第二部:5
夜空に見える星の数を知っているだろうか?
俺たちが生活する地球が属している銀河系にはおよそ二〇〇〇億個の星があって宇宙全体に銀河は一〇〇〇億個以上あると考えられているが、そんな途方もない天文学的な数字を問うているのではない。人間が夜空を見上げたときに肉眼で見ることのできる星の数を問うているのだ。
星の明るさは等級でランク付けされている。明るい星から一等星、二等星……となっていき、肉眼で視認することのできるぎりぎりが六等星である。この一等星から六等星までの星の数の合計は全天でおよそ八六〇〇個。我が国、日本がある北半球でその半分が見えると考えると、八六〇〇を二で割って四三〇〇個。とは言っても、地平線近くの星はもやなどで隠されるので実際に見えるのは三〇〇〇個ほどだろう。それも冬場の空気が澄んだ街明かりの少ない場所にわざわざ行って――……。
「ん……」
目を覚ましたそこは自室のソファベッドの上であった。能動的に眠りに就いた記憶がないのは寝惚けているからだろうか。
「あっ、起きた」
いや、思い出した。俺はこの傍らにしゃがむ妹にビンタをされ気絶してしまったのだ。我ながら情けない。
「ごめんね……お兄ちゃん。まさか気絶してしまうとは思わなくて……」
しおらしく頭を垂らす五花。そうされると俺も無下にできなくなる。
「……いや、いいよ。ところで、今は何時だ?」
「だいたい九時くらい。もちろん夜の。だから五分くらいお兄ちゃんは気絶してたことになるかな。さすがにやばいと思って一一九番に電話するところだったんだけど良かった。本当にごめんね……」
五花はまだ負い目を感じているよう。なんか可愛いなこいつ。今ならキスしても怒られないかもしれない。しかし、先述した理由からやはりやらない。それにたとえ今は良くとも後が怖いのだ。
「だからいいって。気にするな。それよりすまないがテレビを点けてくれないか? ニュースが気になる」
なので、話を逸らすためにこう返してやった。純粋に今朝からニュースを見ていなかったからというのもある。あの不可解な樹に関する続報も気になるところだ。
「多分、今は某放送局……NHKでやってるはずだ」
「なぜ一度伏せようとしたのにはっきり言うの……」
「いや、毎月ちゃんと受信料払ってるから」
「それは関係ないと思うなあ……まあ、分かったよ」
いつもならここでまた一悶着があって、なかなかテレビを点けてもらうことが叶わないのだろうがビンタの負い目が効いている。すぐに五花はこたつの上のリモコンを手に取ってくれた。紙一重なんだろうけど性欲ならず征服欲が満たされる。たまにはきついビンタもいいものだ。
『法務大臣は消費税率に引き上げについて法律に従って来年の……』
そして、テレビはつまらない記者会見の様子を映し出した。おそらくこれがこの番組で最初のニュース。正直、消費税が多少引き上げられても俺は構わない。強いて言うなら百十円でものを売る百円ショップがいつまでその詭弁を続けていられるかにだけ注目している。今はあの樹に関するニュース以外は気にならないのだ。
「というか、お前よく俺をベッドの上まで移動させることができたな」
なので、俺はそれを待つ間、ソファベッドにもたれながら体育座りをしている五花と雑談に興じることにした。
「ビンタで人を気絶させることができるんだから当然でしょ。力で人を傷つけてしまったらそれで助けないといけないよ。逆に人を助けるなら誰かを傷つけないといけない」
目を細めて教訓めいたことを言われてしまう。いや、いつものように楽しい会話に発展させるために振ったんだけどなあ。シリアスパートは嫌いだ。しかし、深刻なことを蔑ろにできる性質でも俺はないのでそれに関連した質問を投げかけることにした。
「じゃあ、結構小さいときから走ったり筋トレをたまにしてるみたいだけど何か理由でもあるのか?」
あと肉ばっかり食ってタンパク質を摂ったり。それを幼稚園児のときから。とてもスポーツやダイエットのためではないように思える。
「うーん……あるけどお兄ちゃんには秘密かな。ううん、お兄ちゃんにだけは。恥ずかしいし私の勘違いかもしれない。まあ、勘違いするのも恥ずかしいことだからどちらにしてもだね」
五花は可愛くはにかみながらそう答える。今日は妹可愛さ五倍デーだ。
「……そうか。だったら、詮索しないでおいてやるよ」
その可愛さに免じて。可愛いは正義とはよく言ったものである。
『次のニュースです。今朝、唐王市内の住宅街にて一本の樹が生えていたことについて……』
「きたか」
ちょうど「次は何の話をしよう」と考えていたときに番組はお待ちかねのニュースへ移った。五花と二人してそれをジーと黙って見る。そして、五分足らずで終了。短い。こういうオカルトチックなものは主婦が昼間に視聴するワイドショーで一番取り上げられているのかもしれない。
「相変わらずよく分かんないね」
「ああ。とりあえず、この現象もとい事件の起こった時間帯が狭められたくらいが収穫か」
今朝のニュースに付け加えられた情報は二つ。
一つ目はアスファルトを突き破った不可解な樹が専門家ですら分からない新種のものであると断定されたこと。二つ目は二十五日午前三時頃にあの路地裏を通ったと申し出た二十代前半の男女がいるということだった。証言に応じた男女はその時点でも何も不審な点はなかったと言う。
「午前三時から午前七時十五分までの四時間ちょっとの間……」
ますます何がどうなればこうなるのか分からなくなる。現象だとしたらどういう摂理で。事件だとしたらそもそも目的は何なのだろうか。
「ねえ、その若い男女ってクリスマスデートの帰りだったのかな?」
「ん? まあ、そうだろうな。カップルがクリスマスの夜に一緒にいたんだから。でも、そんなの重要じゃないはずだろ」
目の付け所がシャープじゃないことを口にする五花に「らしくない」と思いながら俺は答える。
「だよね。うん、少し気になっただけだから気にしないで」
その「少し気になった」に至った過程が気になるのだが。
「もしかして今日のデートで御来屋と何かあったのか?」
「本人がいないところでは間違えずに名前呼ぶんだね……」
「しまった」
これもシリアスパートの魔の手か。早くギャグパートに戻りたい。
「もうつまらない意地なんか張ってないで呼んであげなよ。ゆくゆくは私の苗字にもなるんだからさあ」
その五花の物言いは御来屋と特に何かあったわけではないという意思表示も兼ねた優しいものであった。
「やっぱりお前も結婚を考えてるんだな……」
「そりゃあね。何? 寂しかったりする?」
「はっ……そんなわけないだろ」
吐き捨てたそれは強がりではないはず。妹がよそに嫁に行って寂しいなんてあるものか。むしろせいせいすらする。変な勘違いをされてもらっては困る。だから俺は続けて補足をした。
「でも、俺より先に結婚されるのは悔しいな。兄として面目丸潰れじゃないか」
たとえたった一歳違いの兄妹でも。兄のつまらない意地――自尊心はそれを良しとはしなかったのである。一方、妹も道理は違えど相容れる思いを抱いていた。
「うん、私もお兄ちゃんより先に結婚したくないかな。色々と心配だもん。だから――」
そこで言葉は一旦切られる。時が止まったような錯覚を覚える俺。けれども、実際はほんの一瞬。文字通り瞬き一つの間でしかなかった。
「色々と大変だろうけど湖山さんのこと……応援するね」
こうして、大義名分を得た呪いは俺をさらに蝕んでいく。




