第二部:8
臓物めいた色をしたパスタ。俺はそれを片手に居室へと続く立てつけの悪いドアをギィーと開けた。ここら辺も家賃が安い要因かもしれない。
(よし、葉っぱはなくなってないな)
指差し確認。OK。さすがに消しゴムの下では身動きは取れないだろう。路地裏に一晩で樹が生えただけでもホラーなのにその上さらにポルタ―ガイストなんて許容できない。なので、顔を洗ったことでしっかり目を覚ました俺はなぜあの葉がまた自分の部屋にあったのかを推理した。結果、納得のいく解答を導き出すことに成功した。説明すると至極簡単なことだ。俺は昨日の昼前、こたつ付近で見つけた葉をベランダへと放り捨てた。しかし、その日の夜八時五十分頃。部屋を訪ねてきた五花の様子からあれは彼女の忘れ物だということが判明した。おそらく前日のパーティの準備の合間にやっていたレポートで使うサンプルだったに違いない。まずここまでは何も問題ない。問題があるのは次から。その後、俺と五花は「風で飛ばされてもうないだろう」と思いながらも淡い期待に突き動かされてベランダへと続く窓を開けた。このときだ。明るい部屋に向かい風が吹きつけたのは。はっきりと覚えていないのが口惜しいがこれだと辻褄が合う。
つまり、五花が訪ねてきた夜の段階ではまだ葉はベランダに存在していた……いや、窓の外枠に張りついていたのである。灯台もと暗しとは良く言ったもので窓が開くのをトリガーにしてそれはベランダに出た俺たちのすぐ足元へと落ちた。奥から葉がないか見ていったので当然そこのチェックは最後になる。ほんの数秒で済むこと。しかし、その間にも風は吹いている。風は俺たちに気づかれない絶妙のタイミングで葉を部屋の北東側に置かれたソファベッドへと運びこんだのだ。
(いや、もしくは俺や五花の服に付着させてもいいかもしれない)
その方が自然でもある。特に俺なんかは五花にビンタをされてベランダに倒れ伏したので風に頼らずとも付着させることが可能。そのまま五花が俺をソファベッドに担ぎこむだけで葉も一緒に運ばれてしまう。それが次の日の昼になってようやく発見されたというわけだ。
(これでQED。証明終了だ)
自分の名推理ぶりにドラマやアニメに出てくるような探偵気分を味わう俺。結構ミステリーを楽しむのに適した素養があるのかもしれない。
(さて、早いところ昼飯を済ませて次は『十角館の殺人』を読むか)
昨日買った三冊の中で個人的に二番目に取っつき易そうなタイトル。しかも著者の名前は俺でも聞いたことがあるものだ。湖山さんも絶賛していたしきっと面白いのだろう。
常磐と黒の葉をたまに一瞥しながら掻き入れるようにして赤黒いパスタを食す。そして五分ほどでたいらげた。大学に入ってから独りでもくもくと食事することが増えたので俄然としてスピードは速くなる。断っておくが学科に友達がいないわけではない。いるけど休みの日にわざわざ会うほどの仲ではないのである。向こうに足労かけるのも悪いし俺だって面倒臭い。何より自分と違い彼女持ちというのが大きいだろう。
(別にいいさ。俺だって彼女を作るための布石を打ってる最中だし)
俺はおもむろにうつ伏せになりながらソファベッドの下へと右腕を伸ばす。そこにあるのは『十角館の殺人』を含む三冊の本。昨日の夜、五花が来た際に気恥ずかしさから咄嗟に隠してしまったものである。
(ええと……これか……?)
手探りでそれとおぼしきものを見つける俺。しかし、何やら違和感があった。本の角に布のようなものが引っ掛かっているのだ。そういえば隠すときに一緒に奥へ追いやってしまった覚えがある。シャツかタオルだろうか? まあ、なんちゃらは一見に如かず。あれこれ考えず白日の下に晒すのが合理的だ。俺は躊躇も否応なくそれを引きずり出した。
(なっ……!?)
そう息を呑む俺。
もし白日の下に決して晒してはならないランキングなるものがあれば確実にベストテンにランクインするだろうものがなんと電灯の下に晒されていたのである。
(白くて……穴が三つ……)
その純白色の布には大きな穴が一つとそれより小さな穴が二つ空いている。前者は女性の腰回りにフィットするようなもの。後者は女性の太もも回りにフィットするようなものだ。
(まあ……疑う余地なくパンツだよな……)
もちろん下着の。ショーツやパンティーと言った方が正確かもしれない。「パンツはパンツでもハーフパンツでしたー」などの姑息な叙述トリックを使う気はさらさらない。これは女性が下半身に直接身につけるものであると俺の名において断言しよう。
(なんでこんなものが俺の部屋に……?)
女性が穿く大きさのものにしては柄がダサすぎる。白地に猫のキャラをプリントとか五花が小学生のときに穿いてたくらい……だ?
(いや……まさかな)
それがありえないことは俺のような童貞でも分かる。五花のパンツは彼女が中学に上がってから一度も見ていないが、こんな子どもっぽいものを今でも穿いているとはとても思えない。きっとこれも風のせいに決まっている。そうに違いない。
(ノックス第六条。偶然の発見や第六感で事件を解決してはならない)
イギリスの聖職者にして推理作家であるロナルド・ノックスが提唱した推理小説を書く際の基本指針『ノックスの十戒』。以前、勝てば御来屋と別れさせることができる推理ゲームを五花としたときに聞いたそれがふと俺の脳裏を過る。第六条は勘で物事を片づけることを禁じている。そうだな。さっきの葉ならまだしも自室に突如現れた女性用パンツ(尻のデカい女児用かも)を風なんかで解決してはならない。しっかり推理しなければ。
で、簡潔にその推理をまとめるとこうなった。
登場人物――俺、五花、御来屋。
場所――俺の部屋。
時間――二十四日の日没から現在まで。
概略――ホコリが服につかないよう下着姿で俺の部屋の床を水拭きしていた五花。しかし、何かの拍子にバケツの水を零しパンツを濡らしてしまった。仕方なくそれを脱いでいるとなんと御来屋が来訪。彼女は慌てて咄嗟にソファベッドの下にパンツを隠した。そしてズボンだけを穿いたまま御来屋を迎えた。しばらくして俺が帰宅。それに伴うパイタッチ騒動の衝撃は胸にだけ意識を向けさせるものですっかり自分がノーパンであることを彼女に忘れさせた。トイレのときだって普段パンツごとズボンを下ろすならば気づかなかっただろう。で、次の日の朝。自分の部屋に戻ってシャワーを浴びようとするときにようやく思い出した。足りないそれは俺がいる隣の部屋にある。彼女は俺を朝起こすためにその部屋の合鍵を持っているので、できればバレないように回収したい。御来屋とのデートは昼から。きっとそれまでに俺が外出していれば黙って忍びこんでいたに違いない。だが、あいにく俺は外には出なかった。出たは出たがそれは五花が諦めてデートに出かけてしまった後のことであった。そして、そのデートから彼女が帰ってきたのはおそらく俺が自室で読書をしている真っ最中。さすがにそろそろ俺に見つかってしまうと判断した彼女は強行突破でパンツを回収することを決意する。玄関先で俺をすり抜け居室のソファベッド下に手を伸ばした。しかし、ない。俺が後を追って居室に入ったときにしゃがみながらキョロキョロしていたのはそのためである。まあ、実際にはそこにちゃんとあったのだが俺が本で奥に追いやってしまったのですぐに見つけることができなかったのだ。その後の俺と彼女の会話はただの馬鹿けた勘違いコントでしかない。彼女は葉ではなくパンツを探していた。だから、パンツをベランダに捨てた兄へ気絶させるほどのビンタをかますのだって不思議なことではなかった。むしろ当然の権利と言えよう。そんなこんながあって俺が手にしているこのパンツは二十四日の夜から二十六日の昼過ぎまで誰にも発見されることなくソファベッド下に眠り続けることができたわけだ。
(これでQED。証明終了だ)
いや、何が『QED』だ。自分の迷推理ぶりにはドラマやアニメに出てくるような探偵気分を味わえない。こんなアホらしいことをかっこつけて推理する探偵がいたら安楽椅子に一生縛ってやる。全然、簡潔にもまとまってないし。
(外連味だよな……)
起きてから何度目になるか分からないそれを心の中でぼやく。外連味とは、はったりを利かせたりごまかしたりすることを意味する。好きなライトノベルの主人公の口癖を独自にアレンジしたもので俺自身の口癖となっている。
(葉っぱならともかく妹のパンツは部屋に置いときたくないよなあ)
こんなもの汚いだけ。俺は妹がどんなに可愛くても決して欲情しない健全なる兄である。たとえ胸を揉んだとしてもそれはスキンシップでしかない。ただ柔らかいなと思うくらい。なのに、五花は俺に対してたまに貞操の危機を感じているらしい。何とも酷い話だ。彼女に欲情するのは彼女の彼氏の役目だとしっかりわきまえているのに。
(だから、この問題の解決にはあいつを呼ぼう)
五花に欲情する専門家である御来屋蔵之助。やつにパンツの返却を任せよう。一度ベランダに捨てたと言った俺は返すことができない。それまで何に使ってたんだという話になるからだ。もしそれを親父にでも告げ口されたら勘当される危険性がある。ここはパンツをクンカクンカスーハ―スーハ―してもまったく問題ない彼氏の出番だろう。
俺は未だ充電ケーブルに繋がれたままソファベッド上に転がるスマホを掴み上げケーブルを引っこ抜いた。これからする動作には邪魔である。
「あっ、もしもし。古着屋くんか?」
『いえ、違います。確かに下の名前は雨の日にサービスをしてくれる古着屋と同じですが僕の名前は御来屋です。先輩、間違い電話だったら切りますよ?』
電話口から聞こえる喧騒に混じる冷たい声は正真正銘目的の相手のものだ。アドレス帳から呼び出してかけたので間違えようもない。
「悪い悪い。お願いだから切らないでくれ。緊急の話があるんだ」
『本当に緊急の話があるなら人の名前を間違えませんよ……』
御来屋のその反論は些か的を射ていない。人は緊急時にこそ慌ててしまい普段なら間違えないようなこともうっかり間違えてしまうのだ。そこまで緊急時じゃなくてかつ普段から間違えているやつは知らないけど。
「と言っても難儀な話だし直接話した方が早いし分かりやすいな。すまないが俺の部屋に来てくれるか?」
『えっ? 今からですか?』
「駄目か?」
というか、こいつ今どこにいるんだ? 妙にガヤガヤと騒がしい場所にいるようだが。「ノットクリア! ノットクリア!」と甲高い声や野太い声が微かに聞き取れるのがもしや手掛かりか?
『今、大学近くのゲーム屋で県内最強の小学生ゲーマーと名高い泊大悟くんと「戦国強者レキシング」で勝負してるんですよねえ。来月、初公式大会の予選があるんです。おそらくテレビアニメ化に合わせたプロモーションも兼ねた大会でしょうね』
「ものすごくお前らしいけど何やってんだよ!」
大学生と小学生が同じ卓に着いてカードゲームに興じる光景を想像してみたがシュールすぎる。御来屋蔵之助。俺に埋もれて目立たないがかなり痛いやつだ。
『真剣勝負に決まってるじゃないですか。ちょうど五セットマッチ三セット先取で僕が二対一でリードしたところです。不本意な通り名ですが歓声も聞こえたでしょう?』
「知るか!」
あれ歓声だったのかよ! その泊大悟くんとやらがどれほどの凄腕ゲーマーか知らないが小学生に勝っているだけで誇らしげになるな。弱く見えるぞ。
「どうでもいいからさっさと俺の部屋に来い。五花が大変なんだ」
『えっ……いっちゃんが……な、何があったんですか!』
先ほどまで余裕綽々だったくせに御来屋は途端に掠れた声を上げて動揺する。本当に五花のこととなると冷静さを欠く男だなあ。ときおり危うさを感じもする。
「詳しいことはここでは言えないが結構大変なんだ。そして、五花を救うことができるのはお前しかいない。俺ではとても無理だ」
妹に欲情する兄と勘違いされて親父に勘当されるから。普段は優しい父親だけど怒るとえらく恐いのだ。
『わ、分かりました。そちらに向かいます。でも、今やってる勝負を投げ出すことはできません。だって、いっちゃんと約束しましたから。たとえ何があっても一度挑んだゲームからは逃げないと。それが真のゲーマーのあるべき姿。リセットなんて考えられない』
そう毅然とした口調で言われてしまうが、こいつはコロコロコミックの主人公か何かなの? もしかしてカードゲームで世界征服を目論む羞恥心の欠片もない悪の組織でもいるのだろうか? 路地裏に一晩で樹が生えたりポルターガイスト紛いなことが起こったりと世界観が崩壊しすぎだ。それとも俺が知らないうちに世界線を移動してしまったのかもしれない。何にしてもファンタジーである。
「ああ……もうそれでいいよ……どうせやるならさくっと勝てよな」
あと一セットだけ取れば御来屋の勝ちなのだ。ここで無駄な話をせず今すぐその熱い勝負に戻らせた方が早いだろう。そこまで『戦国強者レキシング』って面白いかなあ。一回やっただけで飽きてしまったんだけど。基本的に物事に打ち込むきらいが俺にはないのである。
『はい、もちろんです。僕はハンデはつけても手加減はしませんから。それではまた後ほど』
と、通話は切られる。はて? オフィスマナーでは電話をかけた方が先に切るべきだったか後に切るべきだったか? なぜかそれを考えてしまったが、まあ、俺と御来屋の仲では関係ないだろう。
大学近くのゲーム屋から俺のアパートまでならたとえ徒歩でもそんなにはかかからない。そして『レキシング』一セットの費やされる時間は多く見積もっても三十分ほどである。おそらく四十分もすれば彼はやって来るはずだ。
そのまま手に持つスマホに表示される時刻を見てみると午後二時五十二分。最近、湖山さんのツイッターをチェックしたりで何かとスマホをいじる機会が多いので右手首に巻く腕時計が意味をなしていない。
(待っている間に読書するか)
それが当初の予定である。身内の贔屓目に見ずとも可愛い女子のものであっても汚いパンツをひっかけてしまった三冊の本。それらに多大な詫び言を述べながら俺はその中の一冊『十角館の殺人』のページを捲りだした。
それから百数十ページほど読み進めてある点に引っかかった。ストーリーとはまったく関係ない私事情だ。
(……セブンスター)
青年が寺の三男坊である男にセブンスターを渡すシーン。それが二日前にした名和聖との邂逅を俺に彷彿とさせたのである。彼とはもう今後一切会うことはないはず。しかし、執拗につきまとわれているような感覚が背筋を伝った。
ピンポーン。
それに顔をしかめているとインターホンが鳴った。どうやら御来屋が来たようだ。しかし、俺は玄関先に出ようとはしないで押入れの中へ隠れた。その際にこたつの上を一瞥すると、隅には消しゴムで押さえられた常磐色の葉、中央には純白色のパンツがあった。
「みまつやか? 鍵空けてあるから勝手に入ってきていいぞ」
襖の隙間から顔だけを出して呼びかける俺。その声がしっかり彼に届いたことは玄関先のドアが開いた音から窺えた。その後、ほんの数センチだけを残して襖を閉めた。奇行だと思われるかもしれないがスムーズに事を進めるための奇策である。
数秒後――。
「僕は日曜六時放送のアニメに出てくる雑貨屋ではありません!」
キッチンから居室へと続く立てつけの悪いドアは不協和音を立てる暇さえ与えられずに勢いよく開け放たれた。
「……って、あれ?」
しかし、そこに俺の姿は見えない。
「先輩ー。どこですかー? なっ……!?」
目立って見えるのは純白色のパンツだけだ。襖の隙間から覗くことのできる御来屋は一時間前の俺と同じように息を呑み驚愕の反応を示している。そして僅かな逡巡を見せはしたものの、わなわなと手を震わせながらそれを掴み上げた。
「かかったな!」
と、そこで俺の登場である。
「せ、先輩!? なんで!?」
俺が仕掛けた罠にまんまと引っかかった御来屋は目をチョコボールのように丸くして裏返った声を出す。
「そりゃあ、俺の部屋だからな。さながらドラえもんのごとく押入れで寝てても何も問題あるまい」
あるいは俺みたいにクリスマスに苦い思い出を持っている変態紳士と言った方が例えとしては妥当か?
「それよりもお前。その右手に持っているものは何だ?」
「いや……パンツですが……言っておきますがここに置いてあったものですからね? 誤解ないように」
御来屋はあらぬ疑いが自分にかけられないようこたつの上を指差しながらにべもなく言う。ああ、ここは五階ではなく二階だ。
「じゃあ、さらに説明要求。それは誰のものだ?」
「そんな僕が知ってるわけないじゃないですか」
「なんと五花のものだ」
「なっ!?」
チョコボールである眼球が飛び出るほどの衝撃を受ける御来屋。彼氏ならそれくらい分かれよ。分からないなら別れろよ。
「な、なんでそんなものが先輩の部屋にあるんですか!」
「まあ、話せば長くなる複雑な事情があってな。だから、お前を直接ここに呼んだんだ」
複雑というか複雑怪奇に満ちてるんだけど。俺は五花のパンツが自室に落ちていたことの説明をできるだけ噛み砕いて説明する。ややこしくなるので葉については上手く省略して。
「つまり、いっちゃんはノーパンのまま焼肉を食べていたんですか……」
それを聞いた御来屋は張り合いが抜けたような調子で言葉を漏らした。
「ああ、そうなるな。しゃぶしゃぶじゃないのが惜しいところだ」
「ええと……何言ってるんですか……?」
ありゃ? このネタは通じないのか? ちょっと残念。たった一歳違いでもジェネレーションギャップがあるのか、それともこいつがその手の話題にただ疎いだけかのオルタナティブだった。
「まあ、いいや。で、お前にはこのパンツを五花のところへ返してきてほしいんだ」
「えっ!? 嫌ですよ!?」
御来屋は俺の申し出にそぐう気はないと必死に首と手を左右に振るう。
「言っておくが、お前に拒否する権利は微塵もない。デスノートに触れれば死神が見えるようになるようパンツに触れれば死の淵を彷徨わなければならないのだよ」
「いや、まったく説得力のない論拠ですよ!?」
五花のパンツを触ってしまったという背徳感を植えつけるために押入れに隠れていたのだがどうやら失敗に終わってしまったようだ。やはり人にお願いをするときは素直に誠意を見せるのが一番か。
「そこを何とか頼む!」
だから、俺は顔の前で手の平を合わせて拝んだ。つまりは「いただきます」のポーズ。それを御来屋に対して向けた。カニバリズムではない。
「いやいや、無理ですよ!? 惨劇しか目に見えないじゃないですか!?」
「お前の愛する彼女だろ? 惨劇のヒロインと言うとなんか悲劇のヒロインっぽくて聞こえがいいじゃん」
「聞こえだけですがね!」
プライドをかなぐり捨てて誠意を見せても駄目か。一旦、ここは話を逸らしながら別のアプローチ方法を探ろう。だいたい交渉中に俺が用いる常套手段だったりする。スリルな世界を生きているよう聞こえるが主な交渉相手は五花だ。
「逆に喜劇のヒロインってあまり耳にしないよな。湖山さんがこの前演じてた『ハムレット』はヒロインじゃなくて主人公だったけどあれは何になるんだ?」
「急に話を変えてきますね……ええと、『ハムレット』は『マクベス』『オセロ』『リア王』に並ぶ四大悲劇の一つだった気がします。人間の愚かさや醜さといった業の深いものを扱った作品ですね」
「ん? よく聞く『ロミオとジュリエット』が入ってないけどあれはじゃあ喜劇なのか?」
俺の記憶違いでなければこれもシェイクスピア作品のはずだ。
「いえいえ、『ロミオとジュリエット』は悲劇の代名詞とも言える名作ですよ。ただ四大悲劇には数えられていません。四大悲劇は登場人物の持つ性格が原因で悲劇が起こりますが、男女間の悲恋を扱った『ロミオとジュリエット』は周囲の状況や運命によって悲劇となっていきます。作風も結構軽い感じですしね。そこら辺で区分されているように思います」
「そうなのか。解説サンキュな」
喜劇非喜劇、喜劇あらず。
俺は得意顔で教えてくれた御来屋に労いの言葉をかけてやった。
「ノーサンキューですよ」
こいつのこの勘違いは正してやった方がいいのかなあ。「それは勧誘や申し出に対して断る言葉だ」と。こうも堂々と間違いを披露されるとさっきの解説も途端に信用がなくなってしまうじゃないか。
「にしても『悲恋』か……」
しかしまあ、間違いを指摘しない意地悪に愉悦を感じてしまう性質なのでやらない。それよりも喉に引っかかったケンタッキーフライドチキンの骨のように気になるものがある。
「悲しくともそれは恋……確か十月にあった学園祭では演劇サークル、その『ロミオとジュリエット』をしたみたいなんだよなあ……湖山さんがヒロインのジュリエット役で……これについてお前はどう思う?」
今、自分が抱いてしまった感情が一般的であるのかそうでないのか。それを参考程度に目の前の彼女持ちの男に向けて尋ねたかったのだ。
「いえ、別に僕はどうも思いませんが? まあ、強いて言うならオリジナルの劇をやらないところを見るに脚本家が不足しているようですね」
しかし、返ってきたのは予期せぬ答え。どうやら御来屋は俺が訊いた質問を誤った捉え方をしてしまったようだ。
「いやいや、その見方も面白いけどそういうことじゃない。湖山さんがヒロインのジュリエットなら、それに対応する主人公のロミオがいたはずだろ? お前だって愛する五花が他の男と愛を囁きあってたらいい気はしないはず……嫉妬するはずだ」
だから、今度は懇切丁寧に質問し直してやる。
俺はロミオの存在を認めることはできない。
お前はロミオの存在を認めることができるのか。
嫉妬は正当な感情なのか。
愚かで醜く業が深いのか。
そこから生じてしまった疑問であるのだと――。
「うーん、どうでしょう? あくまで演劇の役回りだけでなら僕はいいと思いますよ」
そして、再度、返ってきたのは寛容な答え。つまり、俺が抱く嫉妬の感情を否定するものであった。
「さすがにキスシーンで本当にキスをしたら少し嫉妬してしまうかもしれませんがね。でも、大学祭で発表するような演劇だったら大丈夫でしょう。精々したとしてもフリくらいですよ」
「そ、そうか……そうだよな……」
いや、違う。どうしてこうも楽観的になれるんだ。自分に降りかかってくる問題ではないからか? 俺に言わせればこいつのような男は都合のいい彼氏としては満点だが、一途に彼女を愛する彼氏としては落第点だ。及第点にすら届かない。
「あのプロの宝塚でもキスシーンはフリだけというのは有名なことですしね」
しかし、それを糾弾してやっても仕方ない。長年付き添ってきた兄だから分かるのだが、五花は他の男には絶対浮気しないやつだ。そんな女子を好きになり付き合うことに成功した男にはやはり何も関係ないことなのだろう。この話はここで終わらせるべきだ。
なので、俺はいつものおちゃらけた調子で物を言いだした。
「そこまで有名なことか? 博学卓識なことに定評のある俺が今、初めて知ったんだけど」
何というか『博学卓識』という四字熟語を使ってる時点ですでに博学卓識ぽい。うん、これからはアナーキーなギャグ路線を外れてインテリ路線に走ってもいいかもしれない。芸人が実は高学歴だったというのはよく聞くし。俺も一応はそれなりに名のある大学に通っている学生だ。
「先輩はときどき妙に自分を過大評価しますよねえ。じゃあ、試しに五問ほど問題を出してみてもいいですか?」
「ああ、いいぜ。クイズ番組に出演しまくってバンバン稼いでやる」
そして、ゆくゆくはバラエティ番組の司会の座につく。
「『悪貨は良貨を駆逐する』という法則は提唱したイギリス人の名前から何というでしょう?」
「『グレシャムの法則』だろ? 余裕余裕」
「ほう、正解です。では、次。コナン・ドイルの小説『緋色の研究』で初登場した探偵はシャーロック・ホームズですが……」
「ありゃ? これって早押しクイズだったっけ?」
「いえ、違います。牛追いタイムバトルクイズです」
「なんでノーパンしゃぶしゃぶを知らない人間が一九九八年に復活放送された『アメリカ横断ウルトラクイズ』を知ってんだよ!」
ここはテキサスじゃない! 日本の俺の部屋だ!
「『ギリシャ語通訳』で初登場したシャーロック・ホームズの兄の名前は何というでしょう?」
「無視かよ!?」
流暢に問題を口にする御来屋にツッコむ。問題の中に問題を作りだすなよ。一九九八年といえばこいつや五花はぎりぎり生まれていないはずだ。俺ですら物心はついていない。そんな俺が『アメリカ横断ウルトラクイズ』の内容を知っているのはたまたま動画サイトで観たからだ。
「でまあ、その問題の答えはマイクロフト・ホームズだろ?」
最近、推理小説について調べる機会があったので分かる。
「これまた正解です。では、三問目。三匁は何グラムでしょう?」
「くだらねえ……」
わざわざルビなんか振っちゃって。五花と会話をしている気分になってしまう。彼女の何かが彼氏に感染したと言えば卑猥で不謹慎か。
「ええと……一匁が三・七五グラムだったはずだから三匁は十一・二五グラムになるかな」
暗算だけど。数学的思考と単純計算能力は比例しない気がする。俺が数学科内で成績不良なのがそれを如実に物語っている。
「正解ばかりでつまらないですねえ。では、四問目。漢方治療の特徴を示すときの四字熟語で同じ診断名で人によって違う薬が処方されること、異なった診断名に対して同じ薬が処方されることをそれぞれ何と言うでしょう?」
「おっと、これは知らな……いや、失敬。言い間違え。ド忘れだ」
「素直に知らないと言えばいいじゃないですか」
「いやいや、知ってるって。このスマホで検索すれば」
俺は御来屋に対して愛用のスマホを掲げて見せる。
「それを知らないと言うんですよ。無知の知くらいはあってください」
自分が無知なのは分かっているが、今までの三問をスムーズにドヤ顔で正解してきただけにここで間違えてしまうのは悔しいなあ。要するに往生際が悪いのだ。せめて何か一矢でも報いたい。
「……じゃあ、クイズの解答者ではあるがこちらから問おう。お前はもちろん五花のメアドを知ってるよな?」
「それはまあ、知ってますよ。昨日はしませんでしたが、ほぼ毎晩やり取りしてますし」
惚気るな。いちゃつくな。ちちくりあうな。
「では……何も見ずにそのメアドを一字一句間違えず紙に書き出すことができるか?」
俺は神妙に居住まいを正して問いただす。
「いえ……できませんね。最初の文字はkだった気はしますが……」
そして、御来屋は彼女のメアドを暗記していなかった自分に歯痒さを覚えて目を伏せた。よし、これで一矢報いることに成功。さらに追及すれば四問目を正解することができるかもしれない。
「だろ? なのに、お前は五花のメアドを知っていると言った。スマホのアドレス帳を見ないと分からないというのにだ。つまり、俺がクイズの答えを分からなくてもスマホで調べてもいいというわけだな」
「あれ? 途中までは納得できたのに最後だけよく分かりませんでした。すみませんが、先輩。もう一度言ってくれますか?」
「お前は五花のメアドをスマホを見ないと分からない。俺はスマホを見ればクイズの答えが分かる」
そう俺が名言めいたセリフを吐くと場が沈黙に支配された。それから、幾ばくかの時が流れ……。
「ありがとうございます。分かりました」
「おう、分かってくれたか!」
「詮ずるところ屁理屈ってことですね?」
「……まあ、そうだな……」
「四問目は不正解でいいですよね?」
「ああ……」
なんとナントの勅令のごとく四問目の不正解が確定してしまった。何とも残念なことである。
「ではまあ、気を取り直して最終問題といきましょうか」
そして、御来屋はぐーと伸びをしながら間延びした声を漏らす。
「おい、ちょっと待て。結局、四問目の正解は何だったんだ?」
クイズにおいて必要な工程を一つ飛ばしてしまってるじゃないか。不正解のときに解説がないクイズなんてイラストのないラノベみたいなものだ。読むにも値しない。人に読ませるべきではない。
「それはあなたの言うようにスマホで調べてくださいよ。というより、自分でどんな問題を出したのか忘れてしまいました。『妹のパンツをまったく関係のない者に返却させる行為はいいのか? 悪いのか?』でしたっけ?」
「おいおい、そんなことをするやつがいるわけないだろ。もしいたら一体全体どういう心境をしてるのかと詰問してやりたくなる……って、何だ? その指は?」
御来屋はなぜか俺の真後ろに人差し指の先端を向けている。ん? 何かあるのか? 俺はおもむろに振り向く。しかし、何もない。あるのはキッチンへと続く立てつけの悪い木製のドアだけだ。
「いや、あなたのことですよ!」
背中に大喝が降りかけられたので、その声の主の元へ向き直る。
「おいおいおい、何言ってんだ? まったく関係ないってことはないだろ。お前は五花の彼氏なんだから。彼女からパンツを借りるのが彼氏の義務じゃないのか?」
「じゃないですね。権利だったらあると主張する男はいるかもしれませんが変態です」
バレーボールをトスするかのような軽い口調で御来屋は俺を突き放す。まあ、俺たちの間では日常茶飯事だ。
「ああもう、先輩の部屋に落ちていたものなんですから先輩が返してきてくださいよ。僕が返しに行ったら最悪、別れ話が始まってしまいます」
俺が返しに行ったら勘当されるけどな。全米が泣いてしまう。
「それでも頼む! ミクえもん!」
「なんかボーカロイドとドラえもんがタイアップしたみたいになってますね……僕は御来屋です」
ミクえもんならず御来屋は呆れた様子で自分が手にしているパンツを見る。それから少し躊躇いを見せ……。
「はあ……分かりました。秘密道具で何とかしてみます。いっちゃんの彼氏だからという体ではなく、あくまで悪魔のような先輩の頼みを無理矢理聞かされる後輩という体ですがね」
と、肩にかけていた紺色のメッセンジャーバッグを腹の前に回し前ポケットをごそごそとしだした。まさしくドラえもんみたい。そして、取り出されたのは……。
「ババーン! いっちゃんの部屋の合鍵です!」
「おう、さすが彼氏だな!」
三本の鍵の束がキラキラと輝いて見える。おそらく残りの二本は実家の鍵と自転車の鍵だろう。初めて御来屋の存在を快く思う。だから、そこまでの深い仲なんだなということは言及しないでおいてやろう。
「これを使っていっちゃんの部屋に入ります」
「おうおう。で、こっそりパンツを衣装棚に仕舞うわけだな」
「はい。完璧で穴のない作戦でしょう?」
「パンツには穴が四つ空いてるけどな。あっ、女は三つだったか」
女子大生の部屋に侵入して衣装棚を漁るストラテジーがそのすぐ隣の部屋で目論まれていた。驚くことに首謀者は俺だ。
「先輩。今、いっちゃんが部屋にいるか分かりますか?」
「ちょっと待て。ベランダに出てみれば分かる」
俺は西側に構えられた窓をすーうと横に開けて不気味なくらいに綺麗なベランダへと躍り出る。右側の部屋の窓を見ると明かりは点いていない。物音一つも聞こえないことから運良く出かけていると窺える。
「よし、大丈夫だ。オーバー」
芝居めかしたハスキーな声を出しているつもりの俺。気分はスパイ映画の主人公。別に相互通話できない無線機を使っているわけではない。ただベランダから部屋の中へ呼びかけただけである。
「了解です。オーバー」
しかし、御来屋はそれに合わせてくれる。ノリのいい愉快なやつ。五花と結婚しないなら義弟にしてもいいかもしれない。そう思いながら俺は部屋に戻る。ホコリ一つ落ちてないので足を払う必要はない。
その後、俺は御来屋の目を見据えながら作戦の概要説明を始めた。
「俺は五花が急に帰ってこないかを見張るために廊下に立っておく。お前はその間に部屋に入ってバレないように懐に隠しておいたパンツを衣装棚に押しこむんだ。分かったな?」
「えらく先輩は楽な仕事ですね。オーバー」
「いや、もうオーバーは言わなくていい……」
もしや気に入ったのだろうか?
「で、そうやって楽な仕事とは言うが仕方ないだろ。俺は五花の部屋にたとえ本人がいたとしても入ることを許されてないんだから」
彼女曰く「貞操が危うくなる!」らしい。
「その点、お前は五花から合鍵を渡されてるから本人がいなくても入ることを許されてるわけだろ? 適材適所を考えたらこの布陣が妥当だ」
もし途中で五花が帰ってきたとしても上手い具合に誤魔化すことが可能なわけだし。そう考えると俺が見張る必要もない。役立たずだ。
「はあ……まだ理不尽な要請だと思っていますが諦めて納得してあげましょう。唯一考えられる最悪の展開は僕がパンツを衣装棚に仕舞うほんの僅かな間をいっちゃんに見られるのみですしね。それも奇跡的にタイミング悪く。だから、さっさと終わらせてしまいましょう。オーバー」
やっぱり気に入っていた。オーバーなくらいに。
「ああ、行くぞ」
思えばこれが俺と御来屋の初めての共同戦線が結ばれた瞬間であった。




