第三部:6
午後三時頃。
マクドナルドを後にした俺たちは無事に商店街で買い物を済ませ、川原通りを中継して帰路に就いていた。子どもの頃、よく五花がタンポポを摘んでいた川原。冬のタンポポは寒さをしのぐために葉をロゼット状に這わせて冷たい風を避けていた。そして、太陽の光はそれに最低限の安らぎを与え、せせらぐ川にキラキラと視覚的美しさを生じさせる。
「よし、また十分経ったな」
食事中じゃなくても五花の前ならスマホチェック縛りのルールは継続中。俺は空いている左手でコートのポケットからスマホを取り出す。荷物持ちと言っても片手だけで収まる程度。服ばかりなのでそんなに重くもない。五花一人でも十分持って帰ることのできる量のはずなのだが、なぜか付き合わされてしまった。本当はもっと買う予定だった。しかし、お目当てのものがことごとくなかったに違いない。
俺は湖山さんのツイッターアカウントにアクセスした後、スマホ画面につけた親指をサッと下へスライドさせた。
「んっ!?」
新着一件。約七時間ぶりの更新。それを見ると湖山さんがすでに唐王市に戻ってきていることが分かった。
『唐王駅なう。友達と買い物してたらあおやんと会ったー。今日もよく分からない面白いこと言ってる(笑)』
これがつい一分前のツイートだ。あおやん? 誰だ? 何というか男につけそうな間の抜けたニックネームである。もしや湖山さんの好きな男とはこいつのことか。
「五花。悪い。俺、唐王に戻ることにする。親父やお袋にもそう伝えておいてくれ」
あと十五分ほどで最寄りの駅から唐王駅行きの電車が発車するはずだ。
「えっ!? ちょっと! 荷物はどうするの!」
そして、その最寄りの駅は商店街の方に引き返した先にある。とてもじゃないが家に荷物を運びこむ暇はない。
「だから、悪いって言ってるだろ。荷物は自分で持って帰ってくれ」
俺は服が入って丸っこくなったビニール袋を五花に向ける。しかし、それを持っていた右手がパンと払われた。
「あっ!? 何やってんだよ!」
丸いビニールは推進力を伴って川原の坂を転がっていく。幸い平らな土手が摩擦力で川に落ちるのを防いでくれた。
「……とりあえず、俺は行くからな」
一瞬の逡巡を打ち消す。現在、湖山さんは唐王駅にいる。しかも、好意を持っている男と一緒の可能性がある。行かないわけにはいかなかった。バッと振り返った俺は大股で右足を前に出した。
「なんで……せめて……拾いに行くくらいはしてよ……」
だが、五花は川原を走るなんて青春を俺に許しはしなかった。後ろに振るった右腕。それがガシッと万力のようなもので掴まれたのだ。前に走りだすことは到底、叶わない。
「五花! 手を離せっ! このお詫びはいつか必ずするから!」
捻りを加えながら右腕を引き抜こうとする。しかし、抜けない。この妹は一体、どんな握力をしてるんだ。
「駄目! だって、お兄ちゃんがどこかに行っちゃう気がするから!」
「はっ!? そりゃ、そうだろ!」
何を言ってるんだ。なぜここまで俺を必死に引き止めようとする。唐王市に戻るだけだというのに。
「それに蔵之助くんが言ってた。『僕がいない間は先輩を彼氏のように頼ってほしい』って。デート中にばっくれる彼氏がこの世のどこにいるって言うの? ありえないよ!」
「御来屋が……?」
そういえば去年の末、自分が東京に行っている間は彼女のことを任せる的なことを言われた気がする。五花が望むときに側にいてあげてほしいと。でも、別にこれくらいいいじゃないか。ここから家まで歩いて五分もかからないのだから。
「その左手に持ってるスマホが全部悪いんだね……」
そう俺の左手を見据えて言った直後。彼女は獣のように飛びかかってきた。望んでいた右腕の拘束が外される。しかし、あまりにもの出来事にすぐさま走り去ることができなかった。
「えい! えい!」
「させるか!」
スマホを奪おうとする妹とそれを阻止する兄が揉みくちゃになりながら陳腐に戦う。『無限の(リーフ)葉製』『紅蓮の(・)処女』みたいなそれっぽい固有結界を発動させる厨二バトルを展開できないのが残念なところだ。
「はあ……はあ……」
「何? お兄ちゃん、もう息が切れたの? 大人しくスマホを渡して。そこの川に水没させるから」
吐く白い息で視界を埋めながら俺は焦る。こんなところで立ち止まっている場合ではないのに。日頃の運動不足がたたって走る体力すら奪われてしまった。一方で五花はピンピンとしている。
「さすがに走ったり筋トレをしているだけあるな……もしかして兄を痛めつけるためにやってたのか……?」
十日前にも似たようなことを訊いた気がする。なぜ幼稚園児のときからタンパク質を過剰に摂取しようとしてたのか。スポーツやダイエット以外の目的とは何なのかと。そして、彼女は恥ずかしいと理由をつけて答えてはくれなかった。
「違うよ。この際だからはっきり教えてあげる」
しかし、今になって急に答える気になったらしい。どういう心境の変化だろうか。もしくは恥ずかしさを切り捨てることができるほどの緊急事態が彼女に迫っているのか。
「私はね、小学校でいじめられているお兄ちゃんを助けるために強くなろうとしたんだよ。いつも独りでとぼとぼと帰ってくるお兄ちゃんを見てそう思ったの。でも、いざ小学校に上がってみたら全然もいじめられてないじゃん。もう拍子抜けだった。それでも、身体を鍛える癖は残っているから今でもしてるわけ。分かった?」
「はっ?」
いや、拍子抜けなのは俺の方だった。
この妹はたったそれだけ。兄だけのために努力をしたというのか?
馬鹿か。
では、なんで兄のために得た力で兄を邪魔しようとするんだ。こんなのおかしいじゃないか。
「ねえ、お兄ちゃん。私がここまで告白したんだから答えて。本当は私が入学するまでの間、クラスの人にいじめられてたんじゃないの? それとも、ただの勘違い?」
真剣な眼差しで神妙な声で問う五花。自分の行動原理は正しかったのか。それとも、勘違いで間違いで筋違いですれ違いだったのか。
そして、五花と湖山さんが脳内で天秤にかけられる。
ああ、俺が答えるのは迷いなく一つだけだ。
「まったくもっての勘違いだ……俺は今まで誰にもいじめられたことはないし、いじめられたとしても妹に助けてもらいたくない。情けないじゃないか。余計なお世話だ」
がら空きのゴールにシュートを打つように突き放す。と言っても、彼女の努力が水泡に帰したわけでない。身体を鍛えることで彼女が今までに得たものは大きいはずだ。俺はそのきっかけを潰しただけに過ぎない。
「そんな……そんな……」
でも、妹は泣いていた。水泡を垂れ流していた。それを見た俺はまるで彼女が摘んできたタンポポの花弁を毟り取って花占いをしている気分になる。この感情は何なのか。俺たち兄妹の行く末はどうなるのか。
それを占ってくれる者は誰もいない。




