第三部:2
「お兄ちゃん! お湯出しっぱなしだったよ! 何やってんの!」
「あっ! やばい! 忘れてた!」
正午。当然のように俺は五花に怒られた。時間にして約二時間、水道とガスを無駄にしていたことになる。
「もう! お母さんに言いつけておくから!」
「それだけはやめてくれ!」
寝転んでいたソファから飛び降りて、すぐさまスライディング土下座をかます俺。十日前も同じことをした覚えがある。
「でも、いずれ請求書が来たらバレるよ? そのときはどうするつもりなの?」
「それはお前がしずかちゃんのように風呂に入りまくって、のび太くんに覗かれればいい話じゃないか」
両親は何かと五花に甘いので罪をなすりつけても罪悪感は感じない。
「いや、のび太の必要性がイマイチ私には分からないんだけど……ちなみに聞くけど、のび太役は誰になるの? 私がしずかだとしたら」
まるで長年の知己のように漫画キャラの名前を呼ぶ五花。もしかして劇場版で一緒に大冒険したことでもあるのだろうか?
「僭越ながらこの俺が務めてやろ……おっと! もうビンタはなしだぜ? 脆弱なる俺がまた気絶してしまうからな……」
サッと身を翻しながら俺は言う。かわした五花の平手は一度、空を切っただけで停止する。いつもなら構わず追撃を仕掛けてくるのだが、どうやら俺の言葉がしっかり効いたようだ。せめてもの反抗として「むー」と頬を膨らませるだけに留めている。可愛いやつ。
「で、お前は御来屋がのび太くんだと言いたいのか?」
相変わらず本人がいないときは間違えずに呼ぶ俺である。
「うん、そういうこと。知ってる? 蔵之助くん、私のパンツをこっそり盗むくらいスケベなんだよ。ムッツリだよ」
「へえ……そうなのか……男なら彼女のパンツに興味を持っても不思議じゃないだろ……」
返答がたどたどしいのは俺が何かを知っているから。しかし、幸い五花はそれに気づくことなく手持無沙汰さになった手で手遊びしている。
「まあ、俺にとってのあいつはドラえもんだけどな。暇なピンチのときに秘密道具を出してくれるところとかさあ」
さすがの俺もロボットに『くん』や『さん』はつけない。
「お兄ちゃんにとって暇はピンチで敵なんだね……」
「哲学的だろ?」
「ううん、全然。よく考えたら当たり前のことじゃん」
ありゃ? 何ともそっけなく返されてしまう。まあ、こいつは暇を潰すというより殺すような感じだからなあ。常に何かしらの活動をしていないと気が済まない性質と言えば聞こえはいいのか?
「話を戻すけど、御来屋の赤い鼻とか首につけてる黄色い鈴ってドラえもんそのものじゃないか?」
「ビジュアル化されてないからって人の彼氏の外見を好き勝手にいじらないでよ!?」
いや、俺だってビジュアル化されてねえよ。お前や湖山さんはイラストがあるというのに。ラーメン屋のバイトのときだって女子はホールに男子は調理補助に回された。やはり、女子は可愛いので前面に押し出す傾向がある。世知辛い世の中だ。
「はあ……もうお風呂のことはいいよ。だいたい私のために入れてくれたんでしょ? ええとまあ、ありがとね」
五花の身体を上から下に流し見てみるが、どこにも土はついていない。それどころか軽く鼻をひくつかせると、ミルク石鹸の芳香が鼻孔を撫でてくる。おそらくシャワーを浴びるつもりで風呂場に向かった五花は俺の不始末を目撃したものの、すぐには文句を言えなかった。なぜなら、素っ裸な状態であるためだ。シャワーで身体中の汚れを落とした後、ちゃっかりと湯船に浸かる。それから上がって服を着た状態で俺に文句を言いに来たというわけ。だから、彼女は照れ臭そうに礼を言ったのだ。
「そういえば、私に何か用があるんじゃないっけ?」
「ん? あっ、そうそう。そうだった」
五花に言われてハッと思い出す。
俺は毎朝、現れる葉の種類について訊きたかったのだ。
「ええと……あれはどこにやったかなあ」
俺は自分の周りを見回す。引出しから掴み取ったのまでは覚えている。それからどこにやってしまったのか。無意識のうちにもう一度、引出しに仕舞ったのだろうか?
「すまん、五花。ちょっとそこで待っててくれ。すぐ戻ってくる」
小走りでリビングから出て階段を上る。たとえ六四個の黒点がついた七枚目の葉がなくなっていたとしても代わりとなる八枚目から十一枚目の葉は確実に引出しの中に入っている。
ガチャと自室へと続くドアを開ける。そして、中を覗き見てみると引出しは開いたままになっていた。窓とカーテンはしっかり閉めたのに、こっちは閉め忘れたらしい。俺はおもむろにそこへ近づいた。
(あれ? 全部ない……?)
あるのは劣化で黄変した消しゴムと色鉛筆セットだけ。なんと二時間前に存在していた葉がごっそりと全部なくなっていたのだ。
(嘘だろ……)
俺は念入りに部屋中を検分する。しかし、一枚足りともない。
(また風で飛んでしまったとかか……?)
いや、まさか。だって、窓はちゃんと閉まっていたじゃないか。僅かに開けたのは裏庭の五花と話したときのみ。その間に室内をミキサーのように掻き回す風は吹かなかった。
「お兄ちゃんー。まだー? 早く買い物に行きたいんだけどー」
そうやってもたもたしていると下で待たせている五花に急かされる。しょうがない。諦めて戻ろう。どうせ明日の朝になれば新しいものが現れるのだから。そう、さながらRPGの回復アイテムのように。
「悪い、五花。要件が思った以上に長引きそうだから明日、頼むことにするよ。買い物に行こう」
俺はなぜか後ろ髪を引かれながらも妹の待つ階下へと下りた。




