましたか?」
「いや、学食くらいなら奢ってやろうと思って。ほら? 去年の末にあったパンツ騒動でお前に迷惑かけたしさ」
いや、違う。パンツを返させたことに今さら罪悪感なんて覚えていない。今、感じる後ろめたさを解消するために俺はズルしてるのだ。
「うーん、それじゃあ、お言葉に甘えて奢ってもらいましょうか。二コマまでの時間潰しにもちょうどいいですしね」
良かった。もしここで断られたら俺はこいつの財布に札を入れるしか道がなかったところだ。
「ところで、先輩。さっき布団を引っ剥がしたときに、この黒い葉っぱのようなものが落ちたんですが心当たりはありますか?」
「っ!?」
俺は目を背ける。八一九二個の黒点がついた葉。それが何も知らない御来屋の手によって掲げられていた。
「すまない……ベランダに捨てといてくれるか……」
そっぽを向いたまま震え声を抑えながら口にする。不気味。気味がなくて気味が悪い。そんなものが自分の部屋にあるのが急に耐えられなくなったのだ。今までは平気だったというのに。
「ん? まあ、分かりました。自然に返すのが一番ですしね」
少し腑に落ちない表情をしていたものの、御来屋はすーうと息を引くようにベランダへと続く窓を開けて漆黒の葉の行方を風に委ねてくれた。
「ふう……」
とりあえずはこれで一安心。すぐに太陽の光に当たって霧散してしまうことだろう。この世から消え去ってしまえばいい。ああ、おそらくこれが谷。そして、その谷越えは決して時間を要すものではなかった。




